ミュージカル「Sound of Music」のモデルとなったフォン・トラップ・ファミリー。ミュージカルでは、母亡き後、軍人の父に厳しく育てられ、そこにやって来た家庭教師のマリアに歌と音楽を教えられ、やがて、マリアと子供達の父であるトラップ大佐は、結婚します。しかし、オーストリアでもナチスドイツの勢力が増し、誇り高いオーストリア軍人である大佐は、ナチスに目をつけられてしまいます。実際の彼らは、どのような家族だったのでしょうか? (写真は、本物のマリアさんです。)
トラップ大佐は、オーストリア帝国軍の潜水艦の初代艦長で、その功績により、マリア・テレジア十字勲章と男爵の爵位を与えられました。またトラップ大佐の前妻アガーテの祖父にあたるロバート・ホワイトヘッド氏は、魚雷の発明者でした。
ミュージカルの中では、マリアが来るまで、音楽にはまったくなじみがない一家として描かれていますが、実際には、子供達の亡き母、アガーテも歌が上手で、トラップ家には常に音楽にあふれていて、子供達は、もともと歌が大好きでした。
当初、マリアは、病気がちで学校を休むことが多かったトラップ家の次女のマリアだけの家庭教師として、トラップ家を訪れました。やがて、トラップ大佐とマリアは結婚しましたが、2人の間には3人の子供が生まれました。前妻との間に7人の子供がいましたので、トラップ家の子供達は、全部で10人でした。
ヒトラーがオーストリアに侵攻する数年前に、ザルツブルグ音楽祭にやって来た有名なソプラノ歌手のロッテ・レーマンが子供達の歌を聞き、その歌声に感動した彼女に合唱コンクールに出るように勧められた一家は、見事コンクールで優勝し、プロとしての活動が始まりました。
その後、一家は、家族合唱団として、ヨーロッパ各地を公演するようになり、ある時、アメリカからコンサート・マネージャーが彼らのもとを訪れ、アメリカ・コンサートの依頼をしました。これが、一家とアメリカとの最初の出会いとなりました。
ミュージカルでは、ナチスドイツ軍の一員として大佐が徴兵されそうになって、一家は祖国を後にするのですが、実際のトラップ一家が祖国オーストリアから脱出しなくてはならなくなった決定的な理由は、ヒトラーの誕生パーティで歌うことを拒否したことでした。
ミュージカルでは、アルプスを徒歩で越えてスイスに向かうのですが、実際には、ザルツブルグ郊外にあったトラップ家の屋敷のすぐ裏手を走っていた鉄道の駅から汽車に乗って、イタリアへと向かいました。その6週間後、イギリスのロンドンから汽船に乗って、アメリカへと向かいました。一家は、イタリアの市民権を持っていたので、どうにか路頭に迷わずに済んだのです。
アメリカへ汽船での旅をしていた時、マリアは、末の子供を身ごもっていました。ニューヨークに着いた時、一家の手元には、たった4ドルのお金しかありませんでした。入国審査の際に滞在期間をたずねられたマリアは、「永久にいたい」と答えたために、一家は、エリス島で3日間にも渡って、厳しい尋問を受けることになってしまったそうです。
習慣の違いにとまどいながらも、それでも初めのうちは、一家のコンサートにも順調に観客が集まっていましたが、次第に観客が減り、マネージャーからも見放されてしまいました。別のマネージャーのところでオーディションを受けた一家ですが、「セクシーさが足りない」と言われてしまいます。
それでもどうにかマリアの熱意が伝わり、一家は、コロンビア・コンサーツに所属することができました。これを機に、今まで使っていた「トラップ聖歌隊」という名称を、なじみやすい「トラップ・ファミリー合唱団」に変え、マネージャーのアドバイスに従って、まじめくさって歌うのではなく、笑顔を絶やさず、衣装やメークも明るいものに変え、アメリカの観客に気に入られるように、「聞きやすい、明るい音楽」を心掛けたのです。一家のこうした努力が実り、飛躍的な人気を得た一家のコンサート・ツアーは、常に大盛況となりました。
初めは都会で暮らしていた一家でしたが、次第にもっと広々とした田舎に住みたいと思うようになりました。ある夏、バーモント州のストウで休暇を過ごした一家は、そこの景色が故郷のアルプスに似ていたのですっかり気に入ってしまい、そこにあった農場を購入することにしました。一家は、夏は農場で働き、秋から春にかけてコンサート・ツアーに出かけるという暮らしを始めました。
