塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

フェリポンに向けられる視線

2012-11-29 01:53:12 | 日記
 2006年のセレソンは陽気と愛嬌 
 2010年のセレソンは堅物の集まり

 前者はタガは外れて練習から身が入らず、逆に後者は柔軟性に乏しくひとつの方法に固執してしまう。

 パレイラが率いた時とドゥンガが率いた際は、針の振れ方が完全に正反対で匙加減がうまい具合に運びません
でした。

 厳格の中にも柔軟性がそなわること

 欲を言えば融通を効かせることで選手が成長できれば良いのですが、セレソンのメンタリティは陽気か堅物か
のいずれかになるようです。

 スコラーリはやはり

 「規律と自己犠牲」

 を選手に求めるでしょうね。

 だからといって2010年ワールドカップのオランダ戦でフェリペ・メロが退場になったように、相手を傷つ
けてまで勝とうというわけではありません。

 自己節制に厳しく、練習では常に集中しメディアの前では委縮せず自分の考えを述べる。

 当たり前と言えば当たり前の行動を選手に求めるのがスコラーリの方針だと僕は感じます。

 コリンチャンスがクラブ世界一になれば、代表の汚名を返上できるかもしれませんが、冬の移籍市場で欧州から
引きぬかれる選手もいるでしょうから、スコラーリからすれば視察が難しくなります。

 インテル移籍の噂が途絶えないパウリーニョ。

 恐らくコリンチャンスには、クラブ・ワールドカップの活躍で移籍金を釣り上げる目論見があったのでしょうが、
ネイマールのようにワールドカップ本番までは国内に留まるという選択もあります。

 いずれにしてもフェリポンが代表監督に就任することは、メネゼス就任の際に見られた懐疑の視線だけは避けら
れるはずです。
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