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さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

また逢いましょう

2008-02-17 03:17:22 | Sunday 聖書
その昔、「死」を経験しなくてすんだ人、たとえばエノク 1)やエリヤ 1)ではない私たちは、いつか「死」を味わうことになる。
 それを想うとき、いくつかの話が思い出される。これは、そんな話の一つ。



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むか~しむかし、あるところにイスラエルと言う国がありました。
 (今もあるんだよ。)
 イスラエルには、とても有名な、ダビデ王という王様がおりました。


               


 さて、あるとき、ダビデ王様の子どもが病気になってしまいました。
 王様は、大変悲しみました。
 悲しんで、悲しんで、
 神様にその子どもが助かるよう心から願って
 断食をしたり、
 一晩中、頭を地につけて祈りひれ伏していたり
 ・・・王様の家のおエライ方々が、どうにかこうにか、嘆き、祈り伏している王様を起こそうとしたが無理でしたし、もちろん、彼らと一緒にごはんを食べようとさえしないくらいに・・・、
 それは、もう、とにかく大変な悲しみようでした。


                  
 
 
 しかし、そうした甲斐(かい)もなく、子どもは7日目にとうとう亡くなってしまいました。
 王様の家来たちは、困ったぞ、と声をひそひそ相談し始めました。

 「王様は、あの子が生きているときでさえ、私たちの言うことなんて耳をかさず、大変な嘆きようだった。
  そんな王様に、
  いったい、誰が、あの子が亡くなったことを知らせられるだろう
  生きているときでさえ、あの様子だったのだから、
  死んだとなれば、
  なおさら何が起こるかわかったものじゃない。
  もしかすると、知らせた者が、八つ当たりされることだって、何か恐いことがおこることだって、ありうるぞ。
  おい、どうする・・・・・・」


                


 そんな家来たちの様子が、ダビデ王にわからないはずはありません。
 ダビデ王は、子どもが亡くなったことを悟り、家来たちに尋ねました。
 「子どもは死んだのか?」
 家来たちは、答えました。
 「なくなられました・・・

 すると、王様は、今まで伏していた地から起き上がり、
 身体をさっぱりと洗って、
 着物も着替えて、
 神様を敬う宮(みや)に入り、神様を礼拝してから
 家に帰り、
 ごはんを食べ始めました。

 そんな王様の様子に、家来たちはびっくり。
 恐る恐る、尋ねました。
 「王様。
  いったい、これはどういうことですか

  あなたのお子様が、まだ生きているときは断食をして泣かれていたのに、
  今、なくなったと知ったら、起きて、お食事を召し上がられるとは・・・」

 ふつう、死んだ後、嘆いてごはんがのどを通らなかったりするものなのに、確かに、王様のしていることは逆です。
 家来たちには、王様が、どうしてそうするのか、全くわかりませんでした。


              

 そんな家来たちに、ダビデ王はこう言いました。

 「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、
  もしかすると、
主(しゅ:神様のこと)が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、
  と思ったからだ。

  しかし今、子どもは死んでしまった。
  私はなぜ、断食をしなければならないのか。
  あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。

  私はあの子のところに行くだろうが、
  あの子は私のところには戻ってはこない。

                       (旧約聖書・サムエル記第二 12章)


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 神様を知らずに亡くなった子どもや小さなものがどうなるか、
 それは、よくわからない。
 しかし、神様は憐れみ深い、愛に満ちたお方だ。
 悪いようにはなさらないだろう。

 むろん、神様は公平な裁き主でもある。
 ゆえに罪を犯した者たちを、無罪とすることはできない。
 だが、なんとか救うために、
 御子(みこ)イエス・キリストを、人の身代わりに十字架につけるということを行い、
 それによって、ただ信じるだけで、無罪とされ、天国に入るようにされた。


 だから、天に召されたとき、神様を間近に拝見して、感謝したり、賛美しているかもしれない。
 もしくは、「今頃、先に召された戦友たちと『やぁ、どうしていた?』とかって、逢ったり喜んだりしているんだろうか」
 と、思いを馳せ、
 地上にまだ残されたもの達は、慰め合う。


























 また、天国で逢いましょうと。






















                                      





【注】
1)エノク、エリヤ:どちらも旧約聖書に登場する人物。エノクは300年のあいだ生きた後、死を経験することなく、エリヤは火の車に乗って天に召されたという。どちらも、神様に喜ばれた生涯であったという。  

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十戒

2007-10-28 23:59:59 | Sunday 聖書
土曜の大雨・台風が去って、日曜の夜明けは本当にキレイな空でした。東京の日の出は5:58。今の時期だと、大体5時20分くらいから6時まで、刻々と様変わりする空を眺めることができます。



  さて、金曜のニュース欄で「十戒ってな~に?」と思った方へ。


   **********************

  聖書って、大きく「旧約聖書」と「新約聖書」(「旧訳」と「新訳」ではないヨ 1))に分けられるんですよ。その「旧約聖書」は、イスラエルという、今もドンパチやっている中東の、小さな小さな国を舞台に、記されています。
  そして、イスラエル人たちが、その昔、エジプトからカナン(今のイスラエルのあたり)の地へ大移動する頃の内容が、「旧約聖書」の、2番目の「出エジプト記」など。荒野を旅する40年間、イスラエル人が、朝はパン(=マナ)が、夕は肉が降って来る恵まれた(?)毎日を送っていたその頃のこと(いや、「荒野」の旅はきつかろう・・・「荒野」と言ったって、ほぼ砂漠だし)。

