読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

映画「悪人」を観た

2010年09月15日 | その他

◇新聞小説の映画化『悪人』
 先般新聞の映画紹介欄で☆☆☆☆の付いた「悪人」主役の深津絵里がカナダ・
モントリオール世界映画祭で主演女優賞を得た。

 9月11日公開で、日も空いているので火曜日に観に行こうとNET予約をした。
前日の月曜日9時の時点で席は未だ20人くらいしか埋まっていなかった。ところ
が、当日上映開始時間の11:30に行ってみるとほぼ満員。たまたまこの日14日
は入場料全て1,000円の日だったこともあるが、今評判の「悪人」だからかもしれ
ない。ウィークデーでもあり80%は女性。一緒に行った妻は同じ町内の知り合い
に会う始末。予約を取っておいてよかった。

 映画はと言えば、シリアスというか何かと考えさせる内容だった。
 もとはといえば、朝日新聞夕刊で2006.3から2007.1まで連載した新聞小説。
作者吉田修一氏本人が「今までで最高の出来」と言っていることからして小説自
体の出来栄えが良かったのだろう。脚本は吉田氏と映画監督の李相白氏の共
作である。
本は読んでいないが、映画として冗慢になるところはかなり端折っているらしい。

 舞台は九州の博多・久留米・長崎。長崎県五島市の大瀬崎断崖と灯台が印象
深い。
 幼い時に母に置き去りにされ祖父母に育てられた主人公・祐一は孤独な生活
から逃れたいと出会い系サイトに。知り合った保険外交員の女性・佳乃が他の男
性に乗り換えたうえ、口汚く罵り挙句には「レイプで訴えてやる」などと口走ったた
めに逆上し殺してしまう。
 その後祐一はやはり出会い系サイトで接触してきた主人公・光代と交際を始め
るが、殺人の記憶から逃れられない祐一は互いに心を許し始めた光代に事のい
きさつを告げる。光代は一旦自首を勧め警察署の前まで一緒に行ったものの、
孤独な生活からやっと見出した束の間の幸せを、このまま逃すわけにはいかない
と共に逃避行に走る。
 
 断崖に立つ灯台に身を潜ませた二人の生活は間もなく人に知られる。警察に
保護された光代は隙を見て警察署から逃げ出すが、間もなく灯台に逃げ込んだ
ことが知られ灯台は警官に囲まれる。祐一は光代を「むりやり逃亡に同行させら
れた被害者」の立場をつくるために光代の首を絞める。光代は首を絞める祐一
の真意にこの時果たして気が付いたのか。モントリオール映画祭で主演女優賞
を与えた審査員はこのとき二人の間を飛び交った目の光と動き、光代(深津絵
里)の眼差しに迫真の演技力を見出したのだろうか。

 「悪人」という題名は内容を知った上であらためて考えると「はて、悪人とは誰を
指すの」という戸惑いを起こすかもしれない。
 人を殺した祐一は外形的には悪人。でもその起こった事件の背景を知ると同情
の余地もある。一概に悪人と決めつけられないと言う人もいるだろう。

 殺人のきっかけになった被害者の言動に問題ありとしてこ れも「悪い」と見る人
もいるだろう。祐一をかっとさせた佳乃は、出会い系サイトなどで男を漁り、人の
気持ちを踏みにじる言葉を吐く心醜い女。一人っ子故にただひたすら可愛がり、人
を謗るようなそんな子に育ててしまった理髪店の夫婦も反省しなきゃ。

 佳乃が祐一から乗り換えて車に乗った男(増尾)も、気に食わないからと佳乃を
悪しざまに罵り足蹴にする自分本位のわがまま・チャラチャラ男。佳乃が腹立ち
紛れに祐一を罵り、殺意に駆り立てた間接的原因者だ。これも悪い。

 祐一を捨て祖父母に押し付けて再婚した母親は、育児放棄の重大責任あり。

 ことほど左様に世の中の出来事には、表面に見える事象の底に、係わってい
る人の数だけ人生の一断面があるということだ。誰にもそれなりの責任があり、
言い訳もある。
 だからといって祐一が犯した殺人が正当化される訳でも許される訳でもない。
生まれ育ちに気の毒な事情があるからと言って、石橋理髪店の愛娘・佳乃の命
を奪っていいということにはならない。

 「やっぱり悪人なんですよね」と殺人現場に花束を持って訪れた光代がタクシー
運転手にぽつりと漏らした独り言がどんな気持ちを表しているのか。実に意味深
であるが、なんだかんだ言っても人の命を奪うというのは悪いことだということを
言っているのか。この小説の主題がそういうことなのか。よくわからない。
考えさせる映画ではあるが、何を言いたいのかはよく分からない。

 この映画を純愛ものと位置づける人もいる。果たしてそうか。

 なんで光代は殺人犯と知りながら一緒に逃げ回るのか。29歳まで男友達もなく
何一つ楽しいこともないまま送ってきた生活の中で、思い余って携帯で出会い系
サイトに突破口を見出そうとする。
 挙句の果て知り合った相手が殺人犯。しかし、やっと知り合った相手が、同じよ
うに孤独から逃れるために話し相手を求めていたことを知る。その孤独、寂寥感
が分かると、やっと掴んだ安らぎを何とか少しでも長く続けさせたい、一緒にいた
い。その気持ちは分からなくはない。 
 純粋に相手のことを思い、自己犠牲を選ぶ。確かにそのように見えなくはないが
終末が何となくぼんやりというか締まらないので(原作はもっと納得がいく終わり方
らしいが)感動するけれどもスカッとしない気分もある。

  さらに言たいことが一つある。
日本の灯台って、どこもあのように無防備で、鍵も中途半端で、中で焚き火をして
も構わないようになっているのだろうか。昔は「灯台守」の夫婦がいて、灯を守った
のだろうけど。今は設備は昔のままで無人なのか。それにしても無防備過ぎはしま
いか。撮影に協力したのは多分国土交通省。納税者の一人として、管理状態に対
し不審に思っている。

    

  (以上この項終わり)
   

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暑さを凌ぐ元気なゴーヤ

2010年09月08日 | 水彩画

ゴーヤの葉を透かした陽の光
  この暑さでもゴーヤはすこぶる元気だ。もっとも朝か夕べはたっぷりと水を遣
 っている。 
  西日のさす窓辺に植えた(プランター)は4本だけだが、立派な葉を繁らせて
 ニガウリもすでに2~30本はとれたか。
  葉を透かして差す陽光は実に美しい。風にそよぐ葉群は光のゆらぎをつくり、
 絵心を誘う。

  光を反射した緑と、葉を通して眼に映る緑は違いがある。
  鮮やかさが際立つが、その鮮やかな緑を出すのがなかなかうまくいかない。
  葉と葉が重なり合ったところは緑が濃くて、葉と葉の距離で微妙な色合いが
  生まれる。

  葉っぱも寿命があるようで、茶色くなって枯れてしまうのもある。
  時折思いついたように花が咲く。
  気がつとそれが雌花でいつの間にか小指大に成長していて驚く。少し放って
  おくとオレンジ色になって終いには割れてしまう。こうなると種は赤くなって、
  これも食べるのだそうだ。

  そんな訳である日思い切って描き始めたが、丁寧な観察と大胆な省略もやり
  ようがなく平板な絵になってしまった。風にそよぐ光の揺らめきがうまく表現で
  きない。

  左のゴーヤが胡瓜に見えなければよいが。
  来年また挑戦しよう。

    
    
    クレスター F8

   (以上この項終わり)
  

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