「明治維新」を起こした人たちは「維新を起こす」と行動したわけではなくて「江戸幕府(体制)を壊す」として行動していて、だから実際に幕府が瓦解したら、金はない才能は足りない人々は言うことを聞かない外国は好き放題言う、で困ってしまいました。
今の地球は、軍事力はほぼ飽和状態で資本主義は強欲の局地に到達、これは何かを変えないといけないように見えますが、さて、「維新」を起こすにしても後にどんな困った状態が起きるのか、あらかじめ準備ができたら(せめて心構えができたら)良いんですけどね。
【ただいま読書中】『都市空間の明治維新 ──江戸から東京への大転換』松山惠 著、 筑摩書房(ちくま新書1379)、2019年、880円(税別)
「明治維新」は「日本の近代化(文明開化)」という文脈で捉えることが普通ですが、本書では「江戸が“植民地化"されることで東京となっていく過程」に注目しています。たしかに「江戸」は「江戸」で「東京」は「東京」です。
江戸に限らず、日本の城下町は「身分制度」によって土地が分割利用されていました。江戸では特に大名屋敷など「武家の土地」が大量に存在していて、明治政府はそれを活用することで「江戸」を「東京」へと改造していったのです。
江戸時代の日本の「三都」は、江戸が軍事・京が政治・大坂が経済、と機能分化をしていました。京が政治の実権を保持・行使していたかといえば疑問ですが、少なくとも「花の都」が京であることは江戸時代の日本人には当然のことであり「シンボル」としての政治的な機能は京が持っていたわけです。
文久二年(1862)幕府は参勤交代の緩和を通達、翌年には将軍が“上京"します。このあたりから「政治の中心」が京であることが明示的になってきたわけです。しかし新政府の首脳は「京以外に政治の中心を移すこと」を考えていました。たとえば鳥羽伏見の戦い頃から大久保利通は大坂遷都、江藤新平は東西両都論を主張しています。ただ、戊辰戦争の帰趨はまだ決まらない段階では、新都を具体的に決めるのは困難でした。しかし東北の戦況が定まり前島密(幕臣)の建白(江戸遷都論)で、新政府首脳の目は「江戸にある広大な武家地」に向きます。
京から東京へ移住する公家は、拝領している屋敷をまず新政府に返納し、東京でそれとほぼ同規模の旗本屋敷を拝領する、という手続きを踏みました。公家や新政府の中枢は「郭内(江戸城近辺)」に集められます。諸大名は領国から切り離される形で「郭外(郭内の外側の地域)」に集められました。
では庶民は? 明治5年の大火のあと、「煉瓦街計画」が提案され、最終的に銀座の煉瓦街が完成しました。著者はこの計画を詳細に検討し、身分から解放された人々が住む街を最終的に作ろうとしていたのではないか、と当時の政府の意図を読み解きます。ただ、東京全体を改造しようという遠大な計画は、頓挫しました。政府の資金不足と人々の抵抗が原因です。ちょうど地租改正も行われていましたが、人々にとって「土地に値段がある」ことは全く新しい概念でした。そこに都市計画の話を持ち込んでも、理解はされないでしょう。しかし、江戸を改造する動きから庶民が無関係でいられるわけはありませんでした。
政府が特に重要視していたのは「貧民」対策だったようです。そのため「桑茶令」というものも構想されました。困窮している人に東京府下を開墾して桑園や茶園を作らせてそれで自活させよう、というアイデアです。それまで「町民は町地、武士は武家地に居住」という身分制度があったのを見直して「町地、武士地、開墾地」に再編成しよう、というのですが、これ、絶対無理筋に思えますが、数年で武家地のうち102万坪が農地に転換されたそうです。昔の東京には土地がたっぷりあったんですねえ。開墾と同時に、貧民の数減らし(東京からの追放)も行われていました。主な行き先は下総原野で、仕事は開墾です。さらに北海道への移住も進められました。幕臣が移動させられたあとの文京区白山にも広大な桑茶畑が創出されました。今の現地に、その名残はあるのかな?
「帝都」を作り出すために、様々な人々がそれぞれの思惑で動き、何となく今の東京の素地が作られていったようです。現在も東京では再開発が行われていますが、さて、どんな人がどんな思惑で動いているのでしょうねえ。