【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ミルクの引き算足し算

2019-07-21 07:31:33 | Weblog

 バターや生クリームは美味しい生乳から作られます。では、脱脂粉乳を水に溶かしたものや低脂肪乳にバターや生クリームを足してよくかき混ぜたら、そこには美味しい生乳が登場するのでしょうか?

【ただいま読書中】『冬の夜ひとりの旅人が』イタロ・カルヴィーノ 著、 脇功 訳、 白水ブックス、2016年、1800円(税別)

 本書は「あなた」がイタロ・カルヴィーノの新刊『冬の夜ひとりの旅人が』を本屋で購入するところから始まります。
 私がこの著者の作品を読むのはたぶん初めてですが、さて、最初からこんな複雑そうな本を読むのではなくて、もう少し“トレーニング"になるような簡単なべつの本から始めた方がよかったのではないか、なんてことを思います。思うけれど、手は勝手にページをめくります。
 さて、「男性読者」は本がとんでもない欠陥商品であることを知り、本屋で交換を申し込み、そこで「女性読者」に出会います。で、新しく手に入れた本をペーパーナイフでページを切り開きながら読み進むと(って、一体どの時代のお話なんですか? アンカット本なんていまどき売ってはいないでしょう?)、またもや落丁、というか、明らかな欠陥が。すでに絶滅したチンメリア語で書かれたとおぼしきこの小説について知ろうと大学を訪問した男性読者は、自分が読みかけていたのとは全く別のチンメリア語の小説「切り立つ崖から身を乗り出して」(が音読される場面)に出会います。しかしこの小説は未完。そこにこんどはチンブロ語(の独訳)「風も目眩も怖れずに」がやってきます。
 「読者」を主人公にした小説、って、とんでもない発想だと思います。ところがそれでまごまごしていると、話の焦点はいつの間にか「読書」という行為(それも完遂しない形での「中途半端な読書」)についての描写に移ります。私は「読書について読書する」というなんとも落ち着きの悪いところに宙ぶらりんになってしまいます。これって「メタ読書」とでも呼べば良いのかな? 私のこれまでの読書体験についても追憶してみようかな、なんてことも思いますが、それだと著者の思うつぼのような気がして面白くないので、それはやめておきます。ただ、私がこれまでに読んだ本の全てが(好みとか質とかは別として)始まりがあり終わりがちゃんとあるきちんとした本であったことには感謝したくなりました。



昔の東洋一

2019-07-20 07:05:07 | Weblog

 私は小学生の時に「東洋一の吊り橋:若戸大橋」を歩いて渡ったことがあります。当時としてはその威容に感銘を受けましたが、現在よく考えてみたら「東洋一」って、何なのでしょう? 日本一だけど世界一ではない、ということ? それなら日本一でも良いのにね。
 なお若戸大橋は、現在は歩道がなくなっていて、もう歩いて渡ることはできません。

【ただいま読書中】『東洋一の本』藤井青銅 著、 小学館、2005年、1300円(税別)

 著者はまず「東洋一」をネット検索します。するとヒットするのが2万件以上。ちなみに現在私が検索すると114万件ヒットします。
 まずは鍾乳洞から。ところがここで話が立ち往生というか堂々巡り状態に。「東洋一の鍾乳洞」を名乗る鍾乳洞はやたらと多いのですが、その「基準」がないのです。長さか規模か高低差か美しさか。皆さん好きなことを言っているようです。
 そもそも「東洋」とはどこ? 著者は身近な人間にアンケートを試みますが、けっこうばらばら。一致しているのは日本が「東洋」の東限に位置することだけです。「西洋人」は「中東から向こうは全部東洋」という意識ですが、中国人は「日本のこと(だから日本軍人は「東洋鬼」と呼ばれました)」、韓国人は「韓国、中国、日本、台湾」、日本では「中東は入れないだろ、インドは……えっとぉ」といった感じ。
 ここで著者は「三国」に出くわします。「三国一の花嫁」といった使い方をしますが、これは「唐、天竺、日本」のことです。『日本国語大辞典』では、「日本一」は1220年ころ、「天下一」は1300年代後半、「三国一」は1400年代前半、「世界一」は1895年が文献の初出ですが、では初出不明の「東洋一」は「三国一」と「世界一」の間のどこかで登場したのではないか、が著者の仮説です。
 会社や学校の名前で「東洋○○」はたくさんありますが、その多くは戦前、特に大正時代に設立されているようです。もしかしたら「東洋を名乗りたくなる時代の機運」というものがあったのかもしれません。
 「西洋」と単独で対峙できないから「東洋」という「拡張された自我」を持つことによって、日本という国は西洋と対峙しようとしていたのではないか、という“心理分析"のような仮説も登場します。ならば「東洋」は、きちんと定義されない方が都合が良いことになります。なんとでも解釈できる方が、いろんな主張ができますから。
 意外だったのは「オリエンタリズム」には差別の匂いがする、という指摘(それを言ったのはパックンマックンのパックン)。もともと「西洋人」が言う「オリエント」には「西洋以外」の意味がありそこには「西洋よりは劣った」という価値観が付着していました。しかしその二分法の表面だけが日本にやって来て、日本では「東洋」と言ったらちょっと心強い、と「東洋」が愛用された、つまり、日本では「東洋」は「日本」と同義らしいのです。それを言うと「西洋」からは軽蔑されている、とも知らずに。さらに日本人観光客が東南アジアの観光地で「アジア的なものを感じる」という感想には「プチ・オリエンタリズム(日本から見て劣ったもの、という言明)」があるのではないか、という指摘もあります。「オリエンタリズム」があるからこそ、アジア人である日本人がわざわざ「アジア的」なんて口走ることができるのだ、と。ところがそこに「中国」がからむと話はさらにややこしくなります。
 いや、単なるお馬鹿話でまとまるのか、と思っていたら、意外に(失礼!)深いところまで話が行ってしまいました。私自身、自分の中で「東洋一」に反応する部分を、もうちょっと深掘りした方が良さそうだ、なんてことを思っています。