    *********************

  「十戒(じっかい)」は、その「出エジプト記」と「申命記(しんめいき)」に記されている10の戒(いまし)めデス。

  すなわち-

  1.汝(なんぢ) 我(われ)の外(ほか) 何者をも 神とすべからず
  2.汝(なんぢ) おのれのために 何の偶像(ぐうぞう)をも 彫(きざ)むべからず+拝むべからず
  3.汝(なんぢ)の神エホバの名をみだりに口にあぐべからず
  4.安息日(あんそくにち)を憶(おぼ)えてこれを聖潔(きよく)すべし

  5.汝(なんぢ)の父母を敬(うやま)え
  6.汝(なんぢ) 殺すなかれ
  7.汝(なんぢ) 姦淫(かんいん)するなかれ
  8.汝(なんぢ) 盗(ぬす)むなかれ
  9.汝(なんぢ) その隣人(となり)に対して いつわりのあかしをたつるなかれ
  10.汝(なんぢ) その隣人(となり)の家を 貪(むさぼ)るなかれ



  分かりにくい?かもしれません。上は、文語訳ですから
  意味は、こういうこと


  1.創(つく)り主である本当の神様だけが神様。
   (都合の良い神様を作ったりしてはダメだよ)

  2.偶像(ぐうぞう)を作ったり拝んだりしてはいけない。
   (たとえば、キリストの像とかマリア像とかを拝んだりしてはいけないヨ、と。この当時は、まだそんなものはなかったけど。)

  3.神様の名前をやたらめったら口にするもんじゃない。

  4.安息日を聖なる日とし、守れ 2)

  5.父母を敬(うやま)え               
  6.殺すな                
  7.姦淫(かんいん)するな     3)
  8.盗むな
  9.偽証(ぎしょう)をするな(=うそをつくな)
  10.他人のものをほしがるな



 最初の4つは聞きなれないかもしれないけれど、残りの6つは、幼稚園児が、先生から「盗んじゃダメですよ~」とかって教えられるような、基本的なことだよね?
  (少なくとも「殺しなさい」「盗みなさい」と教える人は・・・いないと思う)
   人がどうあるべきか、という(最低ラインの)基準かもしれない。
   これが、「十戒」デス。
   このほかにも、色んな戒め(決まり)があります。
   (十戒を含めて律法(りっぽう)と言います)
   奴隷の歯を一本でもダメにしたら、その代わり、自由の身にしなさいよ、とか、
   色々。
   もしよろしければ、ご覧あれ

                                                


   ち・な・み・に・・・


   この十戒(&律法)について、こう言われている。

   彼らのうちのひとりの律法(りっぽう)の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
   「先生。律法(りっぽう)の中で、たいせつな戒(いまし)めはどれですか。」

   そこで、イエスは彼に言われた。


   「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、
    あなたの神である主(しゅ)を愛せよ。』
   これがたいせつな第一の戒(いまし)めです。

   『あなたの隣人(となりひと)をあなた自身のように愛せよ。』 
   という第二の戒(いまし)めも、それと同じようにたいせつです。

   律法全体と預言者(よげんしゃ)とが 4)、この二つの戒(いまし)めにかかっているのです。」


                    (新約聖書・マタイの福音書22章35節~40節)

                                                           

    確かに、そうなんです。
     もし私が人を愛するなら、その人の財産を盗まない。
     かえって、できるだけその人のためになることをしようと願う。
     もし私が人を愛しているなら、おのずと十戒のうち5番目から10番目なんてしない。
     神様を愛しているなら、神様がお嫌いなこともしない(もしくは、しないように努力する)。

     だから、こうも言われている。


     他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
     ・・・・・・・・
     愛は隣人に対して害を与えません。
     それゆえ、愛は律法を全(まっと)うします。

                       (新約聖書・ローマ人への手紙13章8節~10節)
         


                             



(あ、ただし、念のため。
  一回でも違反したら、罪(つみ)は罪ですので・・・ハイ。

  だからこそ、イエス・キリストの十字架の贖(あがな)いが必要だったんだよ、と聖書は伝えている)



【注】
1)「旧約」は「旧(ふる)い契約(けいやく)」、
  「新約」は「新しい契約(けいやく)」のこと。契約っていうのは、約束という意味だよ。

2)安息日:(単純に)何もしてはならない日。
   ・・・と言っても、ぐうたら眠る日ではなく、日常の仕事を休めて神様のことを特に覚えて考える日。
   つまり、聖なる日。

   どうして、「聖なる日」なのか、「出エジプト記」と「申命記」とでそれぞれ別の点から伝えている。
      一つは、神様が天地創造をなさった経緯から。
      もう一つは、神様が人(ここでは直接にはイスラエルのこと)を贖ったことから。
       ←具体的には「エジプトから導き出した」と表現されていることなんだけど・・・この当時のエジプトの状態から、「エジプト」って象徴的な意味がある。    

3)姦淫(かんいん):他の人のだんなさん(もしくは奥さん)とSexすること。
    結婚している人が、自分のだんなさん(もしくは奥さん)以外の人とSexすること。

    結婚する、ということは二人が一体となることであり、祝福されるおめでたいことで、
     (創世記2章24節,マタイの福音書19章4節~6節,エペソ人への手紙5章29節~33節その他)
    その相手とだったらいい・・・が、その相手以外とは×。


4)律法全体と預言者:旧約聖書全体、ということ。

                                                       

【引用・参考文献】
・聖書 (文語訳),日本聖書協会,2001
・聖書 (新改訳),日本聖書刊行会(いのちのことば社),1987
・C.H.M:出エジプト記講義,伝道出版社,昭和60年・・・って、西暦何年?
・C.H.M:申命記講義,伝道出版社,昭和51年



                               

