【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

みっちゃんみちみち

2019-07-12 07:53:49 | Weblog

 名前でその人をからかう、というのは、子供だったら誰でもやったことがある、やったことがなくても聞いたことはあるはずです。だけど、いい大人がそんなことを子供じみたことをやるのは、なんとも情けない態度。ところで安倍さんは枝野さんを所属政党の名前でからかいつづけていますが、これっていい大人がやることかなあ、と私はその堂々たる態度に感心しながら思っています。

【ただいま読書中】『流罪の日本史』渡邊大門 著、 筑摩書房(ちくま新書1290)、2017年、860円(税別)

 日本の歴史で最初に流罪となったのは、允恭天皇の皇女軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)で、その罪状は、同母兄の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)との近親相姦で伊予の国への流罪となりました(当時、異母なら兄妹でも問題はなかったのですが)。
 律令制度では刑罰は軽い方から「笞罪(ちざい、鞭打ち)」「杖罪(じょうざい、鞭打ち+監獄)」「徒罪(ずざい、労役刑、おおむね1〜3年)」「流罪」「死罪」となっていました。つまり流罪は死罪に次いで重い刑罰だったわけです。聖武天皇は死罪廃止を唱え、弘仁九年(818)に死罪は廃止されました(最後の死罪は、弘仁元年(810)藥子の乱で藤原仲成の処刑)。それが復活したのは平治元年(1159)平治の乱で藤原信頼らの処刑で、実に約350年間日本では流罪が最高刑でした。最高刑だけあって厳しく、たとえ近くの国に流されていても、一生元の土地に戻ることは原則として許されませんでした。
 天皇でも流罪にされます。最初の例は、淳仁天皇。皇位継承争いで廃帝とされ、淡路国に流されました。崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に配流、そこで怨霊になったと伝えられています。流罪から逆転をしたのは源頼朝。痛々しいのは俊寛(喜界ヶ島)。ただ、この頃から、恩赦で帰還が許される例が増えてきています。流罪の性質が変化してきたのでしょう。鎌倉時代の「御成敗式目」では「裁判での悪口」「不倫」「裁判の証拠文書の偽造」にも流罪が適用されることがある、と規定されています。今の日本政府のお役人などは、流罪をがんがん喰らいそうです。
 承久の乱では、三上皇の流罪が行われました。これは、鎌倉幕府にとっては「見せしめ(反抗勢力の鎮静)」が主目的だったはず(公的な記録は残されていません)。親鸞や日蓮も流罪になりましたが、これは見せしめというよりも熱狂的な信者から引き離してほとぼりを冷ます効果を狙ったのでしょうか。ただ、新しい布教の場を与える、という皮肉な結果をもたらしてしまったようですが。
 室町時代頃から街道は整備され、「遠隔地に隔離」にはそれほどの意味がなくなってきました。そのためか流罪は権力側のパフォーマンスの意味合いが強くなってきます。そして江戸時代、「離島」が活用されることになります。江戸は犯罪者を遠くに置きたい、しかし島の方では犯罪者を送り込まれるのは迷惑です。もちろん流人も不幸です。なんとも救いのない犯罪対策です。
 明治政府も最初は流罪を採用していました。流刑地は北海道。さらに、これまでの時代にはなかった「強制労働(開拓の仕事)」が課せられました。宿舎は集治監と呼ばれる牢屋。なんとも“近代的"な流罪です。ナチスやソ連の強制収容所の先駆者ですね。これが廃止されたのは、明治41年「刑法」が制定されてからでしたが「文明開化」は意外なところで明治早期から花開いていたようです。