世界通貨

2019-07-19 07:48:16 | Weblog

 facebookが「リブラ」という「世界通貨」を発行(主導)しようとすることに対して各国政府が猛反発をしています。「中央銀行が通貨を管理できなくなる」という理由だそうですが、そもそも各国の中央銀行はきちんと通貨を管理できていましたっけ? 「暗黒の○曜日」とかは、中央銀行がその国の経済をきちんと管理できていたら最初から起きないのでは?
 もちろんfacebookがきちんと通貨を管理できるか、と言えば私は疑問を持っています。混乱を招くだろう、という強い予感ならあるので大賛成をしたい気分ではありません。
 しかし「世界通貨」は必ず登場するでしょうし、その時自国の中央銀行に無理難題を押しつける政府(たとえば日本やアメリカや中国)が、世界通貨を発行するところも支配しようとして醜い争いが起きるだろうことも簡単に予想できます。となると、どうしても民間企業が嫌だったら、中央銀行の独立性をきちんと保証している国の政府関係者が集まってどの国からも独立した組織を作る、が現時点では取りあえず最善の策、かな?

【ただいま読書中】『宇宙倫理学』伊勢田哲治・神崎宣次・呉羽真 編、 昭和堂、2018年、4000円(税別)

 ふざけたタイトルに思えますが、中身はたぶんまともだろう、という自分の予感を信じて図書館から借りてきました。序章で水谷雅彦さんは「『宇宙倫理学』という言葉を初めて聞いたときの印象は『それは何かの冗談なのであろう』といったものであった」と書いていますから私が「ふざけたタイトル」と感じたのもあながち的外れの反応ではなかったわけです。なお、日本でのこの言葉の初出は、1967年「万国博ニュース」1月号に手塚治虫さんが寄せたエッセイ「二十一世紀の夢」だそうです。本書には付録としてこのエッセイが収められていますが、その先見の明には驚きます。
 宇宙は過酷な環境で、環境倫理が問われます。その環境に適応するために人体改造をする場合、そこにも倫理が登場します。SF的な話ですが、異星人との遭遇にも倫理問題がつきまといます。地球外コロニーで産まれた子どもの「国籍」はどうしましょう?(「機動戦士ガンダム」サイド7で戦災孤児となったカツ、レツ、キッカのトリオは自分たちを何国人だと感じているのでしょうねえ)
 序章で恐ろしい問いかけがあります。「宇宙開発の倫理面の検討の前に、そもそも宇宙開発はしてもよいのか」「人類の絶滅を避けるための行動を論じる前に、そもそも人類絶滅は避けるべきなのか」。えっとぉ……
 本書で特徴的なのは「エビデンス(根拠)」を重視することです。社会科学的な議論では(下手すると自然科学での議論でも)大きな声でエモーショナルな主張が展開されることがありますが、本書で求められているのは「エビデンス」と矛盾しない「主張の正当性」。何かを論じる場合、たとえば宇宙での原子力利用について論じるなら、そのメリットとデメリットに同じだけの科学的あるいは社会的なエビデンスを示す必要がある、と本書では主張されています。もちろん社会学では自然科学に比較して因果関係を明確に示すのが困難な場合が多いのですが、最近進歩した「統計的因果推論」の手法を用いれば、以前よりは真っ当な議論が可能になってきているそうです。
 倫理学にも統計を活用できる時代になったんですね。そのうちAIも活用できるようになったら、面白そうです。
 さらに、各科学領域の専門家との協働も強く提案されています。その具体例でしょう、本書には「天文学者と倫理学者の対話」が一章を割いて収載されています。
 宇宙開発、宇宙事故、宇宙医学、宇宙動物実験、スペースデブリ……話題は尽きません。将来の話ですが、有人火星探査が始まったら、そこでも「帰還を前提としない派遣」「火星の惑星改造の是非」などが倫理的な問題として浮上してくることでしょう。宇宙の軍事的開発や資源開発も、国のエゴむき出しの動きが生じるはず。そのとき「国民」としてではなくて「人類」として考える人間の数が増えていたら、悲劇的なことは起きにくくなるのではないか、と私は考えています。



