アメリカはじめ連合国に、戦争における敗北を喫したという事実に基づいて醸成された、日本人乃至専ら多くは政治的局面あるいは諸他の事案において、日本国が負っている「敗戦国である」という精神的負債だけでなく、弱肉強食・優勝劣敗の自然法則により、たかだか「同情心」を惹起する程度の緩和剤がありうるだけで、通常は所詮あらゆる豊穣さにおいて引けをとる大国アメリカに、「不平等」な関係を余儀なくされる実情にある日本国は、戦後66年経てさえ、今なお安全保障を他国の「虎の威」に依存するという「仮託」において自足し、国内的な「不平等」状態にある沖縄に、その肩代わりをさせている(戦争準備実行基地の集中)という現状である。
まず歴史的時間の多寡を単純に推し量ると、66年という量は果たして全てをチャラにできる時間といえるかどうかだが、人の一生を75年程度に見積もるならその大半を占める量であり、この間、人がその悟性において憎悪と憤怒と復讐心を克服する(従って相手を許す)可能性はありうるとしたほうが人性的に妥当と、誰しも思うであろう。
しかしながら情報化社会にあっては、過去の事跡が生々しく再現される方途に満ち、絶えず供給される新情報(歴史的には新とはいえないが)により、過去が現代にそのまま蘇ることも(従ってあらゆる感情も蘇る)可能な時代には、結局永久的に、ひとつの凝縮された概念において過去は残存し続けると言わねばならない。(日本の司法が殺人の公訴時効を廃した理由のひとつは、被害者の無念さに時効はあり得ないという判断にあったであろう)
その概念といえば、極東裁判で論った「平和と人道」に対する罪に尽きる。但しこの復讐裁判の有する蓋然的な主観論を歴史的に淘汰しないと、現代は永久に誤った歴史観において「純粋理性批判」、「実践理性批判」を繰り返すことになる。それはいずれにしろ人類にとって停滞や後退の実質を温存させることだ。
錯誤に成る行動規範が順次新たな不条理を生むのは当然だ。そこに論理も弁証法も実存もないのは既に「コミュニズム対カソリズム」の対決構造が解消した(ソ連東欧の崩壊)途端、世界が明瞭に「パクスアメリカーナ」化し、経済制裁、軍事弾圧、傀儡政府押し付けの偏頗な世界観で牛耳られ、「力の論理」(従って非論理である)がまかり通る恐怖の似非民主化時代を経過していることから判断できよう。
まず事実として、「敗北したが故に侵略である」点につき、近代の明治建立日本帝国が世界の「平和」を脅かしたという理由であのときは裁かれた。しかし、もし勝利していたら逆のことが言われたかどうかだが歴史的論理性において誤っていない。
因果的には、人道的見地から取りざたされる「南京虐殺」その他の「戦時」における「殺人行為」とないまぜにし、結局的に全面的に「侵略」として処断されたのだった。しかし「平和に対する罪」とは何かと問うとき、資本主義の最高段階としての帝国主義に基づき、市場を求めて欧米がアジアに非対称関係を強要した一連の歴史的行為群はこれに該当しないのかと反問されて、正しく言い訳できる国はあるまい。
日本も中国も封建の惰眠からたたき起こされ、「平和」を脅かされた事実につき欧米に抗議しても、その正当性は争う必要がない(と一応言える)。現代においてイラク、アフガン、リビア等パクスアメリカーナ従属の多国籍軍が、「力」で「犯した」事案は、まさしく「平和に対する罪」である。
裁き手がないこのパクスアメリカーナの帝国支配が席巻している以上、「世界」は停滞し後退する、精神の「暗黒時代」を迎えている、と評さねばなるまい。(そうした実態の局面を日本政府の沖縄に対する処遇から摘要することは比較的容易であるーそこには対米追随する日本国政府が、返す刀で国内最弱の地方自治体沖縄を、まさに「力」で「犯す」構造が見て取れるではないか)(中断)