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THE WOMAN OF SAMARIA

2007-10-07 23:59:59 | Sunday 聖書
   『すべて此(こ)の水をのむ者は、また渇(かわ)かん。
    
    されど我があたふる水を飲む者は、永遠(とこしへ)に渇くことなし。
    わがあたふる水は 彼の中(うち)にて泉となり、
    永遠(とこしへ)の生命(いのち)の水 湧(わ)きいづべし』


                     (新約聖書・ヨハネの福音書4章13節~14節,文語訳)



 時々、目を通しているPrecious Seedというサイトのところから。
(注:キャベツは語学が得意なわけではなく、辞書とにらめっこしながら大まかに読んでいるだけです。ただありがたいことには、英語に堪能な方々が周りにごろごろいらっしゃるので、わからないときはお願いできるのが嬉しいところ



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John 4. 4-34

   THE WOMAN OF SAMARIA(サマリヤの女)

It is only John who records this story. He traces her growing appreciation of the Lord from ‘thou . . . a Jew’, v. 9, to ‘the Christ’, v. 29. The men of the city recognized Him as ‘the Saviour of the world’, v. 42.
(これは、ヨハネ(の福音書)だけが、残している記事である。以下、略)


The woman arrived to draw water and saw the Lord sitting on the well—weary, thirsty and hungry. This description illustrates His humanity. He asks the woman for a drink. John’s Gospel is full of references to water—in seas, lakes, rivers, brooks, and in water pots. It is only in John, the Gospel full of water, that the Lord says, ‘Give me to drink’, and, ‘I thirst’. Sizing up the Man at the well the woman concludes He is a Jew, possibly due to His accent, clothing or facial features. There is, of course, more than the eye can see. Much more!
(ある女性が水を汲みに来て、井戸のかたわらに座っている主=イエス・キリストを見た。
 彼は、疲れ果て、乾き、飢えていた。-ここの描写は、イエスの人間性を明らかにしている(=フツウのそこらへんにいる人と同じように、イエス・キリストもおなかはすくし、疲れるし、のどが渇く事だってあったのだ人間だものbyあいだみつを?)。-

 そして、一杯の水を、その女性に求めた。

-ヨハネの福音書は「水」についての言及に満ちている-海に湖、河に小川、そして、ここに出てくる水がめにまで。
 また、ヨハネだけが、主イエスの言動のうち、「水をください」という言葉や、(十字架上での)「私は乾く」といった水に関わる話が多いのだ。以下、のちのど)

How much of the discussion the woman understood is not clear. They spoke of ‘living’ water, Jews and Samaritans, Jacob, worship, and deceit. Her interest in, and desire for, the living water was stimulated and she said, ‘Give me this water’. The Lord, however, insists that she should also face up to her sin; ‘Call thy husband’. She prevaricates before finally admitting the truth. Salvation is an abandonment of the old life and a commitment to the new. In verses 11, 15 and 19 she calls Him ‘Sir’, and now in verse 19 determines that He is ‘a prophet’. For a Samaritan this was an amazing confession. Accepting only the first five books of the Old Testament, Samaritans believed that the last prophet to live was Moses! This was a big step.

The Lord also makes clear that He knows all about her past life and present circumstances, which, together with His claim to be Messiah, encourages her to conclude that He is indeed ‘the Christ’.

This woman of Samaria was willing to learn, and reveal to the Lord her growing appreciation of Himself. He is willing still to reveal Himself to sinner and to saint. May we appreciate Him more and more as the days go by, recognizing and emulating His love for the individual, honouring His claims as to His person, enjoying fellowship with Himself, in effective testimony to those around us.


(あとで、もしかしたら、日本語訳を載せる・・かも。キャベツの、ただの英語etcの勉強です)

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詩篇51編

2007-09-09 23:59:59 | Sunday 聖書
ちょっと長いけれど、興味のある方はどうぞ。


 詩篇51編  指揮者のために。
           ダビデ 1)の賛歌(さんか)。
           ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに 2)、
           預言者 3)ナタンが彼のもとに来たとき 8)


  神よ。御恵(みめぐ)みによって、私に情けをかけ、
     あなたの豊かなあわれみによって、
     私のそむきの罪(つみ)をぬぐい去ってください。

     どうか私の咎(とが)を、私から全く洗い去り、
     私の罪(つみ)から、私をきよめてください。

     まことに、私は自分のそむきの罪(つみ)を知っています。
     私の罪は、いつも私の目の前にあります。

     私はあなたに、ただあなたに、罪(つみ)を犯(おか)し、
     あなたの御目(おんめ)に悪(あく)であることを行いました。
     それゆえ、
     あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、
     さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

     ああ、私は咎(とが)ある者として生まれ、
     罪(つみ)ある者として母は私をみごもりました。

     ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。
     それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

     ヒソプ 4)をもって私の罪を除(のぞ)いて清めてください。
     そうすれば、私はきよくなりましょう。
     私を洗ってください。
     そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

     私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。
     そうすれば、あなたがお砕(くだ)きになった者が、
     喜ぶことでしょう。

     御顔(みかお)を私の罪(つみ)から隠し、
     私の咎(とが)をことごとく、ぬぐい去ってください。

     神よ。私にきよい心を造(つく)り、
     ゆるがない霊 5)を私のうちに新しくしてください。

     私をあなたの御前(みまえ)から、投げ捨てず、
     あなたの聖霊 5)を、私から取り去らないでください。



                 ・
                 ・
                 ・


     たとい私がささけても、
     まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。 6)
     全焼(ぜんしょう)のいけにえを、望まれません。

     神へのいけにえは、砕(くだ)かれたたましい。 7)
     砕(くだ)かれた、悔(く)いた心。
     神よ。あなたは、それをさげすまれません。

                          (旧約聖書・詩篇51編1~17節)


   詩篇は、神様への、人の祈り、嘆き、感謝、賛美、悲しみの吐露(とろ)、疑問、願い・・・そんな心からの叫びがある。
    (もちろん、この中に色々と隠されている事柄もある。)

    あなたは、この想いを理解できるでしょうか・・・?



