人は、一度何かを否定すると、
自分を肯定してもらうために、場合によっては、
その相手(or物事)のアラを捜し続けることになる。
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「あそこはダメだ」
「こいつはダメだ」
そう言ってしまったあと、その発言を肯定してもらうために(もしくは、そうシャットアウトしてしまったために)、そこ(その人)との交流も禁止したり、そこのダメな部分にばかり目を向けて、物を言うこともあるだろう。
そして、ある場合、そこの「良い面もある」ことを発見した別の人が、「いえいえ、この前、お会いしたら(行ったら)、こうこうこうでしたよ」と擁護しようものなら、「お前は、そこに影響されてダメになってしまったから、そう言えるのだ」と、その人さえ貶めるケースもある。
人も、人々も、常に同じではなく、変わり続けていくものなのに、あるときのある一面に(そして、それはもしかすると、思い違いだったりするかもしれない)
囚われて、その成長を喜べなくなるとしたら、残念なことだ。
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<自戒を込めて>
そういうわけで、どうしても憂慮しなければならないことがあるときは、
「今、私が知っている範囲では/得ている情報では、こうこうこうであり、現時点では・・・と考えられるのだが…」
「○年前までしか直接には見ていないわけですが、・・・という可能性や傾向があるかもしれないとも考えられますが…、現状、いかがお考えでしょうか」
「もしかしたら、今は、もう少し変わっているのかもしれないのですが、…」
と述べたり、
または、「・・・と感じている」という形でフィードバックすること。
(「・・・」の内容が事実であるかどうかは別として、「××が・・・と感じている」ことは事実である)
うまく付き合えていない場合は、相手の悪口ではなく、
「ちょっと、コミュニケーションがうまくいっていないんですけどね…」
と言うこと。
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そして、相手の良い所や長所を見たら(見つけて)、それを必ず褒めること。
(神様も、お小言言う前に、必ず良いところをほめてから、言っている@黙示録)
―そうやって、それぞれ、切磋琢磨してより良くなっていくほうが、なんぼかマシ(建設的)じゃないですか?