さすらうキャベツの見聞記

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評価

2007-06-17 23:59:59 | Sunday 聖書
<ひとりごと>

 聖書を読むとき・・・たとえば、
 旧約聖書のイザヤ書53章4節から12節(超有名!!な預言(よげん))の「私たち」の部分に自分の名前を入れてみる。
 「不特定多数」または「他人ごと」ではなく、自分のこととして考えてみる。

【イザヤ書】53章
 4 まことに、彼は私たちの病いを負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、
私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。           

5 しかし、彼は、

  私たちのそむきの罪のために刺し通され、            
  私たちの咎(とが)のために砕かれた。
  彼への懲らしめが
私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、
私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの自分かってな道に向かって行った。
  しかし、主は、
私たちのすべての咎を
  彼に負わせた。

(以下、略)

  
 確かに、信じたものはもはや神の御前にて罪に定められることはない。

 その昔、「ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほど」(列王記Ⅱ 21:16)、自分にも他人にも罪を犯させたマナセでさえ、神にたちかえったとき、その祈りを聞き入れられている(歴代誌Ⅱ 33章)。
 だが、罪に定められないからといっても、それらは周りの方々への影響となる。マナセのように高い地位にいるならなおさらだが、ただのキリストにある小さな者にすぎない私でも、それでも周囲の方々に対しても、家族や親戚に対しても、責任がある。賢くありたいと切に願う。


          ◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇


 さて、マナセはどちらかと言うと「悪い王」として言及されることが多いが、一方ですばらしい評価を受けている方々も聖書には登場する。

 たとえば、エジプトからイスラエル人をカナンの地まで導くよう神に用いられたモーセ「地上のだれにもまさって非常に謙遜(けんそん)であった」(民数記 12:3)と素晴らしい評価を得ている。

 マナセやアモンのような王が続いたあと、8歳で王となったヨシヤに対しては、「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった」(列王記Ⅱ 23:25)と賞賛されている。


 このような素晴らしい評価を受けるとは到底思えない自分だが、地上をさすらっているこの短い一生について、最終的に、神様からどういう評価を受けることになるのだろう?
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