                                                            


【注】
1)ダビデ:古代イスラエルの2代目の王(在位紀元前1000年 - 前961年頃)。超有名でもあり、立派な、信仰深い王だった。この事件は、ダビデ王の最大の汚点とも言えるかもしれない。

2)ダビデがバテ・シェバの元に~:バテ・シェバは、ダビデの家来ウリヤさんの妻だった美女さん。
             イスラエルの全軍が戦いに出ているとき、ダビデはエルサレム(イスラエルの首都)で安穏と夕方に起きるような(昔のダビデならばありえない)生活をし、ウリヤの妻であったバテ・シェバと関係をもつ。そして、バテ・シェバがみごもってしまったとき、それを隠蔽(いんぺい)しようとして、一旦ウリヤを戦前から呼び戻すが、ウリヤは、野営している他の家来たちのことを思い、家には帰らなかった。
             このままでは、ヤバイ。
             そう思ったダビデは、ウリヤに、ウリヤの上司への手紙を持たせる。

             「ウリヤを激戦の最前線に立たせ、彼だけを残して、彼が死ぬようにしろ」
             かくして、ウリヤは死に、バテ・シェバはダビデの妻となる。
             が、これは「主(しゅ=神様のこと)のみこころをそこなった」(旧約聖書・サムエル記第2 11章27節)

           ちなみに、新約聖書・マタイの福音書のイエス・キリストの系図には、バテ・シェバはバテ・シェバの名前ではなく、「ウリヤの妻」として出てくる。
           実に、「神の前で隠れおおせるものは何一つ」なし(ヘブル人への手紙4章13節)


3)預言者(よげんしゃ):神様からのことばを伝える人。「予言者」に非(あら)ず。

4)ヒソプ:聖書に描かれている「ヒソプ」は、今流通されているハーブのヒソプとは異なるらしく、どちらかというと、オレガノに近いMajorana syriacaであるらしい。小さな、目立たない低木(というよりも雑草に近いとか)であり、白い花を5月頃から夏近くまで咲いている。
      「ヒソプ」は清めなどの儀式に使われ、旧約聖書のあちらこちらに顔を出す。イスラエル人が、エジプトを脱出する直前の、「自分の家の門柱とかもいに血を塗る」ときも、ヒソプで塗っていたりしていましたっけ。 


5)霊、聖霊:聖書では、人を「霊(れい)・たましい・からだ」として捉えている。
     一般的には、人というものを「心とからだ」とみなすが、(厳密とは言えないが)その人を形作っているもののうち「心」という目に見えない部分を「霊+たましい」と捉えている。また、どちらかというと、「霊」は知的性質を、「たましい」は情緒的性質について述べられることが多い。

     また、「聖霊」は、言うならば、神様の「霊」の部分を指し示し、救われると、聖霊が人の内に内在する。(ここで言う「救い」とは、永遠の滅びからの救い、を示している。・・・が、馴れない人には「なんのこっちゃいな!?」だけど
     <又は、神様というお方は「父なる神・子なる神(=イエス・キリスト)・聖霊」という三つにして一つ(三位一体。3人で一人、という意味ではないよ)であるが、その「聖霊」のこと。>


6)いけにえ:昔、イスラエルでは罪を犯した場合、神にいけにえ<傷のない子羊など>を捧げなければならない。そして、祭司(さいし)によって罪の贖(あがな)いをされ、赦(ゆる)される。〔レビ記4章参照〕
  今は、新たにいけにえをささげる必要はない。キリスト・イエスが、ただ一度、十字架のおいて、身代わりのためのいけにえとなってくださった故である。


7)砕かれたたましい:簡単に言うならば、(たとえば)自己中心な頑固な心ではなく、悔(く)いた心。「ごめんなさい」と心底から思う心。と言えば、通じるだろうか。


8)預言者ナタンは、ダビデ王にあるたとえ話を話し出す。それに義憤(ぎふん)を抱いたダビデは、「そんな男は死刑だ!!」と言った。

   そうです、ダビデはかなり真面目な人なんです。
   加えて、知っていますかね?
   イスラエルの人々が聞かされていた律法(旧約聖書)の基準では、本来、たとえば、

   「子供が親をのろったら」  → 「そんな子供は死刑」(レビ記20章9節など参考)
   (ということは、もしも「バカ」とか「死ね」なんぞ、万が一親に言うような子供は・・・。)

   「他人の妻と姦通(かんつう)したら」  → 「姦通した男も女も必ず殺されなければならない」

   という厳しいものでした。
   (「現代なら、それはありえない。
     そもそも政教分離はキリスト教圏から発達したものじゃないか」、という御仁、ちょいとお待ちなさい。ここで言いたいのは、生活の中における道徳基準がこのような(今の世の中の人から見れば)厳しいものであったということデスので。)
   人は、他人のことならばそのように評価を下しやすいが、自分のしていることは見えづらい。キャベツもそうです。

   ともかく、ダビデは、そのように激しく怒ったときに、預言者ナタンによって

   「あなたがその男です」(旧約聖書・サムエル記第2 12章7節)

   と、ずばっと指摘されたとき、自らを省(かえり)みた。
   (そして、この歌が生まれた。




   さて、自分はどうだろう。
 

                  



