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さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

ナオミ

2009-06-21 23:59:59 | Sunday 聖書
      『彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、
       女たちは、「まあ、ナオミ 1)ではありませんか。」と言った。

       ナオミは彼女たちに言った。
       「私をナオミと呼ばないで、マラ 2)と呼んでください。
        全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。

        私は満ち足りて出て行きましたが、主(しゅ)は私を素手で返されました。・・・」』

                          (旧約聖書・ルツ記1章19-21節)


   旧約聖書には、二つだけ、女性の名がつけられているものがある。
   一つはエステル記、もう一つは上記のルツ記である。

   ルツ記は、ユダのベツレヘムのある一家が、飢饉(ききん)を逃れて異国の地に住まうところから始まる。
   そして、10年の間に、一家の主人は死に、二人の息子も死に、あとには、ナオミと、二人の息子がその地でそれぞれ娶(めと)った二人の嫁だけが残された。そのうちの一人がルツである。異国の地、モアブの娘である。

   ナオミは、ベツレヘムに帰ることにした。
   二人の嫁には家に帰るよう勧めたが、ルツはナオミとともに行こうと堅く決心しており、ナオミとルツはともに、ユダの地、ベツレヘムに着く。



        ****************


   二人がベツレヘムに着くと、10年来だが、町の人々はナオミを覚えており、(ちょっとした)騒ぎになった。
   このとき、ナオミは嘆いて、「マラ(苦しみ)と呼んでください」とも、
   「全能者(=神さま)が、私を素手で帰した」(=私には、何もない)、とも言う。

   それは、本当だっただろうか。
   ・・・事実は・・・、ルツがいた。
   のちに、町の女たちから「七人の息子 3)にもまさるあなたの嫁」(ルツ記4章15節)と賞賛される、ルツがいた。
   にもかかわらず、ナオミは、そのような思いであった。4)


   (ベツレヘムに着いた後の二人については、箇所をお読みのとおり)



   
   打ちひしがれている時(もしくは、自己憐憫にひたっているとき)、実は、
   神様からの恵みがそこにあっても、気づかないことがあるのかもしれない。
   このナオミのように。


   ―――私たちはどうでしょうか。



        **************


   ちなみに、イスラエルでは、系図はとても重視される。
   福音書のひとつ、マタイの福音書ではイエス・キリストの系図が出てくるが、その中に、4人の女性の名が記されている。

   その中の一人が、このルツであり、
   後のイスラエルの2代目の王、ダビデの曽祖母(ひいおばあちゃん)となる。



   ・・・不思議な巡り合わせ(神様の御計らい)である。







(あるお話から。許可取得済み←と書くのは、今後省略



【注】
1)ナオミ:「快い」意の語源「ナアム」の派生語。

2)マラ :「苦しむ」意の語源「マラル」の派生語。

3)七人の息子にもまさる:今の日本では、子どもを「作る」という意識の人が多い
       ようだが(特に、都市部)、ここでは、子どもは「(神様からの)授かりもの」である。
       子宝(特に息子)=神様のお恵み、であり、
       「七人の息子にもまさる」という表現は、「とてもすばらしい」(最上級のほめ言葉?)
       という意味ともいえる。

4)このとき、ルツがどのような思いでそれを聞いていたか、記されてはいない。
  異邦人のルツが、それも、モアブ 5)の娘であるルツがユダの地に来るのは、
  覚悟がいっただろうに。


5)モアブ:モアブの祖先は、イスラエルの祖先アブラハムの甥のロトと、
      その娘との間の子である。つまり、父と娘との間の子。(創世記19章)
      そういうこともあり、イスラエルの人々からは忌み嫌われていた。 


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無題

2009-06-14 23:59:59 | Sunday 聖書
   『富んでいるように見せかけ、
    何も持たない者がいる。
    貧しいように見せかけ、
    多くの財産を持つ者がいる。』
          (旧約聖書・箴言13章7節)

