沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩623 かつて独立国であった琉球国の主体性を回復すること 20

2016年11月06日 16時18分18秒 | 政治論

 自然乃至自然環境、生態系の豊穣性の確保といった観点から考えられる琉球沖縄(奄美も含む)自然遺産というものの最大の懸案は、人為的影響の監視と緩和・排除、及び天然現象の推移による経年変化と影響への透視、これ等すべて考慮した多角的多面的な人為的意思決定と実行、といったものであろう。沖縄島北部、通称やんばると呼ばれる亜熱帯照葉樹林帯乃至周辺海域と島々に関しては、このうちやんばるの森が国立公園に指定されたが、返還予定の北部訓練場区域(約7800ha)は含まれておらず、且つ又東村高江(一部国頭村)近接区域には新たに6個のヘリパッドが建設されようとしている(2個は既に完工し供用開始したーーー現在ここではオスプレイの飛行訓練が事実上規律違反状態で実施され騒音問題が頻発している、当然環境アセス上の重大な問題性を孕んでいる)。

 自然環境に対する人為的影響の監視と緩和・排除の最大の標的はここに展開する米軍基地乃至その軍事訓練空間の存在であるが、この、明らかに悪影響を及ぼす標的の排除に関しては、日本国政府自体が日米安保体制を盾に頑として撥ねつけている。現在高江でこの国が実行しているヘリパッド建設はそれ自体が自然環境や住民の生活環境を破壊し、かつそれが完工すれば今後ともこれを脅かし続けるものとなっていくことが見えている。沖縄県民は、極めて愛着の深い郷土の大地、空、海といった自然がこの国の手によって壊されていくことに身を切られる思いをし、且つは徒に世界平和を損ねる軍事的展開をこの地で実施する日米政府の在り方には、如何にしても納得できない思いで過ごしてきている。

 人間の営為は、科学技術や文明の発達、生活方式の変化などから徐々に確実にありのままの地球環境を人為的に改変する内容で進歩していく。如何に配慮しようともこの人間的エゴの行進は地球環境を良くも悪くも変えないわけにはいかない。生きるため、よりよく生きるため、あるいは便利さ、快適さの追及といったエゴは人間以外の自然を暴力的に機械的に変更し、人間のための生活空間の確保に供される(但し高江辺野古の場合、この「人間」の範疇から沖縄県民は除外されているという恐ろしい現実がある)。勿論そこに自然との共存という重要な課題も存在するのだが、それも飽くまで人間が主体である(その「人間」にも沖縄県民は入っていない)。

 自然は物言わぬ。

 物言えぬ民があるように、それは恐らくは弱者的存在であり、圧倒的に支配的な勢力を保持する側がこれを保護養生すべき関係性にある。しかし現在高江で、この国の支配勢力である安倍晋三政権がやっていることは、明らかな弱い者いじめ以外ではない。自然へも沖縄県民へも安倍晋三政権は支配者として、我が物顔に居丈高に、まるで絶対権力者のように立ちはだかり、問答無用で(ほぼ殆どの国政選挙において示された民意を無視して)偽善的欺瞞的に(名ばかりの数値上の負担軽減のために)国策を遂行しようとしている。実際その鉄の爪は既にやんばるの森に重大な攻撃を加え続けている。数が限られた市民の非暴力の抗議活動など現場の侵略者には小鳥のさえずりほどにしか聞こえまい。

 さて、安倍晋三が絶対堅持、強力推進する日米安保体制とはいったい何のために、何故にあるのか。既にそれの存在性に就いて明らかになっているように、国民に国防という名の幻想を植え付けるために為政者が考え出したこの奇妙な対米軍事同盟は、現今ミサイル戦略上の観点から「張子の虎」であることは明らかだ。(抑止力、地政学、いずれにしろ沖縄に基地が集中する理由は存在しない。彼ら自身白状しているように「政治的理由」でここに押し付けているのである。)一方、何故政治家は国民の前にこの幻想的国防体制を恥知らずに温存しているのか。それは、国民は「愚か」で「無知」で「無関心」だから、言われた通りにしかその生存生活を持続できない、と認知しているからだ。この認知を昔日の政治辞典には「官尊民卑」思想と銘打ったが、今それが本当に通用するのかと疑う向きもあるかもしれない。しかし現に、日本国民がこの幻想的(日本国民を外敵から守る為にない)日米安保体制をほぼ大半が支持していることからも、為政者の思惑は確実に功を収めてるとしか言いようもない。安倍晋三政権に為政者として欠けているのは何か。この幻想を実地に実行することはそのまま国民を殺すことだという認知だ。つまり、真実や事実を民の前に明らかにせず、むしろ幻想を利して既得の権益を貪る暴政に走っていることになる。(つづく)

 

 

 


11月5日(土)のつぶやき

2016年11月06日 04時58分05秒 | マスコミジャーナリズム