沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩536 国のあり方がわからない 4

2014年06月18日 14時22分51秒 | 政治論

 安倍晋三という、旧時代的跳ねっ返りが出てきたのは、この国の民主制が、本質的に理解されてない民主性に拠っているために、言わば猫も杓子も政治家になろうと思えばなれる、変な低レベルの環境性が支配的なせいではあるが、実を言えば政治の世界が明日をも知れぬ無法的泥沼にも拘らず、政治成果というのが誰の目にも明らかなものとして認識されるならば、これほど単純明快なものはないということだ。つまりそれが民主性である。

 民主性の反対命題こそ国家主義であり、国民国家という在り様は本来形容矛盾なものとしてしか認知されない。もし国民が国家と等式的にありうるとすればそれは全体主義以外にない。何故ならたった一人の独裁者が彼だけにしか通用しない思想のもとに教唆的にしろ自己主張した場合、彼はさながらルイ14世のように単独で国家と等価な存在として自己披瀝するだろうから。当然に彼は秘密警察を暗躍させ反対派を徹底的に弾圧するだろう。それはいわば、自身の中の悪弊と認識した異質な部分の断種にすぎない。それを断ち切ったところで残りは決してそのために死滅することはない。外科手術上の部分摘出である。ここでは人間的尊厳という感覚意識は度外視されているのだが、これを許すのは、全て人事に関しては統計学に究極し、これが機械的に事務的に命令下達される国家体制の軸として機能するからだ。そこに「人間」は存在せず、する必要もない。これが全体主義の正体である。従って国民国家という全体主義は、真に民主性を排除するだけの非人間的な機械化社会を実行すること以外ではない。その余があるとすれば安倍晋三の軍事的外交方針の確定化であり、ヒトラー並の第3世界制覇主義だ。

 未だかつて民主的な政治などという政治は行われたためしがない。我々は政治成果としてしか政治の局面に立ち会ってはいない。議会は議員が勝手にやっているだけで、国民は何時もツンボ桟敷に置かれている。信任が背任される連続である沖縄県の場合、議会制民主主義は破綻しているということだ。(つづく)