【引用・参考文献】
・聖書 新改訳第2版,日本聖書刊行会,1987年
・庵部千恵子著;新聖書植物図鑑,教文館,1999年


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奇跡(きせき)

2007-09-02 23:56:27 | Sunday 聖書
おばんです。皆様、お達者でしょうか。

 (序
  ある種、どうでもいいような記事ですので、余裕のない方、またお時間の無い方はどうぞ通り過ぎてくださってけっこうです。ただの駄文ゆえ、お許しを


 さて、うまく言えないくせに、平易なことばにしようとするため、さらにわかりづらいかもしれませんが・・・キャベツの苦手な言葉の一つに

 「信じなさい」

 という言葉があります。いや、これは使い方と言いますか、その言葉が使われる時と場面
 ・・・一体どういうときに、どういう相手に、この言葉が使われるか・・・
が苦手と思われるのですが。



 具体的に、「神の救いを信じなさい」と、誰かが誰かに言うとします。

 大抵、こんなセリフを言うのは、クリスチャン・・・など。
 そして、こんなセリフを言われるのは、クリスチャン以外の方と相場が決まっているようなもの。これには、クリスチャンホームのお子さん 2)なども含まれます。


                                  


 が、ここで少々疑問が発生。

 「・・・『信じろ』って誰かに言われたから、信じるのか?」
 
 「逆に『信じるな』って言われたら、信じないのか?」

(バプテスマを受けるか受けないかで迷っている人に対しては、いいだろうけどサ

 
 なんともわかりません。







 参考になるかどうかはわかりませんが、一事例。
 たとえば、キャベツが自分で集会に通うようになった頃、
・・・当時、キャベツの親は集会に来るような様子も聖書を開く様子もありませんでしたから、ある意味当たり前かもしれませんが・・・
 どちらかと言うと、集会に行ったりするのは反対されていました。(ええ、そうですとも。ごくごく一部では有名な方も身近にいるため、クリスチャンホーム育ちだと勘違いされやすいですが、多分、我が両親に連れられて集会に行っていたとしたら、クリスチャンになることさえなかったかもしれません。ちなみに今、父は集会に戻ってきていますがね。

 バプテスマを受けるぞ、と決心したとき、一応親の承諾を得ようかと思って、
意を決して親父殿に聞いたところ、逆に、こう聞かれました。

 「おまえ、親が反対したら、バプテスマを受けるのをやめるのか?」







 ・・・・・・・・否(いな)。
 ごめん、反対されようがどうしようが、オレ、バプテスマ受けるわ。
 昔の東北だと、「クリスチャンになる」ていうことで勘当(かんどう)された方々もいたようだけど、周りのクリスチャンの方々が助けてくれていたようだし、ま、なんとかなるだろう。


 という感じでした。

 つまり、反対されても『信じている』ことを手放すつもりは、毛頭なかったらしい。これは、キャベツが信心深いとか、頑固だとかいう性質があるから、というわけではないですよん。そうなるように、神さまがなさってくださったんだ、としか言えない。



                                    


 事実、人が『神の救いを信じる』こと自体、奇跡(きせき)だ。イエス様ご自身が、こう言っておられるように。


 すると彼らはイエスに言った。
 「私たちは、神のわざ(=奇跡)を行うために、何をすべきでしょうか」

 イエスは答えて言われた。

 「あなたがたが、神が遣(つか)わした者を信じること、
 それが神のわざです。」


                     (新約聖書・ヨハネの福音書6章28節~29節)


 イエス様は、当時、色んな奇跡をなさっていた。
 死人を甦(よみがえ)らせたり、
 病人をいやしたり、
 足が動かない人の足が動くようにさせたり、
 目が見えない人の目がみえるようになったり。

 この質問をした人々は、
 5つのパンと2匹の魚が、どういうわけかわからないが、
 男だけでも5千人いる群衆(ぐんしゅう)がおなかいっぱいに食べ、
 その上で、
 12個のかごが、その余ったものでいっぱいになったのを、
 まざまざと見、その奇跡を味わった。

 そして、同じようなことをできるようになりたいと思ったのだ。





 が、そもそも、
 人が、神様の存在を信じ、そのことばを受け入れることそれ自体、
 神様のなさる奇跡だ。
 どんなに聖書の(表面的な)知識が豊富にあったとしても、
 たとえ、親がクリスチャンだから子供も・・・などと周りが期待したとしても、
 人の熱意や意欲で、
 クリスチャンとして生まれるわけではない。
 人間的な熱心さのゆえに、
 神の御霊(みたま)が与えられるわけではない。










 ただし、その奇跡が起こったとき、
 『神の御使いたちに喜びがわき起こる』(ルカの福音書15:10)ように、
 人々の間にも喜びや感謝の声が起こっていた。








【注】
1)集会:キリスト集会。一般的には「教会」になってしまうけれど、もともとの原語の意味から、私たちの間では「集会」という言葉を用いる。
 エホバの証人、モルモン教などなどとは関係ございません。

2)クリスチャンホームのお子さんというのは、親御(おやご)さんがクリスチャンであるため、小さい頃から毎週集会 1)に通ってきているような方々を指す。



【念のため】
 一応、まとめらしきものを言うならば、

 1.「信じろ」と強要されて、信じるもんじゃない
 2.「信じる」ということ、それ自体が、神様のなさる奇跡やろ?

