徳川二百五十年の鎖国太平の夢は、もくもくと煙を吐き出す鉄製蒸気船の黒々とした威容に気圧されてあっという間に醒め果てた。この時江戸はじめ浦賀や近辺の人たちには恐らくこの国や自分たちに何が起きているかを明確に知り得る何の手だてもなかったに違いない。
欧米諸外国は江戸幕府にその鎖国政策を解き放ち開国せよと要求していたのだが、二百年持ち来った国策は勿論容易に捨て去るがものではなかったので、国家経営上弱体化していたとはいえ幕府の開国を巡る稟議は当初から威圧的な諸外国に対し反発と敵意に満ちていた(攘夷論、異国船打ち払い令)。しかしやがて幕府は国家間の外交交渉としては明らかに不平等な和親条約、修好通商条約締結に至る。要するに欧米列強の強圧に屈して強引に門戸を開かされたのだった。此の国の一種の国家的開明は自生的内発に依らず外からほぼ力関係の結果として始められた。
このような実情は当時アジア(取り分け北アジア)一般に共通してあったものであり(幕府の鎖国政策が専ら禁教-反キリスト教を動機としていたにせよ)アジアがヨーロッパの侵攻の中で執った「排外主義」が、海外進出を旨とする欧米列強に対抗する有効で正当な手段であったことは間違いないので、国際化や近代化の過程で生じるであろう一国内での軋轢、齟齬、矛盾、混乱、錯綜は、その国民にとって極めて意味のあるドーパミンやアドレナリン奔出の実体験であったろう。自ら進んで最初から無条件に外交を望むというなら話は別だが、圧倒的な力関係でこれを迫られた場合個人にも国にも感覚上は尠からぬ抵抗意思として直接間接に現象するはずだ。この抵抗意思があるからこそその外圧への屈伏、従属、妥協という結果に敗北感が残る。残らなければ嘘になる。
大和民族においては、この、極めて肉体に近い部分での敗北感はどのように処理されたのか、言われているのは、他のアジア民族に比して日本人は驚くほど敏速に近代化を成し遂げ、あっという間に欧米並みの国勢を得た、と言うことなのだが、棘のように突き刺さる敗北感の克服も容易にかつ急速にできてしまったということか、では、その後富国強兵と帝国主義的発展の末、市場開拓のため戦争への道を歩み結果敗北した不手際は、どう説明するのか。説明できるのか。
筆者がその県民となっている沖縄では、周知のごとく、図式的に言えば本土政府と琉球の間で米軍基地を巡り国民あげて(国家政府による印象操作・情報操作が淵源だ)の差別的環境醸成の結果、戦後特に復帰後、市民による「非暴力不服従」運動が事あるごとに頻発し一種草の根運動となっている(運動自体が常態化している)。
ほかならぬ保守党出身の翁長知事の起承はこれを捉えて「オール沖縄」と銘打ち、反辺野古移設を以って糾合する手筈だった。しかしその後の転結は容易に予断を許さぬ急迫し窮迫した状況になってきている。それは国家権力の、ほぼ問答無用の圧倒的な行使によって、元々無力に近い地方行政体に無下に襲い掛かった結果として生じた異常な状況である。特に法的には一種のスラップ訴訟形質(国が国民を訴追する官尊民卑思潮)がまかり通り、地方自治法にも抵触する自治権はく奪の蛮行が司法を凌駕し、日米安保体制絶対優先国策が何を措いても施行されるこの国の非独立的国家運営には、国内や諸外国の有識者からあるいは国連等から批判と非難の声が向けられている。
いずれにしろ、琉球国としてのアイデンティティに基づく民族的なコンセンサスは、本土政府等がいかにガセ、デマ、数値的誤魔化し、本土向け印象操作、事実の捻じ曲げを繰り返しても、その反基地意思に何の衰微さえ見当たらない実情を遺憾なく発揮しているのである。ここに見られる「抵抗」は、勿論、琉球沖縄の虐待差別の歴史が醸成した、情念のマグマが垣間見せる真実の一つとも言えるが、一方では、外圧が加わるとき、人々が感覚的にこれを忌避しようとする、ごく当たり前の自然性向に過ぎないともいえる。辺野古に関しては実に20年以上にわたりそれはたゆまず行われてきた。この抵抗、抵抗感にこそ、本土の日本国民が学ぶべき市民の在り様があると、筆者は思う。いやなものは誰が何と言おうといやなのだ。そこに格別の理屈はいらない。(つづく)