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実は、答えるのは難しい

2009-05-10 22:24:55 | Sunday 聖書
 今日、一日中停電の職場で、私がクリスチャンと知った方が、尋ねた。

「キリスト教って、どういうのなんですか?」




     …む、難しい。



 相手の情報や文化背景、考え方などを知らなければ、適切に、相手に伝わるように、わかりやすく答えるのは難しい、と感じる。

<その意味がわからない方がいたら、たとえば、使徒の働き2章と17章を見比べてくださいますように←昔、あるところで、学ばれたことですが。

 もし、2章で言われたようなこと(イスラエルの人々には、土曜ごとに会堂で教えられ、よく知られた自明のことからの説明)をアテネの人々に言ったとしても、
よくわからん(?_?)、
となるとは思いませんか?

 逆に、17章であるように、アテネの人々の中で当時知られていた詩人のことばを引用して、ユダヤ人に伝えたとしたら、意味が通じたでしょうか?…逆に、神様をそのような説明で伝えたと、冒涜されたように感じる人もいるのではないでしょうか。>


 自分が「私はこんなに知っている」と知識をひけらかすのでもなく、
自分の自己満足のためでもなく、
他者に理解されないことがあっても、
相手に伝わるように、
相手が理解できるように、…相手が受け入れようと受け入れまいと…
相手に誤解を与えないように、
伝わるように、伝えたいのだ。

 歯痒いほど。



 それにしても、ピリピ2:6-8を思うだに、まだまだ第一コリント9:19-22と言い切れる状態でもない。つくづく、…賢くありたい。



    *********



本日のひとこと。


  『汝(なんぢ)ら キリスト・イエスの心を 心とせよ。

   すなわち彼は神の貌(かたち)にて居給(いたま)ひしが、神と等(ひと)しくある事を固(かた)く保(たも)たんとは思わず、

 反(かえ)って己(おのれ)を空(むな)しうし、
 僕(しもべ)の貌(かたち)をとりて 人の如(ごと)くなれり。

 既(すで)に人の状(さま)にて現れ、己(おのれ)を卑(ひく)うして死に至るまで、
 十字架の死に至るまで 順(したが)ひ給へり。』

     (新約聖書・ピリピ人への手紙 2章5-8節、文語訳)



    

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朝ごとに新しい

2009-04-26 21:38:36 | Sunday 聖書
(写真は、「自由学園明日館」の昔の生徒たちが描いた出エジプト記の壁画。文字はヘブル語とのこと。戦時中は隠されて、最近?の復旧の際、発見されたらしい。昨年11月頃撮影。)






   『私たちが滅(ほろ)びうせなかったのは、主(しゅ)の恵みによる。
    主のあわれみは尽きないからだ。

    それは朝ごとに新しい。
    「あなたの真実は力強い。

     主こそ、私の受ける分です。」と
     私のたましいは言う。
     それゆえ、私は主を待ち望む。』


     (旧約聖書・哀歌3章22-24節)




 私たちクリスチャンが、他の方々と何か違うとしたら、それは、ただ主(神様のこと)が救ってくださった、ということしかない。

 それは、主の恵みによるのみ。

 「私の受ける分」…(哀歌の時代背景はともかく、これを説明するのに、イスラエルとその相続地、できたらレビ人まで、簡潔明瞭に説明できる人がいたら、それ、教えてくださいf(^_^;))
       将来頂ける約束のもの、または希望と言っても、たぶん、間違いではないと思う。

   日々、主がどんなに恵んでくださったかを味わいつつ、将来、未だ見ぬものを楽しみにしつつ。ときには-いや、しばしば-嘆きつつも、私たちの全能者なる御方の憐れみは、尽きないことを感じる。


   私をさえ憐れんでくださったのだ。
   なおのこと、私の愛する人々が-大切な友人たちが、家族が、この世界に生きている人々が滅びないように、恵みが満ち溢れるようにと願わずにはいられない。






