前のブログで、言葉は現実ではなく記号だと書きました。
ある果物を指して「りんご」と呼ぶのは
その物体を一つのまとまりとして認識し、意味を共有するためです。
同じ果物を見て、一人が「りんご」と言い、別の人が「バナナ」と言う。
全てがそんな具合だったら、まさに世界はぐちゃぐちゃなままなのです。
そう考えたら、まったく言葉を持たない赤ん坊が
言葉を習得していく過程というのはすごいことだし
それはまた、人間の脳の構造のすごさでもあります。
私は子育て中に、地域の子供会の役員などを長年していたので
ずいぶんたくさんの子どもたちと関わってきました。
小学校の三、四年生にもなると
子どもたちの個性がはっきりしてきます。
それが一番現れるのが話し方なのです。
よくしゃべる子、反対に無口な子、大人に敬語が使える子と
誰とでもタメ口でしゃべる子、攻撃的な言い方をする子など
子どもと話をすると、実は彼らの成育環境も少し分かります。
年長の兄弟がいる子は、長男や長女よりも話題や語彙が豊富だとか
お母さんが、ものすごくよくしゃべるのに
子どもさんはおとなしいとか
どうやら親御さんが、厳しくしつけているようだとか
子どもたちから見えてくるものはたくさんあります。
経験上、小学生までの言語能力というのは
持って生まれた遺伝的要因と家庭環境、そして
学校や塾などでの人間関係などの社会的な要因の影響が大きいようです。
けれど、実は学校や家庭での会話の内容というのは
それほど複雑なものではありません。
同級生であれば、同じ年ですから
頭の中身も話の内容も、だいたい同じレベルです。
親子の会話にしても、親御さんは「今日学校で何があった?」とたずねるくらいで
あとは「宿題は?」とか「ご飯よ」とか「お風呂入りなさい」とか
日常の生活に関することがほとんどです。
そういう状況の中で、例えば「友だちにいじめられた」とか
「仲間はずれにされた」とか「友だちとうまくつきあえない」
あるいは「先生が嫌い」とか「いつも怒って、命令ばかりする親が嫌」とかいう
辛い、悲しい、あるいは腹が立つという気持ちを
上手に表現できる言葉を子どもたちは持っているでしょうか。
悩んでいる子どもが、考えたり話したりできる言葉を持てること
それは将来にわたって、とても大切なことだと思います。
現在ネットこそがそういう場所で
そこでだったら自分の言葉で、自分の考えていることや興味があることを
思い切り表現できるという理由で
ネット(スマホ)から離れることができなくなっている青少年も
かなり増えているのではないかと思います。
けれどリアルの世界で起こっている問題は
一時的にネットに逃避することはできても
ネットだけで解決することは決して多くはありません。
リアルな人間同士から生まれる問題に立ち向かっていくためには
「自分は何者なのか」という自我を確立するための言葉や
自分や他者の感情を理解したり分析したりできる言葉が必要で
これはもう「りんご」とか「バナナ」のレベルとは段違いに
獲得することも、使いこなすことも難しくなります。
子どもがそういう言葉を獲得し、使えるようになるのには
子どもをめぐる環境や人間関係の果たす役割はとても大きいです。
親が子どもの様子を気づかって
「何かあるんだったら話してごらん」と聞いた時に
子どもから返ってきた答えが「別に」だったとしても
それは本当に話すような悩みがないのか
ささいなことで親に干渉されたくないという自立の現れの拒絶なのか
それとも思い悩んでいることはたくさんあっても
それをうまく言葉にできないための否定なのか
親の側が考えなければいけないことがたくさんあります。
普段その手の会話をまったくしてこなかったのに
いきなり「さあ、話せ」と言われてもそれは無理というものです。
環境が大事というのはそういうことで
言葉の獲得も、親子のコミュニケーションも
何か問題が起きたからといって
一朝一夕にはできません。
忍耐と寛容と努力、そして信頼あるのみです。
そして、子どもや猫とは何とか普通に
コミュニケーションを成立させることができた私も
「話すべき言葉を持たない」ダンナについては
未だにお手上げという状態が続いています。
私があれこれダンナの気持ちを代弁するようなことを言っても
それはただダンナの思考を誘導、コントロールしているだけに
なりかねませんし、無意味なのですが
それでは60を過ぎたオッサンが
今から自分の気持ちを表現できる言葉を持てるのかと言えば
これまたはなはだ心もとないものがあります。
すでに足し算ではなく引き算の段階に入っているのですから。
世の中が経済中心で、効率本位、成果主義になってから
言葉の価値はすっかり軽視されるようになりました。