ライクアヴァージン

2019-07-18 06:52:30 | Weblog

 ヴァージンとは処女だ、と聞いていたのですが、辞書で初めてvirginを引いたとき「処女」「童貞」とあって私は驚きました。「すると僕もvirginなんだ」と。

【ただいま読書中】『処女の文化史』アンケ・ベルナウ 著、 夏目幸子 訳、 新潮社(新潮選書)、2008年、1400円(税別)

 ヒポクラテスとアリストテレスの理論を統合したガレノス(古代ローマの有名な医者)の「4体液説」では、性交やオルガスムスを経験していない処女は体液のバランスが悪くなり不健康になる、と見なされていました。その“治療法"は結婚(ありていに言うなら、性交)。ガレノスの医学理論は中世どころか近代までヨーロッパを支配していて、ルネサンス以降も「ヒステリア(ヒステリー)」は処女と未亡人の病、とされました。その原因はもちろん性交不足です。神学的には処女はむしろポジティブな価値を与えられていましたが(ユニコーンが処女にだけ従う、といったのも「処女は良いもの」の表れでしょう)、医学的には「処女は悪いもの」だったようです。
 日本では、貴族は妻問婚で、通ってみたら別の男がすでに屋敷に入っていて(牛車が外で待っているからわかります)「仕方ないなあ、今夜は別のところに行こうか」と言った感じで男はさっと引くし子供ができたら父親が誰であろうと女の家で育てるという性風俗でした。庶民は歌垣や盆踊りや夜這いで好き放題ですから、ここでも処女が特別視されていたか、というと疑問です。おっと、平安貴族では「女が死んだら、三途の川を渡るときには初体験の相手の男が背負って渡す」という伝承がありましたっけ(この話は「伊勢物語」や「源氏物語」に登場します)。ただこれも「処女は大切」ではなくて「処女でなくなるときの相手が大切」といった感じですが(というか、処女が死んだらどうやって三途の川を渡るのだろう?)。
 「処女の定義」は実はとても難しいそうです。処女膜で定義する人もいますが、最初からない人もいるし生まれたときにはあっても性行為を知らないうちに破れている場合もあります。さらにアクロバチックな話をするなら、オーラルセックスやアナルセックスをばんばん経験しているけれど処女膜はきっちり保存している人は「処女」でしょうか? また「無孔の処女膜(ペニスでは貫通が難しい膣閉鎖)」を持つ売春婦(実在の女性)は処女かどうか、の議論も19世紀には行われています(医学的には「完璧な処女膜」だったそうです。多数の男を相手にして(性交に失敗させて)梅毒もうつされていましたが)。
 「処女性」については、19世紀ヨーロッパの男性社会では「処女の純潔と謙虚さ」が理想化されましたが、結婚をしないフェミニズムの闘士の処女性については嫌悪されました。
 中世ヨーロッパで「処女性」に関しての“権威"は医学ではなくてキリスト教でした。そこで求められるのは、魂の純潔と肉体の純潔の両立です。11世紀後半の教皇グレゴリウス7世は、全ての司祭・修道士・修道女に「処女性」を求める「改革」を断行しました。ところが多くの教会関係者は結婚をしていて大混乱に。離別された妻たちは、貧困と売春に陥ったのではないか、と著者は推定をしています。
 「処女」と「処女性」は時代によって一致する場合もあれば不一致になる場合もあります。その時その時でけっこう適当です。ただ、キリスト教社会では「処女」も「処女性」も女性を縛る方向に機能していたことは本書でよくわかります。イスラムでも女性は社会的に縛られていますが、キリスト教も同じ神を崇拝するからか、女性に対する態度は似ていますね。



遊園地

2019-07-17 07:14:02 | Weblog

 私が子供の時には、時々近くの水族館や市境を越えた隣の郡にある遊園地に連れて行ってもらうのが楽しみでした。今にして思うと実に素朴な遊具だったのですが、「絶叫系」と言った感じで無理に刺激をもらわなくても、のそのそと楽しめていましたっけ。

【ただいま読書中】『世界遊園地大全 ──想像を超える世界の楽しい遊園地』グラフィックス社 編集、グラフィックス社、2016年、1700円(税別)

