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読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

旧水戸街道を歩く(その2)

2008年09月19日 | 里歩き

浅草から千住宿へ
  吾妻橋は赤く塗られている。西へ向かえば浅草寺の雷門である。
  丁度時分どきで、橋の袂にある「回る寿司」で昼食をとった。回る寿司は食事
 の量を調節できるし、その時食べたいものだけを食べることができてありがたい。
 ここの寿司はあわび、平目の縁側、など高級品は置いていない。ちょっと高いも
 のといえばせいぜい大とろ、いくら、帆立くらい。まぐろ(赤身・中とろ)、いか、
 さんま、鯖、甘エビなど値段も1枚125円から135円辺りで手頃、ネタは新鮮で美
 味しかった。サラリーマンらしい人たちも大体こんなところで5・6枚重ねている。
 店の名は・・・教えない。

  腹はくちくなったが回る寿司で長居は出来ないので、土手に上がって隅田公園
 で一休みと思ったが、ベンチは残らずホームレスと思しきおじさん達に占拠され
 ていて座る余地も無い。ということでもなく一人分位は空いているが、何しろ近く
 に座ったら直ちに微生物やなにやらに侵され、得体の知れない臭いにたちどこ
 ろに汚染されそうで躊躇してしまう。折角の都民の憩いの場所もこうして特定の
 人たちに独占使用されていては実にもったいない。
  止む無く土手の石垣の上で休むしかなかった。

  隅田公園の木陰を選んで歩く。本来はもう1本西側が旧水戸街道であるが、前
 回も歩いているので今回は土手を歩く。言問橋を過ぎ、花川戸から桜橋に至る。
 この桜橋では、花見時に余りの人出で殆ど立ち往生した記憶がある。比較的新
 しい橋で、優雅な造りで親しまれている。

 土手の桜の樹の下で、持参のお弁当を広げているおばさんが居た。なかなか
 優雅なお昼である。

        
      隅田公園           言問橋           桜橋

   
    桜橋センター部分

    
桜橋から少し戻って、本来の街道に復帰する。
   「山谷掘」はその昔吉原まで続いており、この堀を船で吉原に乗り込むの
  は吉原お大尽遊び気分を満喫できる贅沢なものであったらしい。今は埋め
  立てられ、桜の木は植わっているものの、余り風情は無い。ここにもホーム
  レスが寝転がっていた。

    「待乳山聖天」のを右に見て旧街道に出る。
  かつてニコヨンなどという言葉が生きていて、山谷暴動などがあった頃は殺
  伐とした雰囲気だったような気がするが、今時の特に日中ではそんな雰囲
  気はない。ただ相部屋1人1泊1,500円、1人部屋2,500円とか、やや立派な
  つくりでは1泊1人5,000円といった宿が並んでおり昔をしのばせる。今では
  安いお宿として外国からのバックパッカーが重宝しているとか。
    「泪橋」を抜ける。目にさんずいの泪は、当たり前の涙と違って、情に満
  ち満ちている。小塚原の刑場にひかれる罪人の身内などはここで泪ながら
  に別れを惜しんだに違いない。東海道品川宿の先にある立会川に架かる
  「浜川橋」は別名「泪橋」と呼ばれている。やはり「鈴ケ森の刑場」があったと
  ころである。

        
        埋め立てた山谷堀跡     待乳山聖天        泪橋(橋はない)  

    このまま進むと南千住の跨線橋を渡ることになる。
   橋を渡ると線路脇に「延命寺」がある。旧くは磔、獄門、火炙りなどはの
  重罪人の処刑は、品川の鈴ケ森と日本橋本庁の浅草刑場で行われていた。
  後者は鳥越、聖天町と次第に郊外に移され、ついに小塚原に至った。
   小塚原のお仕置き場は間口60間余、奥行40間余。ここで処刑された罪
  人はおよそ20万人にも及ぶという。屍体の埋葬は土を浅く掘って埋めるだ
  けで、野犬が屍体を貪る様は目を覆うばかりの惨状であったという。
   延命寺は小塚原刑場の跡地であり、寺境内に首切り地蔵を祀る。