それは子どもの世界に限ったことではありません。
子どもの世界は、大人の世界を映す鏡でもあります。
「面白くないから酒」
「むしゃくしゃするからギャンブル」
「楽しいことがないからネット」
「ムカツいたから殺す」
これらは全て、人が言葉を失った果てにある不毛で短絡的な思考の姿なのです。
ある果物を指して「りんご」と呼ぶのは
その物体を一つのまとまりとして認識し、意味を共有するためです。
同じ果物を見て、一人が「りんご」と言い、別の人が「バナナ」と言う。
全てがそんな具合だったら、まさに世界はぐちゃぐちゃなままなのです。
そう考えたら、まったく言葉を持たない赤ん坊が
言葉を習得していく過程というのはすごいことだし
それはまた、人間の脳の構造のすごさでもあります。
私は子育て中に、地域の子供会の役員などを長年していたので
ずいぶんたくさんの子どもたちと関わってきました。
小学校の三、四年生にもなると
子どもたちの個性がはっきりしてきます。
それが一番現れるのが話し方なのです。
よくしゃべる子、反対に無口な子、大人に敬語が使える子と
誰とでもタメ口でしゃべる子、攻撃的な言い方をする子など
子どもと話をすると、実は彼らの成育環境も少し分かります。
年長の兄弟がいる子は、長男や長女よりも話題や語彙が豊富だとか
お母さんが、ものすごくよくしゃべるのに
子どもさんはおとなしいとか
どうやら親御さんが、厳しくしつけているようだとか
子どもたちから見えてくるものはたくさんあります。
経験上、小学生までの言語能力というのは
持って生まれた遺伝的要因と家庭環境、そして
学校や塾などでの人間関係などの社会的な要因の影響が大きいようです。
けれど、実は学校や家庭での会話の内容というのは
それほど複雑なものではありません。
同級生であれば、同じ年ですから
頭の中身も話の内容も、だいたい同じレベルです。
親子の会話にしても、親御さんは「今日学校で何があった?」とたずねるくらいで
あとは「宿題は?」とか「ご飯よ」とか「お風呂入りなさい」とか
日常の生活に関することがほとんどです。
そういう状況の中で、例えば「友だちにいじめられた」とか
「仲間はずれにされた」とか「友だちとうまくつきあえない」
あるいは「先生が嫌い」とか「いつも怒って、命令ばかりする親が嫌」とかいう
辛い、悲しい、あるいは腹が立つという気持ちを
上手に表現できる言葉を子どもたちは持っているでしょうか。
悩んでいる子どもが、考えたり話したりできる言葉を持てること
それは将来にわたって、とても大切なことだと思います。
現在ネットこそがそういう場所で
そこでだったら自分の言葉で、自分の考えていることや興味があることを
思い切り表現できるという理由で
ネット(スマホ)から離れることができなくなっている青少年も
かなり増えているのではないかと思います。
けれどリアルの世界で起こっている問題は
一時的にネットに逃避することはできても
ネットだけで解決することは決して多くはありません。
リアルな人間同士から生まれる問題に立ち向かっていくためには
「自分は何者なのか」という自我を確立するための言葉や
自分や他者の感情を理解したり分析したりできる言葉が必要で
これはもう「りんご」とか「バナナ」のレベルとは段違いに
獲得することも、使いこなすことも難しくなります。
子どもがそういう言葉を獲得し、使えるようになるのには
子どもをめぐる環境や人間関係の果たす役割はとても大きいです。
親が子どもの様子を気づかって
「何かあるんだったら話してごらん」と聞いた時に
子どもから返ってきた答えが「別に」だったとしても
それは本当に話すような悩みがないのか
ささいなことで親に干渉されたくないという自立の現れの拒絶なのか
それとも思い悩んでいることはたくさんあっても
それをうまく言葉にできないための否定なのか
親の側が考えなければいけないことがたくさんあります。
普段その手の会話をまったくしてこなかったのに
いきなり「さあ、話せ」と言われてもそれは無理というものです。
環境が大事というのはそういうことで
言葉の獲得も、親子のコミュニケーションも
何か問題が起きたからといって
一朝一夕にはできません。
忍耐と寛容と努力、そして信頼あるのみです。
そして、子どもや猫とは何とか普通に
コミュニケーションを成立させることができた私も
「話すべき言葉を持たない」ダンナについては
未だにお手上げという状態が続いています。
私があれこれダンナの気持ちを代弁するようなことを言っても
それはただダンナの思考を誘導、コントロールしているだけに
なりかねませんし、無意味なのですが
それでは60を過ぎたオッサンが