 世界中から「すごい遊園地」を集めまくった本です。いや、どこもカラフルでスリルと楽しさが満ちあふれている様子です。
 絶叫系遊具で有名なところは「絶叫系というより、絶望系」とまで言ってくれます。
 私が興味を引かれたのは、「フェラーリワールド・アブダビ」(F1パイロットの気分になれるそうです)、「リンナンマキ」(フィンランド。観光客でも入場無料)、「スイス・ワープレー・パーク」(1周2kmのミニ列車のコースがある)。
 しかし、どの遊園地でも、大人が楽しそうにしているのが、印象的でした。それと、スタッフの笑顔も素敵。バブル期に隣の市にできた遊園地は、宣伝文句とは裏腹、家族連れで出かけたら、若者しか楽しめない空間で、幼児もややくたびれたおっさんも楽しめないところだったのを、恨めしく思い出したりします。「万人」というのは無理かもしれませんが、いろんな年代が楽しめたら持続可能な遊園地になるのではないか、なんてことも思います。



海の英雄

2019-07-16 07:06:54 | Weblog

 私にとって海洋冒険小説のシリーズと言えば、「ホーンブロワーシリーズ」と「ボライソーシリーズ」です。大学を卒業する2年くらい前に悪い友達が「ホーンブロワーは面白いぞ」と教えてくれてしっかりはまってしまい、おかげで卒業するのにちょいと苦労する羽目に(ホーンブロワーが悪いのではないんですけどね)。おかげでナポレオン戦争のときに「海」で何が起きていたのか興味を持って視野がひろがったのはありがたいことでしたけれど。

【ただいま読書中】『ユトランド大海戦(海の異端児エバラード・シリーズ1)』アレグザンダー・フラートン 著、 高津幸枝 訳、 光人社、1986年、1300円

 ニック・エバラート中尉は、海軍の“伝統"であるしごきやいじめに忌避感を持っています。そのため、弱い士官候補生に命にかかわるいじめをしようとした上官を殴ってしまい「怠惰、無知、反抗的」という評価と共に、戦艦から駆逐艦ラニャードに急遽転属となりました。
 実に魅力的なオープニングです。波に洗われる艦船での会話や人の動きが臨場感を持って描写され、この作品(シリーズ)は面白そうだぞ、という予感が読者に与えられます。
 ニックの他に主要登場人物になりそうなのが、ニックの叔父ヒュー・エバラート(海軍で冷や飯を食わされてたがフォークランドでの海戦に勝利して現在地位は上昇中)とニックの兄デビッド(これが嫌な人物です。ハンサムで優等生で何をやらせてもそつはないけれど、権威主義で冷淡で人や物事のアラばかり探すタイプ)、さらに父の後妻セアラ(ニックの母というより姉に近い年齢。頭がよくて魅力的。ヒューは彼女に恋心を抱いています)の3人です。で、著者はカットの切り替えが実に上手く、これだけの情報を、他の乗組員の人物像や日常生活の描写や敵軍(ドイツ海軍、特にUボート)の動きも折り込みながら、わずか数十ページで、第一次世界大戦での戦場となった北海がどんな雰囲気であったかを、実名や実在の艦をたっぷり入れることで実に“リアル"に舞台構築してくれます。
