私にとって海洋冒険小説のシリーズと言えば、「ホーンブロワーシリーズ」と「ボライソーシリーズ」です。大学を卒業する2年くらい前に悪い友達が「ホーンブロワーは面白いぞ」と教えてくれてしっかりはまってしまい、おかげで卒業するのにちょいと苦労する羽目に(ホーンブロワーが悪いのではないんですけどね)。おかげでナポレオン戦争のときに「海」で何が起きていたのか興味を持って視野がひろがったのはありがたいことでしたけれど。
【ただいま読書中】『ユトランド大海戦(海の異端児エバラード・シリーズ1)』アレグザンダー・フラートン 著、 高津幸枝 訳、 光人社、1986年、1300円
ニック・エバラート中尉は、海軍の“伝統"であるしごきやいじめに忌避感を持っています。そのため、弱い士官候補生に命にかかわるいじめをしようとした上官を殴ってしまい「怠惰、無知、反抗的」という評価と共に、戦艦から駆逐艦ラニャードに急遽転属となりました。
実に魅力的なオープニングです。波に洗われる艦船での会話や人の動きが臨場感を持って描写され、この作品(シリーズ)は面白そうだぞ、という予感が読者に与えられます。
ニックの他に主要登場人物になりそうなのが、ニックの叔父ヒュー・エバラート(海軍で冷や飯を食わされてたがフォークランドでの海戦に勝利して現在地位は上昇中)とニックの兄デビッド(これが嫌な人物です。ハンサムで優等生で何をやらせてもそつはないけれど、権威主義で冷淡で人や物事のアラばかり探すタイプ)、さらに父の後妻セアラ(ニックの母というより姉に近い年齢。頭がよくて魅力的。ヒューは彼女に恋心を抱いています)の3人です。で、著者はカットの切り替えが実に上手く、これだけの情報を、他の乗組員の人物像や日常生活の描写や敵軍(ドイツ海軍、特にUボート)の動きも折り込みながら、わずか数十ページで、第一次世界大戦での戦場となった北海がどんな雰囲気であったかを、実名や実在の艦をたっぷり入れることで実に“リアル"に舞台構築してくれます。
艦隊に錨地スカパー・フローからの出撃命令が下ります。敵はいるのか? 出撃の目的は? 乗組員はいろいろ推測しますが、読者にも乗組員にも「実は敵はここにいてその意図はこれこれで」なんて都合の良い全体像の情報は与えられません。この点でも“リアル"です。だから「敵艦発見」の一報にも「敵艦隊の本体か?」「それとも偵察や先遣隊か?」「陽動や囮か?」「敵潜水艦はいないか?」とこちらは迷ってしまいます。見えたのは2艦だけなので敵艦隊の主力がどこにいるかは推測するしかありません。さらに味方の方も、GPSでリアルタイムに表示されるわけはなく、夕闇と煤煙(当時の主力は石炭エンジンです)で信号旗はみづらく、進路変更命令が徹底されたかどうか不安定。よほど想像力が豊かで多方面に同時に注意することができる指揮官でなければ、戦場の管理は困難です。しかしこの時の艦隊指揮官は、勇猛さでは誰にも負けませんが、細かいことについては……ちょっと難がある人。さてさて、一抹の不安を抱えながら(抱える指揮官も含みながら)英国艦隊は戦闘に突入します。
そこでも著者は“細々したこと"を忘れません。たとえば「戦艦が主砲を発射した」と読むと私はついついその砲弾の行方の方に目が行ってしまいますが、著者はその時砲塔内で何が起きているのか、を個人レベルで描いてくれます。砲尾を誰がどのように開き、エレベーターの下の火薬庫では誰が働き、安全装置はどんなときに働くのか。いやいや、そんなことを読んだのは初めてです(ホーンブロワーの大砲発射のシーンでは、先ごめの大砲の操作についてはたっぷり“学"べましたけれどね。これは艦長の視野に入るから当然なのですが、エバラートでは砲塔内なんて“密室"です。そこを描くとはすごい)。
巡戦艦群の遠距離砲撃戦が始まりますが、ニックが乗る駆逐艦の主砲は4インチ。まだ戦闘に参加はできない距離です。弾着が近づき、近づき、そして着弾。ヒューが指揮する戦艦ナイル号は、最新の15インチ砲を搭載しています。この打撃力は前代未聞のはず。しかし、打ち合いになれば自分も打たれるのです。そして、ついに駆逐艦の出番が来ます。全速力で接近しての魚雷攻撃です。初の実戦、ニックは自分の経験不足を感じ、さらに力量不足かもしれないという恐れを抱きます。そしてドイツ艦隊も、駆逐艦の戦隊を繰り出します。英駆逐艦の進路を変えさせさらには英国の艦隊本体に魚雷をたたき込むために。ここはニックの視点からの物語です。
ヒューの視点からはもう少し大きな物語が見えます。ドイツのヒッパー艦隊はイギリスのビーティー艦隊を打ち破ったと思い追撃しています。しかしそこにはビーティーの援軍として出動した第五戦艦隊が待ちかまえていました。さらに第五戦艦隊はヒッパーに続いて出撃したシーア艦隊も叩くつもりなのです。
本書に隠されたテーマに「コミュニケーションの難しさ」があるように私は感じました。戦闘中の命令伝達は「信号旗」「探照灯」「電信」で行われますが、どれも不確実です。艦内の情報伝達は伝声管と伝令ですが、これまた不確実。よくもまあこれで戦闘に勝てるものだ、と私は驚きます。では、面と向かってしっかり話をしたら伝わるかといえば、これがまた難しい。お互い腹に一物あるしまわりの目も気になるし、そもそも自分が何を本当に伝えたいのか自分がわかっていなかったりします。何とももどかしいやり取りを見ながら、私は自分のことも考えてしまいます。
ユトランド沖海戦は、日本海海戦から始まったと言える大砲巨艦主義の時代の最後の“砲声"でした。弩級戦艦を主力とするドイツ海軍は超弩級戦艦を含む英国軍との直接対決を避けてなるべく港に引っ込んでいましたが、とうとう引っ張り出されてしまったのでした。そして、その艦隊決戦を複数の個人の視点から立体的に描くという荒技を著者はやってのけています。日本ではあまりこの海戦は広く知られていませんが、こういった史実をベースにしたフィクションだからこそその戦いの実相が後世に伝わるかもしれません。日本でもこういった手法で描ける戦いの材料はいくらでもあると思います。日本の作家にも、期待します。