    マラナ・タ。

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復活

2009-04-12 22:12:55 | Sunday 聖書
(携帯からの投稿のため、編集途中デス…)





   『もし キリスト 甦(よみがえ)へり給(たま)はざりしならば、
    我らの宣教も空(むな)しく、
    汝(なんぢ)らの信仰もまた 空(むな)しからん』


     (新約聖書・コリント人への前の書15:14、文語訳)

 つまり、こういうこと。
  …キリストが復活しなかったのなら、宣教もそれを信じるのも意味ないじゃないか(゜。゜)


  そして、このあとにこう自問が続く。

 …それどころか、私たちは「神様がこうなさったのだ!」と嘘をついたことになりますよ(>_<)。

 …結局、ただ単に、(復活も罪のあがないもなく)キリストに希望を置いているだけなら、一番哀れな者なんですよ、私たちは。







        さようですね。

















 だが、キリストは甦ったんですよ!!

(「蘇った」ではありません、あしからず。)

 もちろん、最初は…仲間の女たちが口々に言っていたが(ルカ24:1-11)…そんなこと信じられなかったんですがね(-_-;)。


 ありえないと思っていても、この目で見て、触れて、この耳で聞いたこと(ヨハネ20:25-29)を認めざるを得ないじゃないですか。
話さないわけにはいかないじゃありませんか。(使徒4:20)





そうして、

『皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。…(中略)…この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名(みな)のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。』(使徒4:10-12)


と、約2000年前からこのかた、今日も言われている。




 ちなみに、私の周りや私自身は、殊更特別視しておらず(毎日曜日が大事、という意味などから)、卵もなんのそのですが、

実は「復活祭」は春の季語にもなっていました。

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マルタとマリヤ

2008-12-14 23:59:59 | Sunday 聖書
(絵は、フェルメールの「マルタとマリヤの家のキリスト」)

 恐らく、こんな場面です。


  さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

  彼女にマリヤという妹がいたが、主(しゅ) 1)の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

  ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。
  「主よ。
   妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
   私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

  主(しゅ)は答えて言われた。
  「マルタ、マルタ。
   あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

   しかし、どうしても必要なことはわずかです。
   いや、一つだけです。
   マリヤはその良いほうを選んだのです。
   彼女からそれを取り上げてはいけません。」


                    (新約聖書。ルカの福音書10章38-42節)



  お客さんに「アノ子に手伝いするよう言って!」とは、なかなかですが・・・それだけ、色々気を使って、やきもきしていたんでしょうか。

   ・・・あれもしなきゃ、これもしなきゃ・・・人数分、数足りるかしら・・・あら、マリヤはどこ?
   ・・・マリヤ、マリヤ。あんた、どこにいるの?
   
   ・・・あ、アノ子、あんなところにいる。
   私だって、お話聞きたいのに、我慢してこんなにやっているのよ。
   なんで、あんただけ、そんな羨ましいことしているのよ。・・・

  と、マルタが思ったかどうかは定かではありませんが。


  むろん、そういう働きもなければ困る(し、お世話になっとります)のですが・・・

 





  まず一番は、キリストのみことば(聖書)に耳を傾けることを大事に、と。



                                


(ほんまはマルタさん役ばかりの人もそうしたいんだから、助け合わないと・・・と思う、お世話になってばかりのキャベツ也。)



【注】
1)主:ここではイエス・キリストのこと。 

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造り主

2008-08-03 23:59:59 | Sunday 聖書
 

   『家は凡(すべ)て 之(これ)を造(つく)る者あり、

    萬(よろづ)の物を 造(つく)り給(たま)ひし者は 神なり。』


                   (新約聖書・ヘブル人への手紙3章3節、文語訳)




                                               