 艦隊に錨地スカパー・フローからの出撃命令が下ります。敵はいるのか? 出撃の目的は? 乗組員はいろいろ推測しますが、読者にも乗組員にも「実は敵はここにいてその意図はこれこれで」なんて都合の良い全体像の情報は与えられません。この点でも“リアル"です。だから「敵艦発見」の一報にも「敵艦隊の本体か?」「それとも偵察や先遣隊か?」「陽動や囮か?」「敵潜水艦はいないか?」とこちらは迷ってしまいます。見えたのは2艦だけなので敵艦隊の主力がどこにいるかは推測するしかありません。さらに味方の方も、GPSでリアルタイムに表示されるわけはなく、夕闇と煤煙(当時の主力は石炭エンジンです)で信号旗はみづらく、進路変更命令が徹底されたかどうか不安定。よほど想像力が豊かで多方面に同時に注意することができる指揮官でなければ、戦場の管理は困難です。しかしこの時の艦隊指揮官は、勇猛さでは誰にも負けませんが、細かいことについては……ちょっと難がある人。さてさて、一抹の不安を抱えながら(抱える指揮官も含みながら)英国艦隊は戦闘に突入します。
 そこでも著者は“細々したこと"を忘れません。たとえば「戦艦が主砲を発射した」と読むと私はついついその砲弾の行方の方に目が行ってしまいますが、著者はその時砲塔内で何が起きているのか、を個人レベルで描いてくれます。砲尾を誰がどのように開き、エレベーターの下の火薬庫では誰が働き、安全装置はどんなときに働くのか。いやいや、そんなことを読んだのは初めてです(ホーンブロワーの大砲発射のシーンでは、先ごめの大砲の操作についてはたっぷり“学"べましたけれどね。これは艦長の視野に入るから当然なのですが、エバラートでは砲塔内なんて“密室"です。そこを描くとはすごい)。
 巡戦艦群の遠距離砲撃戦が始まりますが、ニックが乗る駆逐艦の主砲は4インチ。まだ戦闘に参加はできない距離です。弾着が近づき、近づき、そして着弾。ヒューが指揮する戦艦ナイル号は、最新の15インチ砲を搭載しています。この打撃力は前代未聞のはず。しかし、打ち合いになれば自分も打たれるのです。そして、ついに駆逐艦の出番が来ます。全速力で接近しての魚雷攻撃です。初の実戦、ニックは自分の経験不足を感じ、さらに力量不足かもしれないという恐れを抱きます。そしてドイツ艦隊も、駆逐艦の戦隊を繰り出します。英駆逐艦の進路を変えさせさらには英国の艦隊本体に魚雷をたたき込むために。ここはニックの視点からの物語です。
 ヒューの視点からはもう少し大きな物語が見えます。ドイツのヒッパー艦隊はイギリスのビーティー艦隊を打ち破ったと思い追撃しています。しかしそこにはビーティーの援軍として出動した第五戦艦隊が待ちかまえていました。さらに第五戦艦隊はヒッパーに続いて出撃したシーア艦隊も叩くつもりなのです。
 本書に隠されたテーマに「コミュニケーションの難しさ」があるように私は感じました。戦闘中の命令伝達は「信号旗」「探照灯」「電信」で行われますが、どれも不確実です。艦内の情報伝達は伝声管と伝令ですが、これまた不確実。よくもまあこれで戦闘に勝てるものだ、と私は驚きます。では、面と向かってしっかり話をしたら伝わるかといえば、これがまた難しい。お互い腹に一物あるしまわりの目も気になるし、そもそも自分が何を本当に伝えたいのか自分がわかっていなかったりします。何とももどかしいやり取りを見ながら、私は自分のことも考えてしまいます。
 ユトランド沖海戦は、日本海海戦から始まったと言える大砲巨艦主義の時代の最後の“砲声"でした。弩級戦艦を主力とするドイツ海軍は超弩級戦艦を含む英国軍との直接対決を避けてなるべく港に引っ込んでいましたが、とうとう引っ張り出されてしまったのでした。そして、その艦隊決戦を複数の個人の視点から立体的に描くという荒技を著者はやってのけています。日本ではあまりこの海戦は広く知られていませんが、こういった史実をベースにしたフィクションだからこそその戦いの実相が後世に伝わるかもしれません。日本でもこういった手法で描ける戦いの材料はいくらでもあると思います。日本の作家にも、期待します。



