沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩323 その4

2011年05月20日 17時36分21秒 | 政治論
 菅直人氏が被災者の怒号を浴びた後、天皇夫婦が誰に嫌気されることもなく穏やかな慰問に終始した絵は日本人の一つの精神傾向を象徴してはいるが、誰も「象徴天皇」に対して疑問を投げかけない以上こうした有様を渾然として整然とした戦後日本の戦無的国家完結状態と錯覚するのは無理もないことだ。要は国家非常時に右往左往する政治機能とはいったい何かと問う時、幕末の黒船事件においていかに弱体化していたとしても幕府が京都の朝廷に援けを求めた事実や、明治維新が王政復古という反近代的実質乃至名目に「仮託」したことや、統帥権の曖昧さによる、本来第一の責任者である「天皇」意向(戦争を望まなかったというが)を無視する方向の軍部の勝手な暴走に対し機能しない「文民統制」、戦後66年経過してさえアメリカ実質占領支配状況を脱し得ない現況(軽負担経済復興優先主義のアメリカ「仮託」という実質になる日米安保)、などすべてはこの国が決定的権力集中機能を有しない「仮託」の政治に依拠しているように推論してもさほど事実に反しないのではないかと思量する。そしてこれら歴史的事象のすべてに陰に陽に「天皇」が関わっていたことも事実であろう。しからばこの「天皇」とはいったい何なのだ。何故この存在は不変的に生き続けるのか。この「超越的」存在を自己の精神構造において真正面から問うた人はいないのか。我々国民は東電にも原子力委員にも政府にもあらゆる状況説明等に関し明瞭に自己責任においてこの未曾有の危難に立ち向かうという真摯な姿を一度も見たことがない。あらゆる「公人」が絶えず逃げ道を模索し必死に問題解決しようという姿勢に行くということがない。すべてがそうだ。これはいったいどうしたことなのか。この「腰抜け」加減は今に始まったことではなく戦時の「大本営発表」という言辞が一人歩きするように自己保身を旨とする「嘘」が公然と吐かれる国の体質を意味しているかのようにさえ思われてくる。こうした傾向がこの国を実質的に支配し、少なくとも原発に関してはとんでもない危険地帯に国民を誘導したのだ。こうしてみるとどうやらこの国を事務的に機械的に実効支配する官僚機構がうごめくさまが見えてくる。彼ら官僚に自己責任という概念はない。何故なら彼らには資料データ、概観に関する提言程度の情報収集集積機能しか必要ないしこれを使いこなす政治家さえしっかりしていれば彼自身に責任が発生するがものでもなく、いってみれば可能性の列挙という迷妄を生み出す方向にしかその力学ははたらかないのだ。かかる場合一般的には政治判断という機能が要求されるが、判断力というのは認識力を基礎とするので、例えば鳩山君が「抑止力」をでっちあげた普天間問題の如きなんらかの圧力さえ回避するなら常識的認識決断の悟性は通常の結果を用意できるのだが、どういうわけかそうでないケースが多い。(中断)