 家が建てられるとき、
 まず測られ、材料が運ばれ、建てられる。
 むろん、そこには設計者がいて、大工さんもいる。
(専門ではないから、こまかいことはワカリマセン


 もし、このとき、大工さんもおらず、材料もなく、何もないのに、急に次の日家が建っていたら、かなり可笑しい。
(『靴屋の小人』じゃあるまいし
 ド素人だって、それはわかる。
 もちろん、あなただって「ありえない」と笑うだろう














 
 が、それ以上に、難しいこの世界の成り立ちにいたっては、
 逆に、設計者もなく、造る人もいないと考えるのは、どうしてなんだろう。
 もちろん、人にはできないさ。
 この、時間も、空間も、木も緑も、水も空も大地も、この肉体も。
 造るなんざ、とうていできない。
 人は、その方を全能なる神と言い、創造主、造り主(ぬし)とも呼ぶ。

 (最近、なんだかよくわからないカタカナ語も言われていたっけ。クリスチャンでない方々から。科学者のだれさんだったっけ・・・もちろん、その方々は、聖書に示されている“神”が、本当に、この宇宙を創った存在であるとは信じていないが、何かがこの世界を創ったんだろうとしか考えられないと、言っていたっけ ←ごめん、今思い出せない




    *****************





 そうそう、また、人が家を建てるということと、この世界を創るということを同列に扱えるか、といっていたが、
 そもそも、人には、理解できる範疇と、範疇外がある。


 そして、人に理解できないことを、神様は示されないと、私は思う。
 (もし、理解できないことであるならば、私達に責任はない。)


 だから、家を建てるということになぞらえて、この世界を創ったお方がいるのだ、と示されてもいると思う。





 だから、もし、そうである(=ほんと~~~~~~~~~~~~に、神様がいらっしゃる)ならば、その警告は無視しないほうがいいんじゃないか、と
 思う(というか、無視しないでほしいと思うんだ)。



 むろん、すべては、死んでから、もしくは、イエス・キリストが再臨するときでなければ・・・わからない(いや~~~、そもそも、ありえないっしょ)と考えているかもしれないけれど。 














 私たちは、神様の御手のわざの、
 太陽や月や星々を眺めている。






              
コメント (11)
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災難

2008-05-18 23:59:59 | Sunday 聖書
 その昔ーイスラエルが、ローマの属州であったころのことだ。
 ガリラヤという地方の人々がささげものをしようとしたとき、どうやらその頃の総督に殺された、そうな。そんなニュースを、イエスに報告した人たちがいた。

 なんで、そんなことになっちゃったんですかねぇ、先生?

 とでも、聞きたかったんだろうか。すると、こんなふうな返答が返ってきた。

 『イエスは彼らに答えて言われた。
 「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。」

              

   そうではない。

               

  わたしはあなたがたに言います。
  あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

  また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

  そうではない。

                

  わたしはあなたがたに言います。
  あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
』 

                       (新約聖書・ルカの福音書13章1節~5節)



  つまり、
  それは、人事(ひとごと)ではないのだ、ということらしい。


              


 それは、2000年前のことだけではない。
 今も。

 同じように、人は生まれ、いつしか死んでいく。
 (災害であろうと、病(やま)いであろうと、何にせよ)

 同じように、滅(ほろ)んでいく。


 そして、
 『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることがさだまっている』(新約聖書・ヘブル9章27節)けれど、

 『御子(みこ = イエス・キリスト)を信じる者はさばかれない』(ヨハネ3章18節)

 と、聖書はいう。


                                        
 
 曰く、

 『それ 神は
  その獨子(ひとりご)を賜(たま)ふほどに
  世を愛(あい)し給(たま)へり、
  すべて彼を信ずる者の亡(ほろ)びずして、
  永遠(とこしへ)の生命(いのち)を得んためなり』

                   (新約聖書・ヨハネの福音書3章16節,文語訳)


 と。


                       

