さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

まっすぐな道を作れ Hebrews 12:13

2022-02-27 20:51:00 | Sunday 聖書

(東山魁夷「道」(1950)、青森は八戸の種差海岸がモデル)

 
 
『また、あなたがたは自分の足のために、
 
 まっすぐな道を作りなさい。
 
足の不自由な人が踏み外すことなく、
 
むしろ癒やされるためです。』
 
(新約聖書・ヘブル12章13節)
 
 
and make straight paths for your feet,
 
so that what is lame may not be dislocated, but rather be healed.
 
(Hebrews 12:13)
 
 
キリスト者(クリスチャン。使徒11:26)の場合、「道」と言えば、
 
イエス・キリスト(ヨハネ14:6)を指し、
キリストの十字架の贖いによる救いの道(使徒17:30-31、使徒24:15, 22、イザヤ35:8~10)
意味したり、連想する。
 
神の用意したものに、私達が付け足したりも引いたりすることも出来るわけがないのだが、
一見、そうする自由があることも示唆される。
 
(「人生」という意味での「道」ならば、後半にある、他者のための勧めは違ったものだったろう)
 
 
    ***********
 
確かに、雪道に残る足跡で、道がでこぼこになり、歩きにくくなることもある。
 
 
    ***********
 
願わくば、一つ一つの小さなわざが、祝用されますように。
 

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休むことも大事 Mark 6:31

2020-05-09 23:40:23 | Sunday 聖書


『そこでイエスは彼ら(使徒たち)に、
 「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、
しばらく休みなさい。と言われた。
 
 人々の出入りが多くて、
 ゆっくり食事する時間さえなかったからである。』
 
(新約聖書・マルコの福音書 6章31節)
 
And He said to them,
“Come aside by yourselves to a deserted place
and rest a while.”
 
For there were many coming and going,
and they did not even have time to eat.
 
Mark 6:31
 
 
 このとき、使徒(弟子)達は、多くの活躍(マルコ6:7〜12)をした直後だった。
 
 イエス・キリストが静かなところへ行って休むよう命じたのは、
弟子たちの疲れも、
休めない環境も
ご覧になられたからだろう。
 
 人間、ときに、静かなところで、
休みを取ることも必要なのですね。
 
身体にも、心にも。
 

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10人の乙女ら matthew 25:1-13, BWV140

2020-02-17 22:04:05 | Sunday 聖書

新約聖書に、こんなたとえ話がある。

 

・・・天の御国(みくに)は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、

花婿(はなむこ)出迎える十人の娘のようです。

“Then the kingdom of heaven shall be likened to ten virgins who took their lamps and went out to meet the bridegroom.

 

 

そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

Now five of them were wise, and five were foolish.

 

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

Those who were foolish took their lamps and took no oil with them,

 

賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れものに油を入れて持っていた。

but the wise took oil in their vessels with their lamps.

 

花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

But while the bridegroom was delayed, they all slumbered and slept.

 

 

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。

“And at midnight a cry was heard: ‘Behold, the bridegroom is coming; go out to meet him!’

(BGM:Bach「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」BWV645 ⊂ BWV140

 

 

娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

Then all those virgins arose and trimmed their lamps.

 

ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。

『油を少し私たちに分けてください。

 私たちのともしびは消えそうです。』

And the foolish said to the wise, ‘Give us some of your oil, for our lamps are going out.’

 

しかし、賢い娘たちは答えて言った。

『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。

 それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

But the wise answered, saying, ‘No, lest there should not be enough for us and you; but go rather to those who sell, and buy for yourselves.’

 

 

 

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。

用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸が閉められた。

10 And while they went to buy, the bridegroom came, and those who were ready went in with him to the wedding; and the door was shut.

 

そのあとで、ほかの娘たちも来て、

 

『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。

11 “Afterward the other virgins came also, saying, ‘Lord, Lord, open to us!’

 

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

12 But he answered and said, ‘Assuredly, I say to you, I do not know you.’

 

 

 だから、目をさましていなさい。

 あなたがたは、その日、その時を知らないからです。・・・

13 “Watch therefore, for you know neither the day nor the hour in which the Son of Man is coming.

(新約聖書・マタイの福音書25章1~13節)

 

 

「つまり?」

 

備えは大事ですよ、といふこと。」

 


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どちらが良いか? Which is better? - Ecclesiastes 7:2

2019-08-26 23:31:59 | Sunday 聖書
『祝宴の家に行くよりは、

 喪中の家に行くほうが良い。

 そこには、すべての人の終わりがあり、

 生きている者が

 それを心に留(と)めるようになるからだ。』


(旧約聖書・伝道者の書 7章2節)

一般的に、葬儀のほうが、結婚式より良い、と思うことはまれだろう。
だが、葬儀に出向くほうが良い、と聖書は言う。

それは、儀礼的な、礼節としての意味ではなく、

それを通して、
自分自身の行く末を考える
良い機会となるからだ、と。

Better to go to the house of mourning

Than to go to the house of feasting,

For that is the end of all men;

And the living will take it to heart. 

