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ダニー・ケイって、どんな人?- About Danny Kaye

2005-10-20 12:55:59 | Musical 往年の名優
今年(2005)の11月25日からボストンのThe Wang Centerで上演される「White Christmas」で、Michael君(マイケル・グルーバー)は、フィル・デイヴィス役を演じます。同じ役を映画で演じていたのはダニー・ケイですが、今回は彼のことをご紹介致しましょう。(写真は、映画「White Christmas」から。左は、共演のヴェラ・エレンです。)

彼の本名は、David Daniel Kaminski (デイヴィッド・ダニエル・カミンスキー)といい、1913年1月18日に、ニューヨークのブルックリンで生まれました。彼の両親は、ウクライナからのユダヤ系移民で仕立屋を営んでおり、彼は3番目の末息子として生まれました。兄弟の中では、彼だけがアメリカに来てから生まれた子供でした。

13才で学校を中退した彼は、フロリダへ向かい、通りで歌を歌ってお金を稼いでいましたが、この頃から「ダニー・ケイ」という名前を使うようになりました。その後、彼は、「ボルシチ地帯」と呼ばれるカッツキルに行き、初めはラジオ局で働いていましたが、次第にキャンプやリゾートホテルでコメディを演じるようになり、たちまち名前を知られるようになったのです。
1933年にデイヴ・ハーヴェイとキャスリーン・ヤングのダンス一座に加わり、1934年には、アジアへのツアーにも参加して、東京、大阪でも公演したのだそうです。ダニーは、ここで歌やダンス、パントマイム等、プロのパフォーマーとして必要なスキルを身につけました。

1938年にアメリカに戻った彼は、後に彼の妻となるSylvia Fine(シルヴィア・ファイン)と出会いました。コメディ作家で作曲家でもあった彼女の作風が、ダニーの才能とうまく合い、いくつもの出し物を協力して作るようになり、いつしか2人は、チームとして活動するようになっていました。
1939年に、ダニーは、「The Straw Hat Revue」でBroadwayデビューを果たしました。その後もいくつもの作品に出演した彼の人気は、次第に高まっていきました。私生活では、1940年に仕事上のパートナーでもあったシルヴィアと結婚しました。やがて、彼は、コール・ポーター作でシルヴィアも制作に関わった「Let's Face It」でついに主役を手に入れ、その人気はますます高くなっていったのです。

ナイトクラブやBroadwayのステージの仕事を続ける傍ら、第二次大戦中は戦地への慰問も行っていたダニーでしたが、1943年に、サミュエル・ゴールドウィンと契約を結び、映画界へと進出しました。「Up In Arms ダニー・ケイの新兵さん (1944)」、「Wonder Man 天国と地獄(1945)」、「The Kid From Brooklyn ダニー・ケイの牛乳屋 (1946)」、「The Inspector General ダニー・ケイの検察官閣下 (1949)」等と出演が続き、1954年には「White Christmas」でビング・クロスビーと共演しました。そして、同じ年に、「ユニークな才能によるアカデミーおよび大衆、映画界への奉仕」により、アカデミー賞名誉賞を受賞しました。その後も、心温まる名作映画「The Five Pennies 五つの銅貨 (1959)」をはじめ、たくさんの映画に出演しています。

1963年から1967年にかけては、テレビの「ダニー・ケイ・ショー」で活躍し、そのファースト・シーズンで、エミー賞を受賞しました。60年代以降は映画への出演は少なくなり、71年の「The Pied Piper ハメルンの笛吹き」が最後の映画出演となりました。
1970年にはリチャード・ロジャースの新作によるブロードウェイ・ミュージカル「Two by Two」に主演し、約30年ぶりにBroadwayの舞台にカムバックしたダニーでしたが、このショーに出演中に転んで、腰を痛めてしまったのです。しかし、ダニーは、その後、10ヶ月ほどの間、杖か松葉杖の助けを借りながら、怪我を押しての出演を続けたのでした。

後年のダニーは、オーケストラの指揮者として各地を公演してまわり、その出演料をチャリティとして寄付しました。数々の公演をこなした彼ですが、本人は「自分は楽譜が読めない」と言っていたそうです。

また、ダニーは、恵まれない子供達を助けるためのユニセフ活動を行っていたことでも有名です。初めて活動を行ったのは、1954年のことでした。特に、後年は、ユニセフの活動に力を入れ、恵まれない子供たちのために親善大使として世界各国を訪問しました。飛行士の資格を持っていた彼は、自らパイロットとしてユニセフの活動のために世界を飛び回り、わずか5日間で65の都市を訪問したこともあったそうです。
1965年にユニセフがノーベル平和賞を受賞した時、賞を受け取る代表としてダニーが選ばれました。ワシントンD.C.での受賞式では、彼自身にも、彼のユニセフ活動に対する賞が贈られました。また、1982年には、彼のユニセフ活動に対して、アカデミー賞ハーショルト友愛賞が授与されました。
1987年に彼が亡くなった後、10月27日に行われた追悼会で、当時の国連事務総長だったJavier Perez de Cuellerさんは、「ダニーは、世界中の恵まれない子供達に対する国際的な認識を高めてくれた初めての人でした。」と追悼の意を表したそうです。

ショービズ界に、またユニセフ等のチャリティ活動にと大活躍だったダニーは、1983年以降、健康を害し、入院生活を余儀なくされました。
そして、1987年3月3日、心臓発作のために、ロサンゼルスでその生涯を閉じました。享年、74才でした。コメディアンであり、歌手であり、ダンサーであり、物まねの天才であり、シンフォニーの指揮者であり、ユニセフの親善大使であり、パイロットであり、そして、優しい夫と父親だった彼。子供の頃には医者になりたいと望んでいたダニーでしたが、その望みは叶わなかったものの、医者が患者を救うように、彼ならではのユーモアで、多くの人々を力づけてきました。
飄々とした、ユーモラスかつ、彼の人柄を思わせるどこか暖かい芸風で、今も多くのファンから愛され続けているダニーは、ニューヨーク郊外で安らかに眠っています。


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