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読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

吉川英治の『新書太平記(四)』

2021年04月03日 | 読書

◇『新書太平記(四)

  著者:吉川 英治  1990.6 講談社 刊 
              (吉川英治歴史時代文庫)



 第4巻は将軍義昭の滅亡と叡山の焼き討ち、各地強豪との対立のあれこれ、小谷城の
攻防が描かれる。

 越中の朝倉・浅井を攻めたもののうまくいかず這う這うの体で逃れた信長、態勢を整
え浅井の小谷城を攻撃する。浅井・朝倉は大阪の石山本願寺、門徒宗と呼応し、比叡山
の僧兵と山に立て籠った。家康の応援を得た信長軍は叡山を包囲し兵糧攻めを期したが
背後にある武田信玄が不穏な動きをしてるとの報に接し足利義昭のとりなしをもって

面和睦ということになった。

 将軍足利義昭は信長のお蔭で将軍の権威を回復し立派な邸宅を建ててもらったあたり
から信長が疎ましくなり、武田信玄など諸国の雄にしきりに書簡を送るなど陰険な動き
を見せ始めていた。

 
 その翌年、信長は再度叡山攻撃を決心する。国家安寧を願うべき僧が城郭を築き、刀
や銃を蓄え、破戒乱行に走る叡山の僧兵を許されざるものとし全山の焼き討ちと皆殺し
を命じた。この暴虐を止めようと光秀などが諫言するもこれを退ける。藤吉郎が皆殺し
焼き討ちも、われらが信長の命令以上に勝手にやり過ぎて行動したものとすればよいと
提案する。
 背後に信玄の強大な戦団が迫ることを知った信長は断固決行焼き討ち・殺戮を指令す
る。
全山火の海と化し、僧兵らはことごとく殺戮された。京都の民は信長の悪魔のごと
き所業に震撼する。

 震撼としたのは足利義明も同じ。信長から突き付けられた17か条の諫言書に対する返答
を放置していたからである。とりわけ第1条の、武門の統領の職にありながら朝廷に参内も
せず、政事を顧みないこと。第2条天下の泰平を図り治安民福を任とする位にありながら諸
国に密書を通わせ自ら乱を作るなど大政輔弼の身にあるまじきこと。この2条については反
論の手立てがなかった。義昭は京を落ちて紀州方面に遁走したがついに捕われ信長に謝った。
しかし時すでに遅く、ここで室町幕府は消滅した。

 そして武田信玄。信長が京にあって諸国に令を出しているのが気に入らない。武田信玄
は既に50歳、家康の浜
松城の北東三方ヶ原に突如侵入、3万の兵が怒涛の如く襲いかか
り、信長の応援があったものの家康も危うく捕われる寸前まで追い詰められた。
 しかし甲州軍団は突如引き上げる。信玄は病に襲われあっけなく病に斃れた。
放っていた乱波からこの情報を知った信長は各地勢力が一斉に動き出すに違いないと読
み、いち早く越前朝倉と江州浅井連合軍を叩く。小谷城にある浅井氏の妻は信長の妹お市。
信長は懊悩する。うかつに囲めば市が長政と共に死を選ぶことを恐れているのである。

  浅井長政は初めお市の方を政略の花嫁と割り切っていたが、4人の子を為し、お市とは
夫婦の愛情で固く結ばれ互いにここで討ち死にしようと決めていた。信長の心中を忖度し
た藤吉郎は一人小谷城に乗り込み、母子だけは生き延びさせるよう長政を説得する。その
説得が長時間に及び、しびれを切らした信長軍がついに総攻撃を始めた。
 藤吉郎はお市の方、万寿丸、茶々、初姫、達姫の5人を救い出した。茶々を背負った藤吉
郎、お市の方を先導
した柴田勝家がそれぞれ後に結ばれるとはこの時は誰も知らなかった。
   信長は藤吉郎に18万石を与えるとともに小谷城を預け、この後は羽柴を名乗るようと姓
まで与えたのである。大恩賞である。 
          
                             (以上この項終わり)