Ecclesiastes 7:2)


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ラザロ Lazarus Raised from the Dead,John 11:41-44

2019-08-25 22:14:47 | Sunday 聖書
(Jean Jouvenet 作, 1644-1717年)


 イエスは目を上げて、言われた。

「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。…」



 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。

「ラザロよ。出て来なさい。」

(新約聖書・ヨハネの福音書 11章41-44節)



 イエス・キリストが死者を生き返らせたことは、少なくとも3回あるという。

 その中でも、このラザロの甦りは、当時も噂になり、人々がラザロを見ようとやってきた(cf.ヨハネ12:9)

 また、現代においても、彼の名は、「ラザロ徴候」(脳死と判定された患者が自発的に手足を動かす動作のこと)や、「ラザロ症候群」(心肺蘇生を失敗してしまっても、自発的に血液循環を行って回復を遂げること)といった、蘇生にちなんだ名前として用いられている。

 この話を聞いて、「イエス様なら、死んだ人も生き返らせることができるんだ! すげぇ!!」と感じるもよし、「そんなのは眉唾ものだ」と思うもよし。だがしかし、ここから自らに何を応用できるのかと問うならば、例えば、

 ひとつは、「神様が応えてくださったことに感謝すること」、かもしれない。

 そして、もうひとつは…「神様がどんな良いことをしてくれたのか、周囲にも伝えること」、とも言えるかもしれない (cf.ヨハネ11:42)それも、・・・ありえそうもないときに。



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  And Jesus lifted up His eyes and said, 

“Father, I thank You that You have heard Me. …

 Now when He had said these things, He cried with a loud voice, 

“Lazarus, come forth!” 

(John 11:41-44, NKJV)


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家を建てる者たちの捨てた石 psalm 118:22

2019-04-21 05:43:27 | Sunday 聖書

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『家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎(いしずえ)の石となった。

 これは主のなさったことだ。
 私たちの目には不思議なことである。

 これは、主が設けられた日である。
 この日を楽しみ喜ぼう。』


(詩編118編22〜24節)




“The stone which the builders rejected
Has become the chief cornerstone.

This was the Lord’s doing;
It is marvelous in our eyes.

This is the day the Lord has made;
We will rejoice and be glad in it.”

(psalm 118:22〜24,NKJV)





   今日は、主日ですね。

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Exodus 33:16

2019-01-27 05:47:23 | Sunday 聖書
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“For how then will it be known

that Your people and I have found grace in Your sight,

except You go with us?

So we shall be separate, Your people and I,

from all the people who are upon the face of the earth.”

(Exodus 33:16, NKJV)



 どの情報を信頼するか、で、生き死にが、決まることがある。

 誰を信頼するか、が死活問題となる。

 人と人の間でさえそうであるならば、

「その神様が本物かどうか」は尚更だろう。



*********




 その昔、繁栄していたエジプトで、イスラエル人は、奴隷となり虐げられ、

終日(ひもすがら)労働に明け暮れていた。

イスラエル人の嘆きを聞き入れた神は、その先祖たちとの約束を果たすべく、

預言者モーセを通じて、数々の奇跡を行い、

ついに、イスラエル人たちはエジプトを脱出する(Exodus)。

       *********



 イスラエル人たちは、見た。

 ナイル川が血のように紅く染まったことを。

 紅海が、自分たちの左右に分かれ、自分たちがその中を歩いて渡ったことを。



       *********



 だが、ほんの少し、主(神)がモーセと山の上で話している間に、

「神様が欲しい。神様を作ってくれ」

と、イスラエル人たちは、金で子牛(偶像)を作り、お祭り騒ぎをしてしまった。



 これこそ、恩を仇で返す、とでも言うべきか。




 荒野(さばく)の旅路で、不平不満の多いイスラエル人に優しく忍耐してくださっていた神様も、

 とうとうお怒りになった。

 助け出したイスラエル人を一度滅ぼしてしまおう、とさえ考えた。


       *********



 とはいえ、モーセが懇願するので、思い直したものの、

「もうお前たちと一緒にはいられん!

 こんなことが続き罪を犯すなら、私はお前たちを怒って滅ぼしてしまう!!

と、おっしゃった。(神様でさえ、堪忍袋の緒が切れそうになった。)


       *********



 そのとき、再度、モーセが、こう嘆願した。

「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、

 私たちをここから上らせないでください。」


「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、

 いったい何によって知られるのでしょう。

 それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、

 私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることに

 よるのではないでしょうか。」


(旧約聖書・出エジプト記 33章15~16節)



       *********



 神様が一緒にいなくて、せいせいする?

