沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩349 沖縄と日本 22

2011年12月24日 13時25分41秒 | 政治論
 現民主政権の所謂マニフェスト破綻実情は、そもそも、マニフェストを基本的に保証する「理念」「イデア」につき、個物の感覚的表象を超越し、概念化した到達目標と捉えるなら、(マニフェストが現実的結果予測を正確に意味するのでなければ)オバマのいうように、あらゆる到達目標には段階的接近という政治判断が必要となるのは当然のことなので、彼らは結局、「裏切り」的経過の印象を払拭すべく「これはそこにいくステップです」というだけでよかったのだろう。
 鳩山の沖縄普天間移設に関する政治行動がもたらしたものは、結果的に沖縄県民の県内移設拒否の意思が全県あげての意思として明確になったということであり、(少なくとも民主的方法のみに拠って本土ならびに政府及び世界に対して)、日本の宰相がアメリカに対し物申すことにある「敗戦国」縛りという現実を、日本人に再度知らしめたのであり(沖縄同様本土もまたかかる隷属的状況におかれているということ)、一方本土人が沖縄に関し、おのれらの居住空間が「対岸の火事」形質にあるという常民的意識に定着し、かつ国の安全保障が有する他国軍事力依存実質を無意識に肯定黙認し(安保のただ乗り)、その保障地域としての最大の実質現実を有する沖縄(米軍基地の75%を集中させている)の実態については、自らの県に「火の粉が降りかかる」と言い放ってその本土人の正体としての差別性を露骨に表明した(全国知事会)という、甚だ前近代的な幼稚な、かつ犯罪的な内容の戦後日本人精神をあからさまに示しているということになる。
 だがこの反面教師的政治は、どちらにしても沖縄にとってただの裏切りに過ぎず、こうした本土の在り様は憎むべき悪徳以外のなにものでもないのは火を見るより明らかだ。
 沖縄が、戦後本土に齎された戦後民主主義の空中分解と同列の地平にいないことは、ここに来て見てここの歴史を学び、人間との触れ合いを通してようやく理解できることだ。
 従って、大田元知事が「その見識の高さに驚嘆した」という鳩山においてさえ、全く一顧だにしないアメリカと大日本帝国官僚という牙城を木っ端微塵に叩き壊すには、沖縄という「問題性」において(本土的似非民主主義でない)沖縄だけが育んだ「不服従非暴力主義」に基づく、最も戦略的効果的な理論的武器を保持する絶対的必要性がある。
 政治闘争の不毛性は沖縄に関してはない。ただ数代に及ぶ「沖縄問題」の悲劇的性格は運命的に気力を萎えさせる。「ナンクルナイサー」(なんとかなるさ)は哲学的にしか肯んじ得ない(楽天主義・楽観主義)。ほかならぬアメリカ映画に流れた「ケセラセラ」的楽天主義をよしとしても、日々の戦いはいつもどこかで誰彼となく血を流しているのだ。(中断)