読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

フェルデナント・フォン・シーラッハの『刑罰』

2019年11月24日 | 読書

◇『刑罰』(原題:STRAFE)

            著者:フェルデナント・フォン・シーラッハ(Ferdinant von Schirach)
            訳者:酒寄進一 2019.6 東京創元社

    

 犯罪と犯罪者を描く短篇の名手とうたわれる独逸
の鬼才シーラッハの最新作。著作としては
ほかに『犯罪』、
『罪悪』、『禁忌』などがある。

 実際の事件を素材にして、いろんな経緯で罪を犯した人々の生い立ちや素顔を淡々とつづりな
がら、罪と刑罰の危ういあわいを抉り描き出した12篇。
 12篇のそれぞれに、人間社会の罪と罰についての重々しい問い掛けがある。
 誰に罪があって、誰が罰を受けるべきなのか。刑罰を受けなければならない者がなぜ罰せられ
ないのか。著者がモデルとした実際の事件の選択と問い掛けの意味を深く考えさせられる。

 余計な説明や修辞を避け、簡潔に事実だけを中心に綴る手法が、読む人に心地よい。

<参審員>
 参審員(日本の裁判員制度に似ている)に選任されたカタリーナ。心理療法士には他人に対し
て反応しすぎると言われていた。
 家庭内暴
力をふるった男の裁判で審理中にカタリーナが妻の証言に涙した。証人の物語はカタ
リーナ自身
の人生だった。然しカタリーナの過剰な反応は先入観にとらわれているとされ審理無
効となり被告の男は釈放になった。4か月後その妻は男にハンマーで頭を打ち砕かれて死んだ。
 カタリーナは
参審員の職を解いてほしいと嘆願書を書いたが却下された。カタリーナには罪は
ないのか。