 いやいや、「神様がともにいてくださる」ということはありがたいことだ。

 

 もし、「神がともにいてくださらなければ」、

「神様が恵んでくださらなかったら」、

このイスラエル人たちは生き延びられなかっただろう。

 モーセは、「神様がともにいてくださる」ことの大きさを知っていた。


       *********


 当時のイスラエル人たちと同様、

 私(たち)もまた、間違いを犯しやすく、失敗もする。

 教会の中には、神が「戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)ことも起きる。



 だが、しかし。


「それが真実、凡てを統べる神ならば、

必死に祝福を乞うたり、ともにいてくださるよう嘆願する」

ことは、決して無意味にはならない。


その昔、イスラエル(ヤコブ)がしたように。

モーセが行ったように。



いや、それができるのは、彼がまた、私たちを愛してくださっているからだ。



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強クナルト 出来ナクナルコト、ダガシカシ Job 36:5

2018-06-30 15:04:56 | Sunday 聖書
(ガリレオ探査機による地球の写真。何年前かは忘れた)




 見よ。神は強い。

 だが、だれをもさげすまない。

 その理解の力は強い。


(旧約聖書・ヨブ記 36章5節)




 人でさえ、力 1)を持つと、『弱さ』を理解できなくなる。

 だが、人と比較するのが失礼な程 2)、力を持つ『神』は、

 人の脆(もろ)さを知っており、それをさげすむこともない。

 逆に、人の弱さを理解し、憐(あわれ)み、慈(いつく)しんでくださる。




 神と人とをつなぐ祭司(さいし)は、自身もまた人の『弱さ』を持つため、

 羊のようにさまよう人々を思いやることができる(cf.新約聖書・へブル5:2)




 神ご自身でありながら、人のために人となり、

 人と神とをつなぐ大祭司(へブル参照)ともなったイエス・キリストはまた、

 私たちの弱さに、同情できない方ではない。(cf.へブル4:15)



 故に、

 私(たち)は、大胆に(あつかましく)も、

 神に祈ることが、できる。




【注】
1)力を持つ:人においては、身体的能力の他、知性・権力等、「周囲との力関係で優位に立つ」ことを指す。

2)比較するのが失礼な程:これについて、ある友人から言われたことを思い出した。

       「そもそも、もし本当に、イエスが『神』であるならば、

        人と比較すること自体が愚かなことではないか?

        それなのに、『モーセよりもすぐれたイエス』などとクリスチャンが言うのは、

        クリスチャン自身が、『神』を自分たちの位置まで貶(おとし)めていないか?」⇒それに対するある答え

 その返答とは別に、確かに、人は自分の分かる範囲(枠)に物事を当てはめようとしがちなところはある。

 それは、クリスチャン・ノンクリスチャン関係ない。それもまた、『弱さ』なのかもしれない。



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狭き門より入(い)れ Matthew 7:13-14

2018-05-12 07:43:33 | Sunday 聖書

『狭(せま)き門より入(い)れ、

 滅(ほろび)にいたる門は大きく、その路(みち)は廣(ひろ)く、
之(これ)より入(い)る者おほし。

 生命(いのち)にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出(みいだ)す者すくなし。』

(新約聖書・マタイの福音書 7:13-14、文語訳)




 ふと、ある各国ジョークを思い出した。こんな話だ。

 ・・・ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければいけなかった。
 そこで、船長は、それぞれの外国人乗客にこう言った。

アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄ですよ」

イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」

ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています」

イタリア人には「飛び込むと女性にもてますよ」

フランス人には「飛び込まないでください」

日本人には「みんな飛び込んでますよ」



 右ならえ、もまた特徴なのだろうか。

 確かに、他の人が並んでいれば、気になって並ぶこともあるし(都市部限定?)

 他の人が~している、と聞けば、そうしなければいけないような気にもなる。

 そんな日本人の性質と相反することを、聖書は言う。


 「見た目が立派なものを選ぶ」のではなく、「本物を選べ」と。

 「周りに流されることを選ぶ」のではなく、「いのちに入れ」と。




  『狭い門からはいりなさい。

   滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。

   そして、そこからはいって行く者が多いのです。

   いのちに至る門は小さく、その道は狭く、

   それを見いだす者はまれです。』 


 (マタイの福音書 7:13-14、新改訳)



  
“Enter by the narrow gate; for wide is the gate and broad is the way,

   that leads to destruction, and there are many who go in by it.

   Because narrow is the gate and difficult is the way

   which leads to life, and there are few who find it.”

 (Matthew 7:13-14, NKJV )

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the old has gone, the new has come 2 Corinthians 5:17

2018-04-08 22:02:20 | Sunday 聖書

(新宿御苑の桜、2018 おすそ分けから)


『だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造(つく)られた者です。

 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

(新約聖書・コリント人への手紙 第二 5:17)




 気がつくと、桜が過ぎ去っていた。



 人は、たとえ望んだとしても、赤ん坊に戻ってもう一度人生をやり直す…ことはできないが、キリスト者(クリスチャン)となるということは、「新しい人」になることでもある、と聖書はいう。

 一見、顔かたちも、戸籍も、指紋も、性別も、名前も変わらないが、実は、もはや、その人は新たな人なのだと。



 人が、思い描いた形ではないかもしれない。
 実感もないかもしれない。

 だが、もう、あなたは「新しくなった」。
 古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなった。


“Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone,the new has come!”

(2 Corinthians 5:17, NIV)



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