昭和のサーカス

2019-07-15 08:34:51 | Weblog

 昭和の時代、サーカスに関して「子供が遅くまで遊んでいるとサーカスに攫われる」「攫われた子供は曲芸のために酢を飲まされて体を柔軟にする」なんてことがまことしやかに言われていました。しかもそれをまともに信じている人もいました。ちゃんと確認してそういった“営業妨害"をしていたのかな?
 そういったことを言っていた人は、今は何について同様の憶測に基づく“営業妨害"をやっているのでしょう?

【ただいま読書中】『木下サーカス四代記 ──年間120万人を魅了する百年企業の光芒』山岡淳一郎 著、 東洋経済新報社、2019年、2000円(税別)

 まずは「現在」から話は始まります。木下サーカスを見に行ったことがある人には説明は不要でしょうが、サーカスは巨大なテントで行われています。2〜3箇月ごとに場所を変えながら日本のあちこちに巡業をしています。20世紀に劇団四季が「キャッツ」を日本各地にテント小屋を建てて公演していたことを私は思い出します。昔の日本では「旅芸人」が旅をしながら芸を披露していましたが、そういった「日本の伝統」がここには残っているのかもしれません。
 著者が取材で泊まり込んでいたとき、サーカスは札幌の公演を終え、熊本に引越をしました。「場越し」と呼ぶそうですが、これが大変。社員101名(とその子供たち16人)、大テント・観客席・舞台装置・動物・生活用品・家具などを全部安全に定刻に移さなければなりません。社長も率先して杭を抜いていきます。台風も接近している中、皆がフル回転で動いています。
 木下家という「家」制度や昔の香具師、大家族的な雰囲気も残るサーカス団員たちの集団ですが、外国人も多くいてグローバルでもありますが、そこには「そうなった歴史」がありました。
 ということで話は「過去」に。
 サーカスの“原型"「軽業」は奈良時代に中国から伝わりました。江戸時代、地元の顔役が管理する掛け小屋(興行の時だけ組み立てられる丸太小屋)を旅芸人は移動しながら軽業などを演じていました(江戸幕府は火災の恐れから歌舞伎以外に常設小屋を認めませんでした)。明治時代には西洋から曲馬団がやってきて、「サーカス」へと進化します(ただし「サーカス」と呼ばれるようになったのは昭和になってからで、それまでは「曲馬団」)。木下サーカスの初代矢野唯助は、一旗揚げようと興行の世界に飛び込みました。ここからの人生は波瀾万丈。シベリア東部で興行をしているときに日露戦争が起き急ぎ帰国しているようですが、詳しい一次資料は残っていません。唯助は旅芸人をするだけではなくて、岡山で興行権の元締めとなりました。さらに、日本のあちこちでの香具師同士の喧嘩仲裁で全国に名を売ります。しかし、喧嘩で自分の弟を殺した犯人が悔いたのを見て子分に加えて仕事をさせるとは、ただ者ではありません。
 観客から見てサーカスで一番重要なのは「面白さ」です。団員が日本人だろうと外国人だろうと、基本的に関係ありません。しかし興行はみずもの。浮き沈みが極端に激しく、当事者のストレスはとんでもないものだっただろう、と感じられます。特に戦争はサーカスに悪い影響を与えました。日中戦争が進むにつれ、政府はサーカスを統制しようとします。まず行われたのが猛獣の殺処分。ついで、丸太掛け小屋の禁止(空襲の的になる、がその理由です。意味がわかりません。的になるのだったら、いわば囮として、軍需工場への爆弾投下が少しでも減るんじゃないです? そもそも航空からの絨毯爆撃に「的」がありましたっけ?)。
 戦後の日本サーカスは「三タ(木下、シバタ、有田)」がトップで、2番手グループに矢野とキグレ、中小を含めると20団体以上が活動していました。競争(特に人が集まる場所の奪い合い)は激しく、2代目団長光三はなんとハワイ興行を実行します。莫大な損害を出した日系人部隊の在郷軍人会館を建設するのに、日本の芸能人を招いて興行することで資金集めをしたい、との話に乗ったのでした。交渉は大変です。GHQの許可を取るのは大変ですし、ハワイの興行元からは細かい注文がつきます。この時木下サーカスより一足先にハワイに渡ったのは、美空ひばりでした。ハワイ興行で名を売った光三には全国の興行界から「ぜひ兄弟分に」の誘いがかかりますが、光三は「稼業違い」ときっぱり。戦後のどさくさで、香具師と博徒の境目が溶けてしまった風潮に、光三は我慢がならなかったようです。さらに光三は「丸太掛け小屋から丸テントに」「給与は月給制(基本給+能力給)」という「革命」を起こします。これは「サーカスと地元の興行主との関係」「サーカス団と団員の関係」を根本から変革するものでした。なお、このとき大テントを開発した太陽工業は、先駆的な張弦梁構造の開発でノウハウを蓄積し、やがて東京ドームの屋根・天井の空気膜が生み出されることになります。
 光三のマーケティング理論は独特です。客は一生で3回来てくれたらよい、最初は子供の時親に連れられて、次は自分が親になって子供を連れて、最後は歳を取って孫と一緒に、と、とても長いスパンでものごとを考えています。だから他のサーカスがどんどん潰れても、木下は生き残ったのかもしれません。
 戦後、反日感情が渦巻く東南アジアに、木下サーカスは何度もチャリティー公演を行っています。大した儲けにはならず身の危険を感じるのにもかかわらず行ったのは、光三の戦争体験が影響しているのではないか、と著者は推測をしています。
 10億円の負債からの再出発、“新しいサーカス"シルク・ドゥ・ソレイユの刺激、団員の間で進むグローバル化……木下サーカスは「ビッグ・ファミリービジネス」の筋目は変えず、しかし柔軟にその姿を変えていきます。私が木下サーカスを最初に見たのは昭和30年代、次は平成10年ころだったかな。空中オートバイの台数が増えていたのに驚きましたっけ。さて、次はいつ行くことになるのでしょう?



無礼千万

2019-07-14 07:32:06 | Weblog

 時節柄、選挙の電話がかかってくるのはしかたないのですが、昨日のは最初から候補者の録音音声で、一方的に自己紹介をしてこれから短時間だから自分の主張を聞け、という要求でした(口調は丁寧でしたけれどね)。
 無礼千万だと私は感じます。こんな失礼なことを平気でできる人に権力を握らせたら、増上慢も極まれりになりそうなので、少なくとも私はこの人には投票しないことにしました。
 たぶん、最近の日本では、私が何を失礼と感じたのか、は理解されなくなっているのでしょうね。だからこんな電話が平気でできるようになったんだろうなあ。

【ただいま読書中】『トマト缶の黒い真実』ジャン・バティスト・マレ 著、 田中裕子 訳、 太田出版、2018年、1900円(税別)