 という小さな声でしょうか。

 神様のみことばを信じるという大事なことを、軽々しく扱って欲しくないと言いますか・・・ね。難しい。

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雅歌(2)

2007-07-29 23:59:59 | Sunday 聖書
多分、雅歌(1)の続き。



 あの方は私を酒宴(しゅえん)の席に伴(ともな)われました。
 私の上に翻(ひるがえ)る あの方の旗(はた)じるしは 愛(あい)でした。

 干しぶどうの菓子で私を力づけ、
 りんごで私を元気づけてください。
 私は愛に病(や)んでいるのです。
                   (旧約聖書・雅歌2章4~5節)



 雅歌は、主に、ソロモン(平和の王)とシェラムの女との対話が中心となって進められる。

 たとえば、1章2節から7節は、王を慕(した)うシェラムの女。
 (ここで「エルサレムの娘たち」は誰を指すのかは、略。
  ちなみに、「ケダルの天幕 1)のように」→「黒い」  
       「ソロモンの幕 2)のように」→「美しい」)

 1章8節から11節は、王が。
 1章12節から14節は、娘が。
  (ちなみに、もし、エン・ゲディがどこを指すのかを知ったら・・・、興味深い、と思う人もいるだろう。)

 1章15節は、男性が。
 1章16節から17節は、女性が。


    ♥。・゜♡゜・。♥。・゜♡゜・。♥。・゜♡゜・。♥。・゜♡゜・。゜♥。゜♡゜・。♥。・゜♡゜・。♥。  


 2章1節「私は、(単なる)シャロンのサフラン 3)、または谷にあるゆりの花のようなものです」と言っているのは、娘っこ。
 谷にある、人の目にも留められず、ひっそりと咲いている花のようなものでもあり、そこらへんにある普通の野の花のことでもある。


 2章2節で「僕の愛している者は・・・いばらの中の百合の花のよう」とは、王が娘を表して言っている。同じ「ゆりの花」と言っているのだが、…扱われ方は違うらしい。
 また、どうして、ここで「いばら」が出てくるのかも、味わい深い。

 そして、3節から6節は、娘が言っていること。(一部上記)
 6節は、その言葉のままビジュアル化すると、顔を赤らめてしまいそうになるので、ここでは省略す。


    ♥。・゜♡゜・。♥。・゜♡゜・。♥。・゜♡゜・。♥。・゜♡゜・。゜♥。゜♡゜・。♥。・゜♡゜・。♥。


 それは昔のこと。
 聖書を通読していたある若人(わこうど)、雅歌を開いて、ばたっと、すぐ閉じた。

 (え、ちょっと、・・・これは・・・。こんなのが、聖書にあっていいのか!!?

 (そもそも、伝道者の書で

 空(くう)の空(くう)。
 すべては空(くう)

                     (1章2節、12章8節)


 だとか、

 むなしい つかのまの人生 (伝道者の書 6章12節)

 と言っている、その次に、どうして、




 あの方が私に・・・ 

 というものが続くんだ!?)


 という、気持ち悪さ、というか、違和感のようなもの、いや、嫌悪感さえ抱いたのだ。


    ********************


 (…一つつけ加えて言うならば、
  まだこの当時、この若人、申命記27章22節の、

  「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる」…
 という箇所から

  「どうしよう。
   この前、お布団を干したら、
   『○○兄/姉の布団、ふっかふか~~
   って皆が来て、兄弟4人、一つの布団で寝てしまったではないか。(筆頭小学6年)

   『狭い、狭い、どいてよ。』
   『じゃあ、自分のところの布団で眠れよ』
   『いやだ~』
   etcって、ぎゃ~ぎゃ~騒ぎながら。

   あれはいけないことだったのか・・・どうしよう・・・」

  と、マジメに数ヶ月悩んでいるような-つまり、「寝る」ということばに一つの意味しか知らないような-輩(やから)だった故、なおさらだったのだろうと思われる。 )


  **********************


 そんな若人の嘆きに、年配者(母方の祖父)はこう教えた。


 「いやいや、伝道者の書の次に、この雅歌の書があるのも意味があるんだよ」


 そのことを、分からないなりに、一応、心には留めることにした。

 とはいえ、その後しばらく、その箇所だけは避けていたが


 



【注】
1)ケダルの天幕:砂漠のアラビア人が住む黒い天幕(テント)。
         ここでは、シェラムの娘っこの「生まれつきの容貌(ようぼう)」を示している。ただし、黒人、という意味ではない。

2)ソロモンの幕:細かい美しい亜麻糸(あまいと)で作られていたらしい。
         


3)サフラン:アヤメ科の秋咲きの植物。香り高い花らしい。
       このサフランから作られるサフロンという香辛料?は、1g作るのに、サフランの柱頭150本分は必要なので高くなる。



【引用】
・聖書 新改訳,日本聖書刊行会,第2版,1987年

【参考】
・ウォッチマン・ニー著:歌の中の歌,牧草社,1982年
・廣部千恵子著:新聖書植物図鑑,教文館,1999年

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A Season For Everything

2007-06-24 23:59:59 | Sunday 聖書
A Season for Everything(何ごとにも時がある)-という有名なフレーズ。これは、旧約聖書の中にある、伝道者の書(新共同訳では「コヘレトの言葉」)に由来する。

 そして、その内容はこういうものや


 天の下では、
 何事(なにごと)も定(さだ)まった時期があり、
 すべての営(いとな)みには時(とき)がある。

 生まれるのに時(とき)があり、死ぬのに時(とき)がある。
 植えるのに時(とき)があり、
 植えた物を引き抜くのに時(とき)がある。

 殺すのに時(とき)があり、いやすのに時(とき)がある。
 くずすのに時(とき)があり、建てるのに時(とき)がある。

 泣くのに時(とき)があり、ほほえむのに時(とき)がある。
 嘆(なげ)くのに時(とき)があり、踊る 1)のに時(とき)がある。

 石 2)を投げ捨てるのに時(とき)があり、
 石を集めるのに時(とき)がある。
 抱擁(ほうよう) 3)するのに時(とき)があり、
 抱擁(ほうよう)をやめるのに時(とき)がある。