<逆さ>
 成功した弁護士シュレジンガー。つまずきは自分の子を虐待した男を証拠不十分で無罪にもっ
ていった裁判。釈放された男は家に帰ると2歳の子を洗濯機に入れてスイッチを入れたのだ。シュ
レジンガー
は次第に酒に溺
れるようになり、仕事も減った。
 ある夜官選弁護人の仕事が舞い込んだ。夫を射殺した43歳の女性の弁護。拳銃の指紋という物
的証拠があり、アリバ
イもなく被疑者に不利なものだった。しかも夫は多額の借財があるほか80
万ユーロの生命保険に入っていた。
 シュレンジンガ—はこれが最後の仕事と、酒を断って調書に読みふけった。何しろ自分の借金
取立人ヤセルに「あれは逆さだよ」いう不可解な示唆を受けていたからである。
 結局裁判は被告人の無罪。なぜなら拳銃の薬莢排出口は右側なのに現場写真では左に薬莢が落
ちていたことを弁護人が指摘したから。これは自殺の証明である。警察の見込み捜査の失敗。
 シュレンジンガ—はヤセルに聞いた。「どうしてあんなにすぐ真相に気づいたんだ?」
「野暮なことを訊くなよ、弁護士先生」とヤセルは言った。 あなたはわかりますか?
<青く晴れた日>
 4度にわたって乳児を壁にぶつけ死なせたと3年半の禁固刑を宣告された女性。夫に「女性は
刑が軽いはずだ」と身代わりになったのだが、出所後に夫が虐待死させたことを知った。その夜
酒を飲んだ上で屋外のTVアンテナを直している夫の椅子を蹴って転落死させた。他殺の証拠はな
く女性は黙秘を続けた。心は痛まなかった。
<リュディア>
 吃音症のマイヤーベックは妻に男ができて離婚した。45歳になったとき、通販でラブドールを
取り寄せリュディアと名付けた。彼女と話すときはどもらなかった。1年経ったある日、帰宅する
とリディアがめちゃくちゃに壊されていた。テーブルに「ヘンタイ野郎」とあった。隣家の男の
仕業だった。
 4週間後、隣人は集中治療室に運び込まれた。重傷だった。マイヤーベックは重傷害罪で起訴
された。結局判決は禁固6ケ月、執行猶予付きだった。
 精神鑑定人は述べた。「愛し合うというのは非常に複雑な過程を経るもので、はじめは本人を
愛するのではなく、そのパートナーから作り上げたイメージを愛するのです。二人の関係に危機
が訪れるのは現実が見えてしまった時です。被告人と人形の関係は現実のものとはなりません。
それ故に、被告人の愛情は強固なものとなるのです。幸福な関係は長期に続くのです」。
<隣人>
 妻エミリーをがんで亡くしたブリンクマン
。妻のいない生活に倦み何もする気になれなかった。
4年経って隣の家が売れて新しい隣人が挨拶に来た。ブリンクマンは夫人アントーニアと親しくな
り、いつも昼食を共にする間柄になった。夫は広告代理店に勤め、帰りは大抵夜になった。
 ある夏アントーニアが実家に帰っているとき、ガレージで夫が車のシャーシに潜り込んで修理
をしていた。ブリンクマンはジャッキを蹴った。車の下敷きになった夫は死んだ。
 ブリンクマンは後悔はしていない。夜も良く眠れるし罪の意識もなかった。
<小男>
 シュトレーリッツ43歳。小男で婚活でも会ったとたんに大抵断られる。ある夜行きつけの食堂
で麻薬密売現場に遭遇、自分のアパートにブツが隠されていることを知り横取りしようとしたが
交差点で事故を起こし警察に捕まる。未決拘置所では小男でありながら4.5キロのコカイン取引を
結んだ男として畏敬の扱いを受ける。しかも麻薬所持で捕まる前の飲酒運転・自動車事故で略式
命令を受けていたことから、一事不再理の原則に従って麻薬の件はお咎め無しとなった。
<ダイバー>
  妻の出産に立ち会った男はその後妻との交渉を拒むようになった。次第に仕事もおろそかにな
った。ある夜妻は夫が浴室で自涜に耽っているのを目撃する。次の日、夫はダイバースーツに身
を包み、壁のオイルヒーターに結んだ紐で首を吊って死んでいた。妻はダイバースーツを脱がせ
死体をベッドに運んだ。警察にはベッドで発見したと言い張った。裁判では法医学者が異常性
欲者の性癖を証言した。
 拘留を解かれた妻は神に許し乞うた。夫が静かになるまで自分が頭を押さえていたことを。
<臭い魚>
 街の低所得集落の悪ガキどもは、少年へのいじめのついでに、眼が不自由な老人に石をぶつけ
て死なせてしまった。いじめられた子は警官には何も言わなかった。学校に年配の警官が来て児
童による暴行事件について話しただけで終わった。
<湖畔邸>
 フェリークスは出生時に腹部に小さなあざがあった。一年後、あざは上半身と顔の右半分が朱
色に染まっていた。子供たちはあざで彼をからかった。湖畔邸に住む祖父は常に彼を庇った。
 長じて保険会社のアラブ地域統括委任者になったフェリークスは、祖父が亡くなったので早期
退職し相続した湖畔邸に移り住んだ。町では湖畔邸近くを観光開発しようとしており、湖畔邸買
取を申し出たが、フェリークス拒んだため町民との仲が悪くなった。ついに開発が進み別荘な
どが建った。ある夜フェリークスは夜陰に乗じ一人残っていた住人に銃火を浴びせ放火をする。
警察は拘留したフェリークスが寝言で放火と殺人のことをしゃべっていると聞き、盗聴を求めた
が裁判長は「人間の思考を監視することはできません。独白は思考を声に出したもので何人もそ
れを聞いてはならず、記録してはなりません。独白は人間の私領域なのです」と言って許可しな
かった。
 結局フェリークスは6年後死に、湖畔邸は博物館になった。
<奉仕活動>
 幼い頃から優秀だったセイマは長じて弁護士になった。憧れていた弁護士事務所に採用され
て、皆が逃げる刑事事件弁護を引き受けた。事件は悪辣な人身売買を行う犯罪組織の親玉だった。
証拠が少なく唯一の証人は誘拐されて売春を強いられた女性だった。証人は怯えており、裁判長
は被告人を退廷させて証言をとった。被告人は14年と6か月禁固刑を言い渡された。セイマは標
準手順として上告した。上告趣意書には証人の証言の際、被告人が退廷させられたのは権利侵害
であるとした。高等裁判所は審理差し戻しとした。改めて裁判を行ったが前回証言した女性は既
何者か殺されていた。被告は証拠不十分とし無罪放免された。セイマは自分の仕事に強烈な空疎
感を覚えた。
<テニス>
 36歳のルポライターの女。夫は57歳。ベッドの上に夫のパンツのポケットからこぼれた真珠
のネックレスを発見する。彼女は翌朝仕事に出かける際にネックレスを階段一番上に置いた。
 仕事を終えて空港に着いた女を弟が迎えた。夫が気絶し入院しているという。
 3年後女は夫と並んでテラス座っていた。あの朝夫は家の中が暗くて真珠のネックレスに気づ
かず、足を滑らせて転倒、頭を打って重度の外傷性脳障害を負った。ほとんど話せず、自分で食
事をすることも服を着ることもできなくなった。
 女はテラスにいる夫の前で裸になる。胸にはあ
の知らない女の真珠ネックレスを付けて。
<友人>
 学業も運動も常に一番だった友人リヒャルト。裕福な家の出でハーバード大学を出ると銀行に
就職し、まもなく美貌の女性と結婚した。二人は仲睦まじかったが
突然姿を消し
消息が分か
らなくなった。4・5年経って会ったリヒャルトは薬物にまみれ自堕落な生活を想像させた。
 聞くと二人はなかなか子供ができず、妻は人付き合いを厭うようになり、心がぼろぼろに
なった。ある夜こうした生活に耐えきれなくなったリヒャルトは言った。「きみのためなら
何でもすると誓ったが、もう無理だ。私は君が必要とした男ではない」。
 妻は「あなたは遠くへ行ってしまったのね」と言い残し、ジョギングスーツに着替えて出
て行った。あくる日彼女は二人組の若者に強姦され、死んだ姿で発見された。
 以来リヒャルトは彼女を死なせたのは自分だと、罪の意識から抜け出せない。
 私は言った。「きみは罪を犯してはいない。だけど罰は受けるしかないんだ」
 二週間後、彼はペントバルビタールを多量に飲んで亡くなった。

                             (以上この項終わり)


 


 

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