【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

昭和のサーカス

2019-07-15 08:34:51 | Weblog

 昭和の時代、サーカスに関して「子供が遅くまで遊んでいるとサーカスに攫われる」「攫われた子供は曲芸のために酢を飲まされて体を柔軟にする」なんてことがまことしやかに言われていました。しかもそれをまともに信じている人もいました。ちゃんと確認してそういった“営業妨害"をしていたのかな?
 そういったことを言っていた人は、今は何について同様の憶測に基づく“営業妨害"をやっているのでしょう?

【ただいま読書中】『木下サーカス四代記 ──年間120万人を魅了する百年企業の光芒』山岡淳一郎 著、 東洋経済新報社、2019年、2000円(税別)

 まずは「現在」から話は始まります。木下サーカスを見に行ったことがある人には説明は不要でしょうが、サーカスは巨大なテントで行われています。2〜3箇月ごとに場所を変えながら日本のあちこちに巡業をしています。20世紀に劇団四季が「キャッツ」を日本各地にテント小屋を建てて公演していたことを私は思い出します。昔の日本では「旅芸人」が旅をしながら芸を披露していましたが、そういった「日本の伝統」がここには残っているのかもしれません。
 著者が取材で泊まり込んでいたとき、サーカスは札幌の公演を終え、熊本に引越をしました。「場越し」と呼ぶそうですが、これが大変。社員101名(とその子供たち16人)、大テント・観客席・舞台装置・動物・生活用品・家具などを全部安全に定刻に移さなければなりません。社長も率先して杭を抜いていきます。台風も接近している中、皆がフル回転で動いています。
 木下家という「家」制度や昔の香具師、大家族的な雰囲気も残るサーカス団員たちの集団ですが、外国人も多くいてグローバルでもありますが、そこには「そうなった歴史」がありました。
 ということで話は「過去」に。
 サーカスの“原型"「軽業」は奈良時代に中国から伝わりました。江戸時代、地元の顔役が管理する掛け小屋(興行の時だけ組み立てられる丸太小屋)を旅芸人は移動しながら軽業などを演じていました(江戸幕府は火災の恐れから歌舞伎以外に常設小屋を認めませんでした)。明治時代には西洋から曲馬団がやってきて、「サーカス」へと進化します(ただし「サーカス」と呼ばれるようになったのは昭和になってからで、それまでは「曲馬団」)。木下サーカスの初代矢野唯助は、一旗揚げようと興行の世界に飛び込みました。ここからの人生は波瀾万丈。シベリア東部で興行をしているときに日露戦争が起き急ぎ帰国しているようですが、詳しい一次資料は残っていません。唯助は旅芸人をするだけではなくて、岡山で興行権の元締めとなりました。さらに、日本のあちこちでの香具師同士の喧嘩仲裁で全国に名を売ります。しかし、喧嘩で自分の弟を殺した犯人が悔いたのを見て子分に加えて仕事をさせるとは、ただ者ではありません。
 観客から見てサーカスで一番重要なのは「面白さ」です。団員が日本人だろうと外国人だろうと、基本的に関係ありません。しかし興行はみずもの。浮き沈みが極端に激しく、当事者のストレスはとんでもないものだっただろう、と感じられます。特に戦争はサーカスに悪い影響を与えました。日中戦争が進むにつれ、政府はサーカスを統制しようとします。まず行われたのが猛獣の殺処分。ついで、丸太掛け小屋の禁止(空襲の的になる、がその理由です。意味がわかりません。的になるのだったら、いわば囮として、軍需工場への爆弾投下が少しでも減るんじゃないです? そもそも航空からの絨毯爆撃に「的」がありましたっけ?)。
 戦後の日本サーカスは「三タ(木下、シバタ、有田)」がトップで、2番手グループに矢野とキグレ、中小を含めると20団体以上が活動していました。競争(特に人が集まる場所の奪い合い)は激しく、2代目団長光三はなんとハワイ興行を実行します。莫大な損害を出した日系人部隊の在郷軍人会館を建設するのに、日本の芸能人を招いて興行することで資金集めをしたい、との話に乗ったのでした。交渉は大変です。GHQの許可を取るのは大変ですし、ハワイの興行元からは細かい注文がつきます。この時木下サーカスより一足先にハワイに渡ったのは、美空ひばりでした。ハワイ興行で名を売った光三には全国の興行界から「ぜひ兄弟分に」の誘いがかかりますが、光三は「稼業違い」ときっぱり。戦後のどさくさで、香具師と博徒の境目が溶けてしまった風潮に、光三は我慢がならなかったようです。さらに光三は「丸太掛け小屋から丸テントに」「給与は月給制(基本給+能力給)」という「革命」を起こします。これは「サーカスと地元の興行主との関係」「サーカス団と団員の関係」を根本から変革するものでした。なお、このとき大テントを開発した太陽工業は、先駆的な張弦梁構造の開発でノウハウを蓄積し、やがて東京ドームの屋根・天井の空気膜が生み出されることになります。
 光三のマーケティング理論は独特です。客は一生で3回来てくれたらよい、最初は子供の時親に連れられて、次は自分が親になって子供を連れて、最後は歳を取って孫と一緒に、と、とても長いスパンでものごとを考えています。だから他のサーカスがどんどん潰れても、木下は生き残ったのかもしれません。
 戦後、反日感情が渦巻く東南アジアに、木下サーカスは何度もチャリティー公演を行っています。大した儲けにはならず身の危険を感じるのにもかかわらず行ったのは、光三の戦争体験が影響しているのではないか、と著者は推測をしています。
 10億円の負債からの再出発、“新しいサーカス"シルク・ドゥ・ソレイユの刺激、団員の間で進むグローバル化……木下サーカスは「ビッグ・ファミリービジネス」の筋目は変えず、しかし柔軟にその姿を変えていきます。私が木下サーカスを最初に見たのは昭和30年代、次は平成10年ころだったかな。空中オートバイの台数が増えていたのに驚きましたっけ。さて、次はいつ行くことになるのでしょう?