 捜(さが)すのに時(とき)があり、失うのに時(とき)がある。
 保(たも)つのに時(とき)があり、投げ捨てるのに時(とき)がある。

 引き裂くのに時(とき)があり、
 縫(ぬ)い合わせるのに時(とき)がある。
 黙(だま)っているのに時(とき)があり、話をするのに時(とき)がある。

 愛するのに時(とき)があり、憎むのに時(とき)がある。
 戦うのに時(とき)があり、和睦(わぼく)するのに時(とき)がある。

                        (旧約聖書・伝道者の書 3章1節~8節)



 すべてのことに時がある・・・-ならば、今、目の前にあることは?

 分かっていることといったら、
 すべては、神の御手(みて)の中にあり、
 残念ながら、人には予見できない、ということ。

 そもそも、私たちの「前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。」(同上9章1節)


 Yes, “A season for Everything”.
 だが、僕には今がどんな時か分からない。 

 それでも、
 日々なさねばならないことを行いつつ、
 祈りつつ、

 歩んでいこう。

                             


【注】
1)踊る:嬉しいとき、タンバリンなどを鳴らしつつ踊ることがある。
     えっ、僕じゃないですよ。
     昔の、旧約聖書の時代の話です。

2)石 :ここでの「石を集める/投げ捨てる」がどういう場合を指すのか、はっきりとはわからないが、
     「石を投げる」であれば、「石打ちの死刑」を指す。または、非難する行為を指す。

3)抱擁:抱きしめること。Hug 

コメント (1)
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評価

2007-06-17 23:59:59 | Sunday 聖書
<ひとりごと>

 聖書を読むとき・・・たとえば、
 旧約聖書のイザヤ書53章4節から12節(超有名!!な預言(よげん))の「私たち」の部分に自分の名前を入れてみる。
 「不特定多数」または「他人ごと」ではなく、自分のこととして考えてみる。

【イザヤ書】53章
 4 まことに、彼は私たちの病いを負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、
私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。           

5 しかし、彼は、

  私たちのそむきの罪のために刺し通され、            
  私たちの咎(とが)のために砕かれた。
  彼への懲らしめが
私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、
私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの自分かってな道に向かって行った。
  しかし、主は、
私たちのすべての咎を
  彼に負わせた。

(以下、略)

  
 確かに、信じたものはもはや神の御前にて罪に定められることはない。

 その昔、「ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほど」(列王記Ⅱ 21:16)、自分にも他人にも罪を犯させたマナセでさえ、神にたちかえったとき、その祈りを聞き入れられている(歴代誌Ⅱ 33章)。
 だが、罪に定められないからといっても、それらは周りの方々への影響となる。マナセのように高い地位にいるならなおさらだが、ただのキリストにある小さな者にすぎない私でも、それでも周囲の方々に対しても、家族や親戚に対しても、責任がある。賢くありたいと切に願う。


          ◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇


 さて、マナセはどちらかと言うと「悪い王」として言及されることが多いが、一方ですばらしい評価を受けている方々も聖書には登場する。

 たとえば、エジプトからイスラエル人をカナンの地まで導くよう神に用いられたモーセ「地上のだれにもまさって非常に謙遜(けんそん)であった」(民数記 12:3)と素晴らしい評価を得ている。

 マナセやアモンのような王が続いたあと、8歳で王となったヨシヤに対しては、「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった」(列王記Ⅱ 23:25)と賞賛されている。


 このような素晴らしい評価を受けるとは到底思えない自分だが、地上をさすらっているこの短い一生について、最終的に、神様からどういう評価を受けることになるのだろう?

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タラントのたとえ話

2007-06-03 22:47:34 | Sunday 聖書
 え~~・・・ごほん。この前、どっかで出た内容に、1タラント=19.196…年分のお給料(昔)ということがありましたっけ。
このタラント(英語で書くとtalent)、(神様から頂く)才能って意味もあります。


で、新約聖書には、このタラントに関するたとえ話がちょいと出てきます。


 その一つが、これ。(知っている人はスルーして構いませんよ


    天の御国(みくに)っちゅうとこは、次のようなとこかもしれへんな。

あるおっさんがおって、そいつが旅行に出かけよるとしいな。

ほいで、おっさんが旅行に行きよる前に、僕(しもべ)らをみんな呼びさらして、おのれの財産をそいつらに預けよったんや。

おっさんは、そいつら一人ずつの頭ん中をよう見て、
    一人の奴には5タラントを、
    一人の奴には2タラントを、
    もう一人の奴には1タラントを預けよったんや。



(^_^;)あ、そうそう、「天の御国」=「(死んだあとに行けるかもしれない)天国」と、安直に考えてはいけないですよ。
 もちろん、その意味もあるけれど(@_@)ここでは「神様のご支配されるところor神様の権威が云々」ってことで、「神様と、(自分中心ではなく、神様中心となっている…多分そうであるはずの)クリスチャン」ってことになるだろか。
だから、ここに出てくる「おっさん(「ご主人」)」は、神様で、
僕らは私ら人間ってことになる。さて、タラント預かった奴らは、その後どうしただろう。


   そん後、さっそく5タラントを預かった奴は、すぐに喜び勇んで出ていきよって、そいつを元手に商売を始めよったんや。
ほでから、そいつは商売に成功しょって5タラントも儲けよった。

