(東山魁夷「道」(1950)、青森は八戸の種差海岸がモデル)
『そこでイエスは彼ら(使徒たち)に、
新約聖書に、こんなたとえ話がある。
・・・天の御国(みくに)は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、
花婿(はなむこ)出迎える十人の娘のようです。
“Then the kingdom of heaven shall be likened to ten virgins who took their lamps and went out to meet the bridegroom.
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
2 Now five of them were wise, and five were foolish.
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
3 Those who were foolish took their lamps and took no oil with them,
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れものに油を入れて持っていた。
4 but the wise took oil in their vessels with their lamps.
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
5 But while the bridegroom was delayed, they all slumbered and slept.
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
6 “And at midnight a cry was heard: ‘Behold, the bridegroom is coming; go out to meet him!’
(BGM:Bach「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」BWV645 ⊂ BWV140)
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
7 Then all those virgins arose and trimmed their lamps.
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。
『油を少し私たちに分けてください。
私たちのともしびは消えそうです。』
8 And the foolish said to the wise, ‘Give us some of your oil, for our lamps are going out.’
しかし、賢い娘たちは答えて言った。
『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。
それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
9 But the wise answered, saying, ‘No, lest there should not be enough for us and you; but go rather to those who sell, and buy for yourselves.’
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。
用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸が閉められた。
10 And while they went to buy, the bridegroom came, and those who were ready went in with him to the wedding; and the door was shut.
そのあとで、ほかの娘たちも来て、
『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
11 “Afterward the other virgins came also, saying, ‘Lord, Lord, open to us!’
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
12 But he answered and said, ‘Assuredly, I say to you, I do not know you.’
だから、目をさましていなさい。
あなたがたは、その日、その時を知らないからです。・・・
13 “Watch therefore, for you know neither the day nor the hour in which the Son of Man is coming.
(新約聖書・マタイの福音書25章1~13節)
「つまり?」
「備えは大事ですよ、といふこと。」
Than to go to the house of feasting,
For that is the end of all men;
And the living will take it to heart.
それが礎(いしずえ)の石となった。
これは主のなさったことだ。
私たちの目には不思議なことである。
これは、主が設けられた日である。
この日を楽しみ喜ぼう。』
(詩編118編22〜24節)
“The stone which the builders rejected
Has become the chief cornerstone.
This was the Lord’s doing;
It is marvelous in our eyes.
This is the day the Lord has made;
We will rejoice and be glad in it.”
(psalm 118:22〜24,NKJV)
今日は、主日ですね。
“For how then will it be known
that Your people and I have found grace in Your sight,
except You go with us?
So we shall be separate, Your people and I,
from all the people who are upon the face of the earth.”
(Exodus 33:16, NKJV)
どの情報を信頼するか、で、生き死にが、決まることがある。
誰を信頼するか、が死活問題となる。
人と人の間でさえそうであるならば、
「その神様が本物かどうか」は尚更だろう。
*********
終日(ひもすがら)労働に明け暮れていた。
イスラエル人の嘆きを聞き入れた神は、その先祖たちとの約束を果たすべく、
預言者モーセを通じて、数々の奇跡を行い、
ついに、イスラエル人たちはエジプトを脱出する(Exodus)。
*********
イスラエル人たちは、見た。
ナイル川が血のように紅く染まったことを。
紅海が、自分たちの左右に分かれ、自分たちがその中を歩いて渡ったことを。
*********
だが、ほんの少し、主(神)がモーセと山の上で話している間に、
「神様が欲しい。神様を作ってくれ」
と、イスラエル人たちは、金で子牛(偶像)を作り、お祭り騒ぎをしてしまった。
これこそ、恩を仇で返す、とでも言うべきか。
荒野(さばく)の旅路で、不平不満の多いイスラエル人に優しく忍耐してくださっていた神様も、
とうとうお怒りになった。
助け出したイスラエル人を一度滅ぼしてしまおう、とさえ考えた。
*********
とはいえ、モーセが懇願するので、思い直したものの、
「もうお前たちと一緒にはいられん!
こんなことが続き罪を犯すなら、私はお前たちを怒って滅ぼしてしまう!!」
と、おっしゃった。(神様でさえ、堪忍袋の緒が切れそうになった。)
*********
そのとき、再度、モーセが、こう嘆願した。
「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、
私たちをここから上らせないでください。」
「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、
いったい何によって知られるのでしょう。
それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、
私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることに
よるのではないでしょうか。」
(旧約聖書・出エジプト記 33章15~16節)
*********
神様が一緒にいなくて、せいせいする?