ところが、一家の家計は非常に苦しいものだったので、マリアのアイディアで、一家と一般の人々が一緒に過ごして、合唱や楽器演奏を楽しむミュージック・キャンプを開くことになりました。一夏に、10日間のキャンプを4回開催し、参加者は農場のそばの宿泊施設に泊まり、歌やリコーダーを習いました。このミュージック・キャンプは、その後、12年間続けられました。
1946年には、祖国オーストリアから一家宛に、第二次大戦後のオーストリアの窮状を訴える手紙が届き、ツアー中に、アメリカの人々にオーストリアへの衣類や食料の寄付を募ってほしいと書かれていました。そこで、マリアは、舞台に立つ度に、アメリカの観客に向かって、祖国の窮状と救援を求めるスピーチをしたのです。熱意のこもったマリアのスピーチに心打たれたアメリカの人々は、暖かい救いの手をさしのべてくれ、その救援物資は、120トンも集まったそうです。
舞台の上で、マリアは、いつも家族の紹介と一家のこれまでの歩みを、ユーモアを交えて話していました。それを聞いた人のすすめで、マリアは、一家の物語を書き、1949年に出版されました。
それをもとにして、ドイツで2本の映画が制作され、1959年には、Broadwayで、人気女優のメアリー・マーティン主演のミュージカル「Sound of Music」が初演され、大ヒットとなりました。そして、1965年には、ジュリー・アンドリュース主演の映画も作られました。
ミュージカルの中では、父親であるトラップ大佐も、ステージに立って歌っていましたが、実際に舞台に立っていたのは、マリアと10人の子供達で、一家の音楽の指導者であり、ともにアメリカに渡ってきたヴァスナー神父が指揮者として一緒に舞台に立っていました。
大佐は、ミュージカルで一家が一躍有名になる前に亡くなってしまいましたが、常に静かに家族を見守り続けてきた彼は、家族の支えであり、一家を導く良心ともいうべき存在で、家族から深く愛されていました。また、一家の母親であったマリアは、エネルギーの塊で、信仰心の篤かった彼女は、「神の御心に従って生きる」というモットーのもと、常に明るく前向きに家族を導きました。マリアの歌声は、実は、ソプラノではなくて、アルトだったのだそうです。
やがて子供達が成長してそれぞれに結婚して家族を持つようになったため、1956年、ついに合唱団を解散することになりました。その後、一家は、農場の大きな家をホテルに改装して、トラップ・ファミリー・ロッジを始めました。現在でも、「オーストリアをちょっぴり、バーモントをたっぷり」をテーマにしたリゾートホテルとして営業しています。ロッジのサイトは、こちらからどうぞ!
トラップ大佐は、オーストリア帝国軍の潜水艦の初代艦長で、その功績により、マリア・テレジア十字勲章と男爵の爵位を与えられました。またトラップ大佐の前妻アガーテの祖父にあたるロバート・ホワイトヘッド氏は、魚雷の発明者でした。
ミュージカルの中では、マリアが来るまで、音楽にはまったくなじみがない一家として描かれていますが、実際には、子供達の亡き母、アガーテも歌が上手で、トラップ家には常に音楽にあふれていて、子供達は、もともと歌が大好きでした。
当初、マリアは、病気がちで学校を休むことが多かったトラップ家の次女のマリアだけの家庭教師として、トラップ家を訪れました。やがて、トラップ大佐とマリアは結婚しましたが、2人の間には3人の子供が生まれました。前妻との間に7人の子供がいましたので、トラップ家の子供達は、全部で10人でした。
ヒトラーがオーストリアに侵攻する数年前に、ザルツブルグ音楽祭にやって来た有名なソプラノ歌手のロッテ・レーマンが子供達の歌を聞き、その歌声に感動した彼女に合唱コンクールに出るように勧められた一家は、見事コンクールで優勝し、プロとしての活動が始まりました。
その後、一家は、家族合唱団として、ヨーロッパ各地を公演するようになり、ある時、アメリカからコンサート・マネージャーが彼らのもとを訪れ、アメリカ・コンサートの依頼をしました。これが、一家とアメリカとの最初の出会いとなりました。
ミュージカルでは、ナチスドイツ軍の一員として大佐が徴兵されそうになって、一家は祖国を後にするのですが、実際のトラップ一家が祖国オーストリアから脱出しなくてはならなくなった決定的な理由は、ヒトラーの誕生パーティで歌うことを拒否したことでした。
ミュージカルでは、アルプスを徒歩で越えてスイスに向かうのですが、実際には、ザルツブルグ郊外にあったトラップ家の屋敷のすぐ裏手を走っていた鉄道の駅から汽車に乗って、イタリアへと向かいました。その6週間後、イギリスのロンドンから汽船に乗って、アメリカへと向かいました。一家は、イタリアの市民権を持っていたので、どうにか路頭に迷わずに済んだのです。