おんなじように、2タラントを預かった奴も、商売して2タラントも儲けよったんやて。

せやけど、1タラントしか預けてもらへんかった奴は、出ていったんはええんやけど、何を思いよったんか、急に地面に穴を掘りくさって、そん中におっさんの金を隠してしまいよったんや。



(しばらく経って、その後の続きといたしましょう・・・)

  ほいから、かなりの長い日がたちくさり、おっさんは僕らんとこに戻ってきよった。

   ほいで、僕(しもべ)らと 預けた金の清算(せいさん)を始めよったんやと。

   まず5タラントも預かった奴が進み出よって、ほかの5タラントを差し出しながら、こう言うたそうや。
   「ご主人はん、あんたはわてに5タラントも預けはりましたけど、
    ご覧のとおり、わては商売して、もう5タラントを稼ぎ出しましたんや」

   おっさんはこう言うた。
   「あんたは忠実でええ奴っちゃなぁ。
    ようやったでぇ
    おまはんは少しのもんにも忠実やったさかい、これからはもっとぎょうさんのもんを管理させたるでぇ
    さあ、わてと一緒に、ごっつう喜んでくれや!」

   次に2タラントを預かった奴も、進み出てきよって、こう言いよった。
   「ご主人はん、わてに2タラントを預けはりましたけど、ご覧の通り、わてかて商売して、もう2タラントも稼ぎましたで~

   ほいで、おっさんはこう言うた。
   「あんたも忠実でええ奴っちゃなぁ。
    ようやった。ようやったでぇ。
    おまはんは少しのもんにも忠実やったさかい、
    これからは、ぎょうさんのものを管理させたるで。
    さあ、わてと一緒に喜んでくれや

  

   最後に、1タラントしか預かっとらんかった奴も進み出てきよって、こう言いさらしたんや。
    「ご主人はん・・・わては、あんたはんが、まだ蒔(ま)かん前から刈り取ったり、散らしてもおらんとこからもかき集めはるような、血も涙もないおっさんやと知っとりました。

    そうやよって、恐くなってもうて、あんたはんのタラントを地面に隠してしまいましたんや。
    ご覧のとおり、こいつがあんたはんのお金ですわ


  (あちゃ~~。そんなんでええんかい!!?

   おっさんは答えよった。
   「アホか!
   おんどれは、どうしようもない怠けもんやな。
    わてが蒔かん前から刈り取ったり、散らさんとこからかき集めよるやと。

    おんどれは、わてがそんな人間やと思っとってたちゅうことやな

    そういうことやったら、わての金を銀行に入れとくべきやったで。
   そうしといたら、わてが帰ってくる時までには、大分(だいぶ)利息がついとったさかいな。


   さあ、そのタラントをこいつから取り上げて、10タラント持っとるもんに与えたれ。
   誰かてそうやけどな、
   持っとるもんには、もっとぎょうさんのもんが与えられて、もっと豊かになるもんなんや。

  せやけど、持ってへんもんは、持っとるもんさえ取り上げられてまうもんなんやで。

  こん役立たずの僕(しもべ)は、はよう外の暗闇ん中へ放り出してまぇ。
   そこで泣きわめいて、歯ぎしりしよるやろ」


 1タラントっていうだけでも、かなりの額だったろうに・・・もらったもんはちゃ~んと使わなあかんで。

     ・・・・ん? では、わてに与えられたタラント(才能)って何よ?・・・う~~む。わからん・・・

  





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金持ちとラザロ(1)―起―

2007-05-13 21:55:28 | Sunday 聖書
(写真は、イスラエルと同じ中東の、とある伝統的住居の中庭)


こんばんは。この前「金持ちとラザロ」という単語がでてまいりましたので、簡単にご紹介しようと思う次第(しだい)。まあ、どんな話だろうと興味ある方は、ちらりと覗いていくのもよし。それでは、始まり始まり


○金持ちとラザロ


  或(ある)富める人あり、
 紫色の衣(ころも)と細布(ほそぬの)とを着て、日々奢(おご)り楽しめり。

  又ラザロといふ貧しき者あり、
 腫物(しゅもつ)にて腫(は)れただれ、富める人の門(かど)に置かれ、

 その食卓から落つる物にて飽(あ)かんと思ふ。
 而(しか)して犬ども来たりて其(そ)の腫物を舐(ねぶ)れり。

                       (文語訳聖書・ルカの福音書16章19節~21節)



 Once upon a time...(昔昔)、あるところに、金持ちさんがおりました。貴重で高価な紫色の着物やら細布やらで着飾って、毎日ぜいたくに遊び暮らしてりました。

 そんな金持ちさんの家の門のところに、全身できものだらけの醜(みにく)い貧乏人(乞食?)が寝ています。犬がときどきやってきては、ペロペロとなめていきます。金持ちさんのお屋敷から出る残飯で、飢えを満たす毎日。その名を、ラザロと言います。

 金持ちさんとラザロさん―
 フツウ、金持ちさんのほうが名前が出そうですが、名はわかりません。貧乏人を門の前から追い出したりしているわけでもないし、残飯とはいえ、施しているようなのですが、お名前はわかりません。
 逆に、貧乏人で、何ら働いていないようなラザロさん。こちらのほうが名前がでかでかと出ていますが、この「ラザロ」という名、「恵(めぐ)み」という意味だとかという話もお聞きします。いやいや、その当時すでに「ラザロ」=「恵み」という意味であったのか、それとも、後世において「ラザロ」→「恵み」と言う意味が付加されたのか、キャベツには、ようわかりません。

 わかるのは、ともかく、金持ちさんとラザロさんがいたということ。

 そして、次に、二人にあることが起こったということです。(続く

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