 中国最大(世界で第2位)のトマト加工工場の描写から本書は始まります。新疆ウイグル地区のトマト畑から収穫された年間180万トンのトマトから25万トンの3倍濃縮トマトを製造し、ケチャップやトマトソースの原料として世界中に輸出しています。産業のグローバル化と同様、ハインツのトマトケチャップの“組み立て"も地球の各地で行われているのです。品種改良された「加工用のトマト」は楕円形で水分がとても少なく固いものになっています。生食用のトマトとは「別のトマト」です。
 フォードの工場がT型フォードを大量生産し始める数年前、ハインツの工場はすでに電化されベルトコンベアを使っての大量生産が行われていました。ハインツは資本主義の先駆者だったのです。そして中国では、人民解放軍の兵団が経営する複合企業が「トマト戦争」を戦いました。この両者が協力することで、両者は「トマト世界での勝者」になります。
 ドラム缶に詰められた中国産の濃縮トマトは、イタリアに荷揚げされるとちょっと水分や塩を加えられ「イタリア産」として再出荷されます。EUの法律には、原材料の生産地を書く義務はないのです。イタリア産のトマトを加工している業者は、大憤慨です。さらに大手スーパーは味よりも値段を重視して、中国と同じ値段の「イタリア産」濃縮トマトの納入を求めます。
 イタリアには(というか世界のあちこちに)アグロマフィアが活動しています。かつて違法活動で資金を蓄えた4大マフィアが、合法の世界で資金洗浄するために目をつけたのが“クリーン"な「イタリアの食品(特にオリーブオイルと濃縮トマト)」だったのです。
 中国の企業は自分たちがイタリアに輸出した濃縮トマトがほとんどラベルを貼り替えるだけで値段がアップされてアフリカに再輸出されていることに気づきます。だったら自分たちが直接アフリカに輸出したら儲けはもっと増えます。ということで直接輸出が始まります。そのトマト缶はいくつかのランクに分けられていますが、そのランク分けの基準は「缶の中に濃縮トマトが何%入っているか」です。最低ランクは「トマト31%、添加物(澱粉、大豆食物繊維、人参パウダーなど)69%」。ただしラベルにはそういったことは一切記載されていません。「原材料:トマト、塩」だけです。著者はガボン共和国の業者が新しく輸入に参入したいのだ、という話を携えて国際食品見本市に出かけ、中国の企業から様々な手口を聞き出していますが、これってどこが「違法ではない」のかな?
 強欲資本主義は、様々なものを破壊しますが、缶詰のトマトという実にシンプルに見えるものでさえ“汚染"されているとは、ちょっとしたショックでした。
 ところで、この話は「トマト限定」ではないですよね? 他の加工食品は、大丈夫なのかな?



明治維新の後

2019-07-13 08:12:11 | Weblog

 「明治維新」を起こした人たちは「維新を起こす」と行動したわけではなくて「江戸幕府(体制)を壊す」として行動していて、だから実際に幕府が瓦解したら、金はない才能は足りない人々は言うことを聞かない外国は好き放題言う、で困ってしまいました。
 今の地球は、軍事力はほぼ飽和状態で資本主義は強欲の局地に到達、これは何かを変えないといけないように見えますが、さて、「維新」を起こすにしても後にどんな困った状態が起きるのか、あらかじめ準備ができたら(せめて心構えができたら)良いんですけどね。

【ただいま読書中】『都市空間の明治維新 ──江戸から東京への大転換』松山惠 著、 筑摩書房(ちくま新書1379)、2019年、880円(税別)

 「明治維新」は「日本の近代化(文明開化)」という文脈で捉えることが普通ですが、本書では「江戸が“植民地化"されることで東京となっていく過程」に注目しています。たしかに「江戸」は「江戸」で「東京」は「東京」です。
 江戸に限らず、日本の城下町は「身分制度」によって土地が分割利用されていました。江戸では特に大名屋敷など「武家の土地」が大量に存在していて、明治政府はそれを活用することで「江戸」を「東京」へと改造していったのです。
 江戸時代の日本の「三都」は、江戸が軍事・京が政治・大坂が経済、と機能分化をしていました。京が政治の実権を保持・行使していたかといえば疑問ですが、少なくとも「花の都」が京であることは江戸時代の日本人には当然のことであり「シンボル」としての政治的な機能は京が持っていたわけです。
 文久二年(1862)幕府は参勤交代の緩和を通達、翌年には将軍が“上京"します。このあたりから「政治の中心」が京であることが明示的になってきたわけです。しかし新政府の首脳は「京以外に政治の中心を移すこと」を考えていました。たとえば鳥羽伏見の戦い頃から大久保利通は大坂遷都、江藤新平は東西両都論を主張しています。ただ、戊辰戦争の帰趨はまだ決まらない段階では、新都を具体的に決めるのは困難でした。しかし東北の戦況が定まり前島密(幕臣)の建白(江戸遷都論)で、新政府首脳の目は「江戸にある広大な武家地」に向きます。
 京から東京へ移住する公家は、拝領している屋敷をまず新政府に返納し、東京でそれとほぼ同規模の旗本屋敷を拝領する、という手続きを踏みました。公家や新政府の中枢は「郭内(江戸城近辺)」に集められます。諸大名は領国から切り離される形で「郭外(郭内の外側の地域)」に集められました。
 では庶民は? 明治5年の大火のあと、「煉瓦街計画」が提案され、最終的に銀座の煉瓦街が完成しました。著者はこの計画を詳細に検討し、身分から解放された人々が住む街を最終的に作ろうとしていたのではないか、と当時の政府の意図を読み解きます。ただ、東京全体を改造しようという遠大な計画は、頓挫しました。政府の資金不足と人々の抵抗が原因です。ちょうど地租改正も行われていましたが、人々にとって「土地に値段がある」ことは全く新しい概念でした。そこに都市計画の話を持ち込んでも、理解はされないでしょう。しかし、江戸を改造する動きから庶民が無関係でいられるわけはありませんでした。
 政府が特に重要視していたのは「貧民」対策だったようです。そのため「桑茶令」というものも構想されました。困窮している人に東京府下を開墾して桑園や茶園を作らせてそれで自活させよう、というアイデアです。それまで「町民は町地、武士は武家地に居住」という身分制度があったのを見直して「町地、武士地、開墾地」に再編成しよう、というのですが、これ、絶対無理筋に思えますが、数年で武家地のうち102万坪が農地に転換されたそうです。昔の東京には土地がたっぷりあったんですねえ。開墾と同時に、貧民の数減らし(東京からの追放)も行われていました。主な行き先は下総原野で、仕事は開墾です。さらに北海道への移住も進められました。幕臣が移動させられたあとの文京区白山にも広大な桑茶畑が創出されました。今の現地に、その名残はあるのかな?
 「帝都」を作り出すために、様々な人々がそれぞれの思惑で動き、何となく今の東京の素地が作られていったようです。現在も東京では再開発が行われていますが、さて、どんな人がどんな思惑で動いているのでしょうねえ。