アメリカへ汽船での旅をしていた時、マリアは、末の子供を身ごもっていました。ニューヨークに着いた時、一家の手元には、たった4ドルのお金しかありませんでした。入国審査の際に滞在期間をたずねられたマリアは、「永久にいたい」と答えたために、一家は、エリス島で3日間にも渡って、厳しい尋問を受けることになってしまったそうです。
習慣の違いにとまどいながらも、それでも初めのうちは、一家のコンサートにも順調に観客が集まっていましたが、次第に観客が減り、マネージャーからも見放されてしまいました。別のマネージャーのところでオーディションを受けた一家ですが、「セクシーさが足りない」と言われてしまいます。
それでもどうにかマリアの熱意が伝わり、一家は、コロンビア・コンサーツに所属することができました。これを機に、今まで使っていた「トラップ聖歌隊」という名称を、なじみやすい「トラップ・ファミリー合唱団」に変え、マネージャーのアドバイスに従って、まじめくさって歌うのではなく、笑顔を絶やさず、衣装やメークも明るいものに変え、アメリカの観客に気に入られるように、「聞きやすい、明るい音楽」を心掛けたのです。一家のこうした努力が実り、飛躍的な人気を得た一家のコンサート・ツアーは、常に大盛況となりました。
初めは都会で暮らしていた一家でしたが、次第にもっと広々とした田舎に住みたいと思うようになりました。ある夏、バーモント州のストウで休暇を過ごした一家は、そこの景色が故郷のアルプスに似ていたのですっかり気に入ってしまい、そこにあった農場を購入することにしました。一家は、夏は農場で働き、秋から春にかけてコンサート・ツアーに出かけるという暮らしを始めました。
ところが、一家の家計は非常に苦しいものだったので、マリアのアイディアで、一家と一般の人々が一緒に過ごして、合唱や楽器演奏を楽しむミュージック・キャンプを開くことになりました。一夏に、10日間のキャンプを4回開催し、参加者は農場のそばの宿泊施設に泊まり、歌やリコーダーを習いました。このミュージック・キャンプは、その後、12年間続けられました。
1946年には、祖国オーストリアから一家宛に、第二次大戦後のオーストリアの窮状を訴える手紙が届き、ツアー中に、アメリカの人々にオーストリアへの衣類や食料の寄付を募ってほしいと書かれていました。そこで、マリアは、舞台に立つ度に、アメリカの観客に向かって、祖国の窮状と救援を求めるスピーチをしたのです。熱意のこもったマリアのスピーチに心打たれたアメリカの人々は、暖かい救いの手をさしのべてくれ、その救援物資は、120トンも集まったそうです。
舞台の上で、マリアは、いつも家族の紹介と一家のこれまでの歩みを、ユーモアを交えて話していました。それを聞いた人のすすめで、マリアは、一家の物語を書き、1949年に出版されました。
それをもとにして、ドイツで2本の映画が制作され、1959年には、Broadwayで、人気女優のメアリー・マーティン主演のミュージカル「Sound of Music」が初演され、大ヒットとなりました。そして、1965年には、ジュリー・アンドリュース主演の映画も作られました。
ミュージカルの中では、父親であるトラップ大佐も、ステージに立って歌っていましたが、実際に舞台に立っていたのは、マリアと10人の子供達で、一家の音楽の指導者であり、ともにアメリカに渡ってきたヴァスナー神父が指揮者として一緒に舞台に立っていました。
大佐は、ミュージカルで一家が一躍有名になる前に亡くなってしまいましたが、常に静かに家族を見守り続けてきた彼は、家族の支えであり、一家を導く良心ともいうべき存在で、家族から深く愛されていました。また、一家の母親であったマリアは、エネルギーの塊で、信仰心の篤かった彼女は、「神の御心に従って生きる」というモットーのもと、常に明るく前向きに家族を導きました。マリアの歌声は、実は、ソプラノではなくて、アルトだったのだそうです。
やがて子供達が成長してそれぞれに結婚して家族を持つようになったため、1956年、ついに合唱団を解散することになりました。その後、一家は、農場の大きな家をホテルに改装して、トラップ・ファミリー・ロッジを始めました。現在でも、「オーストリアをちょっぴり、バーモントをたっぷり」をテーマにしたリゾートホテルとして営業しています。ロッジのサイトは、こちらからどうぞ!