ヴァージンとは処女だ、と聞いていたのですが、辞書で初めてvirginを引いたとき「処女」「童貞」とあって私は驚きました。「すると僕もvirginなんだ」と。
【ただいま読書中】『処女の文化史』アンケ・ベルナウ 著、 夏目幸子 訳、 新潮社(新潮選書)、2008年、1400円(税別)
ヒポクラテスとアリストテレスの理論を統合したガレノス(古代ローマの有名な医者)の「4体液説」では、性交やオルガスムスを経験していない処女は体液のバランスが悪くなり不健康になる、と見なされていました。その“治療法"は結婚(ありていに言うなら、性交)。ガレノスの医学理論は中世どころか近代までヨーロッパを支配していて、ルネサンス以降も「ヒステリア(ヒステリー)」は処女と未亡人の病、とされました。その原因はもちろん性交不足です。神学的には処女はむしろポジティブな価値を与えられていましたが(ユニコーンが処女にだけ従う、といったのも「処女は良いもの」の表れでしょう)、医学的には「処女は悪いもの」だったようです。
日本では、貴族は妻問婚で、通ってみたら別の男がすでに屋敷に入っていて(牛車が外で待っているからわかります)「仕方ないなあ、今夜は別のところに行こうか」と言った感じで男はさっと引くし子供ができたら父親が誰であろうと女の家で育てるという性風俗でした。庶民は歌垣や盆踊りや夜這いで好き放題ですから、ここでも処女が特別視されていたか、というと疑問です。おっと、平安貴族では「女が死んだら、三途の川を渡るときには初体験の相手の男が背負って渡す」という伝承がありましたっけ(この話は「伊勢物語」や「源氏物語」に登場します)。ただこれも「処女は大切」ではなくて「処女でなくなるときの相手が大切」といった感じですが(というか、処女が死んだらどうやって三途の川を渡るのだろう?)。
「処女の定義」は実はとても難しいそうです。処女膜で定義する人もいますが、最初からない人もいるし生まれたときにはあっても性行為を知らないうちに破れている場合もあります。さらにアクロバチックな話をするなら、オーラルセックスやアナルセックスをばんばん経験しているけれど処女膜はきっちり保存している人は「処女」でしょうか? また「無孔の処女膜(ペニスでは貫通が難しい膣閉鎖)」を持つ売春婦(実在の女性)は処女かどうか、の議論も19世紀には行われています(医学的には「完璧な処女膜」だったそうです。多数の男を相手にして(性交に失敗させて)梅毒もうつされていましたが)。
「処女性」については、19世紀ヨーロッパの男性社会では「処女の純潔と謙虚さ」が理想化されましたが、結婚をしないフェミニズムの闘士の処女性については嫌悪されました。
中世ヨーロッパで「処女性」に関しての“権威"は医学ではなくてキリスト教でした。そこで求められるのは、魂の純潔と肉体の純潔の両立です。11世紀後半の教皇グレゴリウス7世は、全ての司祭・修道士・修道女に「処女性」を求める「改革」を断行しました。ところが多くの教会関係者は結婚をしていて大混乱に。離別された妻たちは、貧困と売春に陥ったのではないか、と著者は推定をしています。
「処女」と「処女性」は時代によって一致する場合もあれば不一致になる場合もあります。その時その時でけっこう適当です。ただ、キリスト教社会では「処女」も「処女性」も女性を縛る方向に機能していたことは本書でよくわかります。イスラムでも女性は社会的に縛られていますが、キリスト教も同じ神を崇拝するからか、女性に対する態度は似ていますね。
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