みっちゃんみちみち

2019-07-12 07:53:49 | Weblog

 名前でその人をからかう、というのは、子供だったら誰でもやったことがある、やったことがなくても聞いたことはあるはずです。だけど、いい大人がそんなことを子供じみたことをやるのは、なんとも情けない態度。ところで安倍さんは枝野さんを所属政党の名前でからかいつづけていますが、これっていい大人がやることかなあ、と私はその堂々たる態度に感心しながら思っています。

【ただいま読書中】『流罪の日本史』渡邊大門 著、 筑摩書房(ちくま新書1290)、2017年、860円(税別)

 日本の歴史で最初に流罪となったのは、允恭天皇の皇女軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)で、その罪状は、同母兄の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)との近親相姦で伊予の国への流罪となりました(当時、異母なら兄妹でも問題はなかったのですが)。
 律令制度では刑罰は軽い方から「笞罪(ちざい、鞭打ち)」「杖罪(じょうざい、鞭打ち+監獄)」「徒罪(ずざい、労役刑、おおむね1〜3年)」「流罪」「死罪」となっていました。つまり流罪は死罪に次いで重い刑罰だったわけです。聖武天皇は死罪廃止を唱え、弘仁九年(818)に死罪は廃止されました(最後の死罪は、弘仁元年(810)藥子の乱で藤原仲成の処刑)。それが復活したのは平治元年(1159)平治の乱で藤原信頼らの処刑で、実に約350年間日本では流罪が最高刑でした。最高刑だけあって厳しく、たとえ近くの国に流されていても、一生元の土地に戻ることは原則として許されませんでした。
 天皇でも流罪にされます。最初の例は、淳仁天皇。皇位継承争いで廃帝とされ、淡路国に流されました。崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に配流、そこで怨霊になったと伝えられています。流罪から逆転をしたのは源頼朝。痛々しいのは俊寛(喜界ヶ島)。ただ、この頃から、恩赦で帰還が許される例が増えてきています。流罪の性質が変化してきたのでしょう。鎌倉時代の「御成敗式目」では「裁判での悪口」「不倫」「裁判の証拠文書の偽造」にも流罪が適用されることがある、と規定されています。今の日本政府のお役人などは、流罪をがんがん喰らいそうです。
 承久の乱では、三上皇の流罪が行われました。これは、鎌倉幕府にとっては「見せしめ(反抗勢力の鎮静)」が主目的だったはず(公的な記録は残されていません)。親鸞や日蓮も流罪になりましたが、これは見せしめというよりも熱狂的な信者から引き離してほとぼりを冷ます効果を狙ったのでしょうか。ただ、新しい布教の場を与える、という皮肉な結果をもたらしてしまったようですが。
 室町時代頃から街道は整備され、「遠隔地に隔離」にはそれほどの意味がなくなってきました。そのためか流罪は権力側のパフォーマンスの意味合いが強くなってきます。そして江戸時代、「離島」が活用されることになります。江戸は犯罪者を遠くに置きたい、しかし島の方では犯罪者を送り込まれるのは迷惑です。もちろん流人も不幸です。なんとも救いのない犯罪対策です。
 明治政府も最初は流罪を採用していました。流刑地は北海道。さらに、これまでの時代にはなかった「強制労働(開拓の仕事)」が課せられました。宿舎は集治監と呼ばれる牢屋。なんとも“近代的"な流罪です。ナチスやソ連の強制収容所の先駆者ですね。これが廃止されたのは、明治41年「刑法」が制定されてからでしたが「文明開化」は意外なところで明治早期から花開いていたようです。