現在の所謂今上天皇昭仁(アキヒト)は昭和8年生の満80である。昭和20年敗戦時12歳だった。かつて皇太子のとき、自分が天皇になる頃には天皇制というのはなくなるだろう、というような発言もあった人だ。彼が認知していた天皇制は恐らくは戦前の現人神が敗戦と共に潰えてその制度(天皇制)自体存続の理由を失った、というものであり、昭和天皇が崩御すればこれを世襲するスプリングボードは戦後日本のどこにもない、と予感したのは当然のことだ。しかし日本国憲法は天皇を国の象徴とし、わざわざこの制度を法文化し存続させた、しかもその第一章を使って。そこには米国の日本占領政策と戦後日本国傀儡化のために治安維持(暴徒の抑制)的に必要な制度として考えられた経緯がある。東京裁判の最初にして最大の懸案たる天皇不訴追案件のクリアは政治的に仕組まれたこの裁判所の、米国主導の采配が際立っていた(ウエッブ裁判長は訴追すべきとしていたし、他に数人の裁判官も同調していた)。東條もまたこれに司法取引的に全面協力したのだ。もしかすると、戦後日本の不可思議な不健全さ(この不健全さは不意打ちに近い)は、民主化の跛行性と共に、ここが出発点だったのかもしれない。
その天皇夫妻が6月23日の「慰霊の日」の後26,27日に来沖するというのだが、当然沖縄の県民にも複雑な捉え方で迎えられることは見えている。6月23日は所謂沖縄戦の組織的戦闘状態が終止符を打ったとされる日であり、その象徴を第32軍司令官牛島満中将以下が自決したことに於いて決定づけられている。しかし実際上の戦闘はその後も間断なく続いていたのであり(ひめゆり学徒の悲劇は突然の解散放任によって路頭に迷った結果の惨劇だ)同年中に完全に戦闘は絶えたが、沖縄奄美琉球島嶼、小笠原諸島の場合、本土とは一線を画す戦後米国占領体制のもと、戦線なき戦場状態に据え置かれ、奄美、小笠原は本土帰属が比較的スムーズに執行されたのにも関わらず琉球沖縄は戦後69年間一貫して米軍による支配下に置かれ続けている。勿論1972年沖縄返還は密約による県民愚弄の「核付き、基地作り放題の植民地並み」返還であった。慰霊の日に来沖し「対馬丸記念館」を訪問するらしいが、そこには対馬丸殉難に対し平然たる一般化(一般的戦争記念碑化)が図られている。この非政治的存在のこうしたパフォーマンスは政治的勢力群に利用されないはずはない。問題は知事承認によって加速し始めた反民主的軍拡行為の感傷的ベール掛けが行われる、ということだ。天皇夫妻の来沖、対馬丸記念館訪問は何のケジメにもならないし、逆に県民慰撫よりたちの悪い「戦争のオブラート掛け」という欺瞞行為そのものである。(つづく)