いやいや、「神様がともにいてくださる」ということはありがたいことだ。
もし、「神がともにいてくださらなければ」、
「神様が恵んでくださらなかったら」、
このイスラエル人たちは生き延びられなかっただろう。
モーセは、「神様がともにいてくださる」ことの大きさを知っていた。
*********
当時のイスラエル人たちと同様、
私(たち)もまた、間違いを犯しやすく、失敗もする。
教会の中には、神が「戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)ことも起きる。
「それが真実、凡てを統べる神ならば、
必死に祝福を乞うたり、ともにいてくださるよう嘆願する」
ことは、決して無意味にはならない。
その昔、イスラエル(ヤコブ)がしたように。
モーセが行ったように。
いや、それができるのは、彼がまた、私たちを愛してくださっているからだ。
見よ。神は強い。
だが、だれをもさげすまない。
その理解の力は強い。
(旧約聖書・ヨブ記 36章5節)
人でさえ、力 1)を持つと、『弱さ』を理解できなくなる。
だが、人と比較するのが失礼な程 2)、力を持つ『神』は、
人の脆(もろ)さを知っており、それをさげすむこともない。
逆に、人の弱さを理解し、憐(あわれ)み、慈(いつく)しんでくださる。
神と人とをつなぐ祭司(さいし)は、自身もまた人の『弱さ』を持つため、
羊のようにさまよう人々を思いやることができる(cf.新約聖書・へブル5:2)
神ご自身でありながら、人のために人となり、
人と神とをつなぐ大祭司(へブル参照)ともなったイエス・キリストはまた、
私たちの弱さに、同情できない方ではない。(cf.へブル4:15)
故に、
私(たち)は、大胆に(あつかましく)も、
神に祈ることが、できる。
【注】
1)力を持つ:人においては、身体的能力の他、知性・権力等、「周囲との力関係で優位に立つ」ことを指す。
2)比較するのが失礼な程:これについて、ある友人から言われたことを思い出した。
「そもそも、もし本当に、イエスが『神』であるならば、
人と比較すること自体が愚かなことではないか?
それなのに、『モーセよりもすぐれたイエス』などとクリスチャンが言うのは、
クリスチャン自身が、『神』を自分たちの位置まで貶(おとし)めていないか?」⇒それに対するある答え
その返答とは別に、確かに、人は自分の分かる範囲(枠)に物事を当てはめようとしがちなところはある。
それは、クリスチャン・ノンクリスチャン関係ない。それもまた、『弱さ』なのかもしれない。
滅(ほろび)にいたる門は大きく、その路(みち)は廣(ひろ)く、
之(これ)より入(い)る者おほし。
生命(いのち)にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出(みいだ)す者すくなし。』
(新約聖書・マタイの福音書 7:13-14、文語訳)
ふと、ある各国ジョークを思い出した。こんな話だ。
・・・ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければいけなかった。
そこで、船長は、それぞれの外国人乗客にこう言った。
アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」
イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」
ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」
イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」
フランス人には「飛び込まないでください」
日本人には「みんな飛び込んでますよ」
右ならえ、もまた特徴なのだろうか。
確かに、他の人が並んでいれば、気になって並ぶこともあるし(都市部限定?)、
他の人が~している、と聞けば、そうしなければいけないような気にもなる。
そんな日本人の性質と相反することを、聖書は言う。
「見た目が立派なものを選ぶ」のではなく、「本物を選べ」と。
「周りに流されることを選ぶ」のではなく、「いのちに入れ」と。
滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、
それを見いだす者はまれです。』
(マタイの福音書 7:13-14、新改訳)
that leads to destruction, and there are many who go in by it.
Because narrow is the gate and difficult is the way
which leads to life, and there are few who find it.”
(Matthew 7:13-14, NKJV )
(新宿御苑の桜、2018 おすそ分けから)
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』
(新約聖書・コリント人への手紙 第二 5:17)
気がつくと、桜が過ぎ去っていた。
人は、たとえ望んだとしても、赤ん坊に戻ってもう一度人生をやり直す…ことはできないが、キリスト者(クリスチャン)となるということは、「新しい人」になることでもある、と聖書はいう。
一見、顔かたちも、戸籍も、指紋も、性別も、名前も変わらないが、実は、もはや、その人は新たな人なのだと。
人が、思い描いた形ではないかもしれない。
実感もないかもしれない。
だが、もう、あなたは「新しくなった」。
古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった。
(2 Corinthians 5:17, NIV)