今から自分の気持ちを表現できる言葉を持てるのかと言えば
これまたはなはだ心もとないものがあります。
すでに足し算ではなく引き算の段階に入っているのですから。
世の中が経済中心で、効率本位、成果主義になってから
言葉の価値はすっかり軽視されるようになりました。
それは子どもの世界に限ったことではありません。
子どもの世界は、大人の世界を映す鏡でもあります。
「面白くないから酒」
「むしゃくしゃするからギャンブル」
「楽しいことがないからネット」
「ムカツいたから殺す」
これらは全て、人が言葉を失った果てにある不毛で短絡的な思考の姿なのです。
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そうだったんですか。実は今年の1月に「EQ能力」というものについて書いたことがあります。
和田秀樹という先生のコラムで知ったのですが、 アメリカで「頭が良いのに社会的に成功できないのはなぜか」を研究することで生まれてきた人間の能力の分類で、IQ(知的能力)とセットになっているものだそうです。
相手の感情を知る力とか、社交能力、対人関係能力などがこれにあたるようで、なるほどと思いました。どちらもバランスよく伸びていくのが理想なのでしょうが、なかなかそういう具合にはならないですもののようです。
それは、我が身を振り返ってもそうですからwww
その頃私が働いていた塾は個人経営塾で
経営者は、偏差値も学費も超お高い、有名理系大学を出ていました。
若者の起業ブームではありましたが、なぜあの大学出て
塾経営なの?でした
普通は、ITでしょう?でした
この方、数学リカ英語社会は自分で教えられましたが
国語がどうぢてもできないということで、私が採用され
中3全クラスと、1,2年の 良いクラス担当しました
そして気づきました
子どもとはフランクに会話できるのに
私を含めた、他のバイトの先生たちと、目を合わせて
会話ができない人でした
社会人経験なしで、起業したあの人
すんばらしい頭脳をもちながら
対人関係に問題があったように思います
数学的に
頭が良いだけは、世の中の荒波には乗れないようです
依存症について勉強するうちに、言葉と脳の問題に行き着きました。があこさんのお話は、実体験に基づいたものでとても参考になりました。やはり、という感じでもあります。
中学生、あるいは高校生になって、または大人になって、問題が出て対処しようと思っても、実は子どもの頃からの言葉の習得ができていないことで、うまくいかないことも多いのかもしれませんね。特に、感情のコントロールなどの点で。
それではどうすればよいのかを、私のような素人が偉そうに言うのは、おこがましいことかも知れませんが
こうして読んでいただける方がおられることを励みに、
退化し始めている脳にがんばってもらって書いていきます。
私の未熟なブログはともかくとして、こうした問題に関心がある、意識を持っている方が家族の中におられるだけでも、周囲に与えるよい影響は大きいのではないかと思います。
思春期の子供にしても、依存症にしても、即効性がある解決法がある、簡単に答えが出るような話ではありませんが、それでも私たちが、何もせず傍観するのではなく、学んで考えて、行動できることは行動することで、すご~く長い目で見た時に少しでも変わるものがあれば、と。報われないですけどねwwwがんばりましょうね!
一番良いクラス
一つ教えると、いくつも質問が出てきました
あの子たちは、言葉をたくさん持っていたので、複雑な思考ができ、自分の中のモヤモヤした感情を言葉で整理して
表現する子ができたので、嫌なことがあっても、荒れることがありませんでした
自他に対する分析ができるので、人間関係も良好でした
一番下のクラス
言葉を持っていない子が多く、読み書きにも支障がある子がいました
いつもイライラしていて、りょうさんのおっしゃる通り
自分の感情を表す言葉がとても少なく
「気持ちいい」か「ムカつく」に「超」が加わるだけ
思春期のモヤモヤも、起因する何かを、表現できないので
「なんか・・・感じぃ」でした
この語彙力、表現力で社会に出たら厳しいだろうなぁと
思いました
言葉や表現力がない人は、自分に対する分析や表現が
できないどころか、他者の心情を推し量る力も弱く
塾の先生的には、「筆者の主張が読み取れず」
実生活では、他者の感情を思いやる力が弱いように
感じました
学力と生活力は別だと言われていますが
やはり、表現するための言葉が少ない子は
生きにくそうです
りょうさんの 今回の二つの記事を読んで、思い出したことを、書いてみました
りょうさんの見解に、納得することが多かっtです