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子どものごとく

2008-05-11 13:25:19 | Sunday 聖書
 昨日のことだ。

 府中では、日曜学校の遠足が企画されていた。
結局、雨だったので、キリスト集会所で行われた。(ちなみに・・・「雨だったから、力が抜けた」って、姉妹方おっしゃっていたけれど、おかずの量や準備・・・すごかったです。ご馳走様でしたm(_ _)m)

 それにしても・・・・いや~~~~~~~~~、子どもの発想って、豊かだw おもしろいw 素直に、つっついてくるなぁ


                        Good job



 ・・・と、爆笑していた人、ここにも在り。


                  .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*


 『さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

  イエスはそれをご覧(らん)になり、憤(いきどお)って、彼らに言われた。

            「子どもたちを、わたしのところに来(こ)させなさい。
                   止めてはいけません。
             神の国は、このような者たちのものです。

                 まことに、あなたがたに告げます。
             子どものように 1)神の国を受け入れる者でなければ、
                決してそこに、はいることはできません。 」』


  

                        (新約聖書・マルコの福音書10章13-15節)





                   .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*



                        





【注】
1)「子ども」と表現する際、いろいろな側面があるけれど・・・ここでは、『素直』とか『純真さ』という点やね。


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サムソン ~その壱(士師記)~

2008-03-23 00:33:15 | Sunday 聖書
その昔、士師(しし;さばきづかさ)の時代が、イスラエルにあった。
モーセによりエジプトから脱出し、
約束の地カナン 1)に入ったあと、
そして、サウルがイスラエル初代の王として立てられる前。
すなわち、『めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた』(士師記21章25節、他)時代である。


    .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:* .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*


 この頃、時に応じて、神様が「さばきづかさ」を起こされて 2)いた。
 オニエテル、
 左ききのエフデ、
 シャムガル、
 女預言者デボラとバラク、
 (そのあと、名も記されていないひとりの預言者が遣わされたり)
 疑り深い(または、とっても慎重な)ギデオン、

 トラにヤイル、誓願をたてたギルアデ人エフタにベツレヘムの出のイブツァン、エロンにアブドン、

 ・・・・そして、生まれながらナジル人 3)のはずのサムソン、である。


    .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:* .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*


 このサムソンさん、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・女に泣かれるのに弱かった、というべきだろうか・・・(続く)


                          


【注】
1)カナン:現在のシリヤおよびパレスチナを指す。旧約聖書時代、「乳(ちち)と蜜(みつ)の流れる地 Land of Milk and Honey」と言われた実り豊かな土地であった。
 (ちなみに、WWⅡ後は荒れ果てた土地だったところを、キブツと呼ばれるイスラエル特有の農業共同体が中心になって、農牧地を大規模に整備した)


2)「さばきづかさ」を起こす:イスラエルを直接治める人を選ぶ(いや、「直接的に」神様が、なんだけど)。だれが選ばれるかは、神のみぞ知る。


3)ナジル人:人種でも、民族でもなく、
       『主(しゅ;神さま)のものとして身を聖別(せいべつ)するため特別な誓いをし』(旧約・民数記6章2節)た人のこと。それには、確実に3つのことが要求されました。

  1.断酒(ぶどう酒、強い酒は厳禁)(=自分を楽しませたり喜ばせたりするものから遠ざかる、ということかと。)

  2.頭にかみそりを当ててはならない。(=主の聖なるものの象徴であるらしい)

  3.死体に近づいてはならない。(=穢れるから。日本でも、葬式のあと盛り塩など行うように、律法においても、死に近づくことは穢れることだった)

自分を一定の期間、神様にささげるため、それにふさわしく聖(きよ)くあることを求められていたわけです。


【参考】
◇聖書(新改訳),日本聖書刊行会,第2版,1987年
◇ジョン・ドレイン編集;ビジュアル聖書百科,いのちのことば社,1999年
他・・・ふつう~に教えられていること@集会(ex.ナジル人のこと)

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