先日、バス停から少し離れたところでバス停から発進したばかりのバスに向かって、タクシーを止めるみたいに手を挙げてバスを止めようと試みている人を目撃しました。バス停に向かっていたのに間に合わなかったので十メートルくらいは大目に見てよ、と乗り込みたかったのでしょう。昭和の頃だったらあれでバスは止まってくれることがありましたが、今は規則優先の世界ですから、そのバスもそのまま行ってしまいました。
そういえば昭和の頃の田舎のバスは、停留所なんか無関係に、道端で「おーい」と手を挙げたらその場で停まって乗せてくれたり、「○○の角で降ろしてくれ」と言ったらリクエスト通りに止めてくれたり、バス停で客は乗らずに車掌に「○○の停留所でこれを降ろしてくれ」と荷物を預けたり、が平気でおこなわれていましたっけ(すべて私の目撃例です)。
昭和・平成・令和と時代は進み、生活は便利になりましたが、さて、「住みやすい良い国」になったかどうかは、ちょっと疑問ではあります。
【ただいま読書中】『ミニチュアの妻』マヌエル・ゴンザレス 著、 藤井光 訳、 白水社、2015年、2600円(税別)
目次:「操縦士、副操縦士、作家」「ミニチュアの妻」「ウィリアム・コービン その奇特なる人生」「早朝の物音」「音楽家の声」「ヘンリー・リチャード・ナイルズ その奇特なる人生」「殺しには現ナマ」「ハロルド・ワイジー・キース その奇特なる人生」「動物たちの家」「僕のすべて」「キャプラⅡ号星での生活」「ファン・レフヒオ・ロチャ その奇特なる人生」「セバリ族の失踪」「角は一本、目は荒々しく」「オオカミだ!」「さらば、アフリカよ」「ファン・マヌエル・ゴンサレス その奇特なる人生」「ショッピングモールからの脱出」
なぜこの本を借りることにしたのか、もうその事情は忘れましたが(読みたい本を列挙した古いメモにあったのですが、自分で書いたのに記憶が無いのです)この目次を読んだだけで笑っちゃいます。特に「その奇特なる人生」が何度も不規則に登場するのには、絶対に意図があるはず、と私は本文を読む前から確信します。
冒頭の「操縦士、副操縦士、作家」から、私はぶっ飛んだ世界に連れ込まれます。ハイジャックされた満員の旅客機が、ダラス上空をだたひたすら左旋回をし続けるのですが、「永久燃料」とやらで何年も何年も飛び続けるのです。なぜ?どうやって?といったまっとうな疑問は、まったく解消されません。飛行機はただひたすら旋回をし続け、乗客は諦念からか「これこそが自分の人生」と思うようになり……って、もしかして人間の人生そのものが“そんなもの"だと著者は言ってます? 「操縦士」と同じく、著者もまた何も教えてはくれないのですが。
「ミニチュアの妻」……小型化技術のエキスパートの「僕」は、家には仕事を持ち帰らないことを信条にしていたのに、自宅でついうっかり妻をマグカップ大に小型化してしまいます。ところが自分がどうやって妻を小さくしたのか、「僕」はまったく心当たりがありません。かくして自宅の中は“戦場"になってしまいます。
「操縦士、副操縦士、作家」でも感じましたが、主人公の妻に対する感情は、世間一般で言う愛情とはちょっとずれています。いや、愛情は愛情なのですが(たぶん)、その基底には客観性とか懐疑とかが棘のように刺さっている様子です。さらに文体が、ブラックユーモアというのとはまたちょっと違っていて、どす黒いというかすりガラス状というか、の「ユーモア」に溢れていて、なんとも始末しづらい感情が私の心の中をぶんぶんと飛び回ります。
本書はSF的だったりファンタジー的な設定をされているように見えますが、私は「別の地球の物語集」として読みました。「こんなのあり得ない」ではなくて「“この地球"では不思議に思えてもあり得ること」だ、と。ただ、「この地球」と「あの地球」とは、けっこう似ているため、私たちの地球では「ふつうのこと」もそこにはめ込まれています。ところが異世界にある「ふつうのこと(の断片)」はちっともふつうには見えない。そこで私は「それがふつうだと思っている、その思いの方がもしかしたら怪しいのではないか」なんてことを思うに至り、段々混乱が増していくのでした。
不思議な作家の不思議な世界の不思議な短編集です。