            
         
延命寺          首切り地蔵         小塚原回向院

   延命寺の少し先、左側に「小塚原回向院」がある。寛文2年(1662)両国の
  回向院の墓が手狭になったことから、時の住職譽義観が一庵を建てた。小
  塚原回向院の始まりである。

   杉田玄白と前野良沢が著した「解体新書」は有名であるが、実際に腑分け
  をしてみて、オランダの解剖書の正確さに剥目し驚いたのはここである。昭
  和34年、日本医学会、日本医師会、日本医史学会などが杉田・前野らの
  偉業を讃えて建立した「観臓記念の碑」がある。

   当時は重罪人といえば江戸幕府など時の権力者に盾突いて仕置きされた
  国事犯も多かった。「小塚原烈士遺墳再建会」という団体が、境内の一角を
  仕切って、断罪されたこれら国事犯等の墓を建て旧きを偲んでいる。

   墓は吉田松陰、頼三樹三郎、橋本佐内など安政の大獄で斬首の刑に処せ
  られた尊王の志士のほか、桜田門で井伊直弼を襲った水戸浪士の墓などが
  ある。吉田松陰は小伝馬町の刑場で斬首されたが、ここ小塚原回向院に葬
  られた。
   義賊とされた鼠小僧次郎吉、毒婦高橋お伝、直侍こと片岡直次郎などの墓
  もある。

         
   
   観臓記念碑     吉田松陰墓       頼三樹三郎墓       橋本左内墓

     
      高橋お伝等の墓

     
南千住駅は東側が再開発で近代的な高層マンションが立ち並び、見違える
   ような光景であるが、西側の旧街道の街並みはなんとも垢抜けないというか
   昔ながらの下町の雰囲気が色濃く残っていて面白い。

    やがて道は喧騒極める国道4号にぶつかる。信号脇に「スサノオ(素盞雄)
   神社」がある。延暦14年(795)創建であり、芭蕉の「奥の細道」千住旅立ち
   の句、「行くはるや鳥啼魚の目はなみだ」の句碑がある。

    
      素盞雄神社

    千住大橋は家康江戸入府で、いの一番に架けた橋、長さ66間、(120m)、
   幅4間(7.3m)の木橋であった。当時は堂々たる橋で大橋と呼ばれたが、
   その後隅田川にも大橋がいくつか出来て、その後「千住の大橋」と呼ばれ
   るようになった。この橋の上流を荒川、下流を隅田川と呼んだ。
    千住大橋北詰に芭蕉旅立ちを記念した碑が立っている。

         
       千住大橋        奥の細道矢立の碑    奥の細道行程図

 
  千住河原の三叉路の右に入る道が日光(水戸)街道で、ポケットパークが
   あって、芭蕉の立像が立っている。

    

 
    芭蕉の立像の台座は「やっちゃ場」の敷石とか

 
  ここいらから宿場らしさが出てきて、50mくらい進んで右に入る道を行くと
   昔「やっちゃ場」と呼ばれた青果市場跡。今も「東京中央卸売市場足立市場」
   である。

         
      
家々に屋号の札が下がっている。            足立市場

     
墨堤通りを渡り更に進むと、左手にモダンな高層ビルが。「東京芸術
   センター」とある。日本芸術センター(神戸と東京に拠点がある)の東京
   センターということでハローワークなども入居する複合施設である。
   その右手には「東京藝術大学」千住キャンパス。いずれも4年前日光街道
   を歩いて時には影も形もなかった施設で、前者は2006年4月、後者は
   2006年9月オープンとのこと。
    どちらかというといかにも足立区~と、東京の外れという感じが濃厚な
   地域であったが、少なくとも北千住駅周辺は今や大変身を遂げつつあ
   る。

    
      東京芸術センター。21・22階(地上90m)には天空劇場がある。

   今回はここまで。