読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

歴史小説の力作『天狗党西へ』

2012年05月02日 | 読書

◇『義烈千秋天狗党西へ』 著者: 伊東 潤  2012.1新潮社 刊
  ―本屋が選ぶ時代小説大賞受賞作品―

  

 天狗党の末路は悲惨である。水戸藩「天狗党事件」は開国をめぐって揺れた幕末の悲劇である。
 悪人は登場しない。誰しもが国を思う赤心を持ち、その行動がぶつかりあい、多くの人が死んだ。
 かつて吉村昭の「天狗騒乱」を読んだ。吉村作品らしく史実に忠実に描かれた小説であるが、伊東潤は登場
 人物の個性をクリアにし、歴史小説としての深みを実現した。”歴史小説には物語性を”という著者の心が伝
 わってくる。
  日本の夜明けを信じて自らの信念に従い散っていった志士らの過酷な上京への道と悲惨な末路を思うと、
 時代の流れにほんろうされたとはいえ、胸が詰まる。

  かつてツーリングサイクルを手に入れたころ、天狗党事件に興味を持ち、天狗党の西進の足跡をたどろうと
 ルートを調べ、ツーリングの準備をするところまでいったが、諸般の事情で実現できず壮途は潰えた。
  また、中山道を歩いた折り、和田峠を下った先の天狗党と諏訪高島藩が干戈を交えた地で、亡くなった天狗
 党兵士6人を悼む碑に出会った。

  「天狗党事件」を知るためには、水戸藩の内情を先ず理解する必要がある。水戸斉昭が藩主になり藤田東湖
 を登用し改革を進めると守旧派が反発、幕府を動かし斉昭を失脚させる。やがて斉昭は謹慎を解かれ10代
 藩主徳川慶篤の後見として復権する。この間保守派(諸生派)と改革派(強硬に攘夷を唱える激派、やや穏健
 な幕政改革を目指す鎮派)が藩政主導権を握ろうと入り乱れ、安政の大獄(井伊大老による尊攘派大弾圧と
 水戸斉昭永蟄居)、桜田門の変(水戸浪士による井伊大老暗殺)へと進んでいく。
 やがて斉昭が病死すると執政に就任した武田耕雲斉(激派の頭領)、藤田小四郎(東湖の子)、山国兵部など
 激派の面々が長州の久坂玄瑞、桂小五郎らと呼応し朝廷を動かし攘夷を実現しようと同志を糾合する。

  文久3年(1863)長州が京から追放された。幕府が約束した横浜鎖港の実行を迫るため、藤田小四郎らは筑
 波山神社で決起。長州が逼塞し、いまや尊攘派の拠点となった水戸藩には尊攘派浪士が続々と参集し、当初は
 62人であった天狗党も最盛期には1,400人にまで膨れ上がった。水戸藩内は激派、鎮派、諸生派が入り乱れ
 主導権を争い離合集散し、幕府強硬派の介入を招くことになった。若年寄田沼意尊は各藩に天狗党追討を命じ、
 自ら兵を率いて東山道を上った。水戸藩はもとより水戸光圀公の遺訓があり天狗党も主張も「上は天朝に報じ
 奉り、下は幕府を補翼し」
とあるごとく、敬幕尊王であり倒幕の意図は全くなかったが、幕府側の強硬派は横
 浜鎖港をうやむやにするためにも天狗党を叛徒にする必要があり、むりやりに反幕の集団と したのである。
  水戸藩を諸生派に奪われ幕府追討軍に追われる天狗党は、大田原・矢板・宇都宮など下野の地から上州に
 向かう。諸藩は天狗党に理解を示し、軍資金を出したり、領内通過を黙認したり対応はさまざまであった。
  やがて天狗党は信州和田峠を下る。諏訪藩は松本藩とともに天狗党追討の幕命に従い交戦したが敗れた。

  中山道で京に上るのは困難と見た天狗党は豪雪の越前蠅帽子峠(標高976m)を越え敦賀へと向かったが、
 幕府軍の追及厳しく、頼みとする一橋慶喜は幕府の天狗党追討総督となり、ついに万策尽きた天狗党は828
 名が加賀藩の下に降伏した。天狗党隊員に寛容な加賀藩に対し引き取った田沼意尊は残虐な仕打ちの末に
 大半の352名を処刑、残る者も追放・遠島となった。

  水戸では天狗党の家族はことごとく諸生党市川三左衛門の手で捕らえられ処刑された。他藩に預けられて生
 き延びた天狗党生き残りは、戊辰戦争で諸生党追討の勅許を取り付け水戸の諸生党一族を処刑するなど、水
 戸藩の内紛は血で血を洗う凄惨な私刑・報復で終始した。

 (参考)義烈千秋とは非常に長い年月義を守るに堅いことを意味する。
                                                        (以上この項終わり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする