ギャンブル依存症のことが小説に登場するというので
「催眠 完全版」松岡圭佑著を読んだ。
三歳の息子を炎天下の車内に置き去りにして
三時間パチンコに熱中し子どもが重体になった母親が
自殺を図るという話がサイドストーリーとして展開される。
主人公が臨床心理士なので
パチンコ依存症の問題が心理学的な側面で描かれる。
パチンコ屋の単調な轟音と点滅する大量の電飾
それをずっと凝視するために客は催眠状態に陥る。
意思や理性のレベルが低下しいわゆるトランス状態になる。
さらに過去の経験から脳が「大当たりすれば儲かる」という
暗示によって誘導されているので
トランス状態から抜け出すことは難しく
客はどれだけお金を使ったかというようなことを
冷静に考えることができなくなる、とまあ不完全な要約だか
そんな感じで客の心理状態が分析されている。
トランス状態になる人ならない人の違いは
本人の性格の問題ではなく
被催眠性が高いかどうか
つまり催眠にかかりやすいかどうかの差だと説明される。
ここでいう催眠とはTVのショーのような
「あなたはだんだん眠くなる」的なものではない。
心理療法のひとつとしても取り入れられているが
これもまたどうやら医学的に実証されているという
ところまではいっていないようだ。
この本を読んで感じたのは
人の心の緊張と弛緩の問題だ。
パチンコがストレスの解消になることに
こういう催眠、トランスという問題が関係しているとすれば
つまり現代社会の複雑さ多様さに対応できず
(それはこの前書いた言葉の問題とも関係していて
自分の心の有り様を分析して整理していく
能力に欠けていることも原因のひとつかと思う)
そこからの逃避としてパチンコにのめりこんでいくのではないか。
几帳面でなんでもきちんとやらなければ
気がすまないような人がパチンコ依存症になるというのも
そういう意味ではわからくはないのだ。
会社でも家庭でも気の休まるヒマがないから
パチンコやスロットに向き合って催眠状態になることで
唯一心を無にして開放された感覚が得られるということだろう。
もしそうだとすればパチンコスロットでの依存症は
その娯楽を形成する周辺の条件の違いからして
「儲かる」という暗示の要素が前面に出た
競馬競輪などとは少し性格が違うように思われるのだが
専門的にみればそのあたりはどうなのだろうか。
「催眠 完全版」松岡圭佑著を読んだ。
三歳の息子を炎天下の車内に置き去りにして
三時間パチンコに熱中し子どもが重体になった母親が
自殺を図るという話がサイドストーリーとして展開される。
主人公が臨床心理士なので
パチンコ依存症の問題が心理学的な側面で描かれる。
パチンコ屋の単調な轟音と点滅する大量の電飾
それをずっと凝視するために客は催眠状態に陥る。
意思や理性のレベルが低下しいわゆるトランス状態になる。
さらに過去の経験から脳が「大当たりすれば儲かる」という
暗示によって誘導されているので
トランス状態から抜け出すことは難しく
客はどれだけお金を使ったかというようなことを
冷静に考えることができなくなる、とまあ不完全な要約だか
そんな感じで客の心理状態が分析されている。

トランス状態になる人ならない人の違いは
本人の性格の問題ではなく
被催眠性が高いかどうか
つまり催眠にかかりやすいかどうかの差だと説明される。
ここでいう催眠とはTVのショーのような
「あなたはだんだん眠くなる」的なものではない。
心理療法のひとつとしても取り入れられているが
これもまたどうやら医学的に実証されているという
ところまではいっていないようだ。

この本を読んで感じたのは
人の心の緊張と弛緩の問題だ。
パチンコがストレスの解消になることに
こういう催眠、トランスという問題が関係しているとすれば
つまり現代社会の複雑さ多様さに対応できず
(それはこの前書いた言葉の問題とも関係していて
自分の心の有り様を分析して整理していく
能力に欠けていることも原因のひとつかと思う)
そこからの逃避としてパチンコにのめりこんでいくのではないか。
几帳面でなんでもきちんとやらなければ
気がすまないような人がパチンコ依存症になるというのも
そういう意味ではわからくはないのだ。
会社でも家庭でも気の休まるヒマがないから
パチンコやスロットに向き合って催眠状態になることで
唯一心を無にして開放された感覚が得られるということだろう。
もしそうだとすればパチンコスロットでの依存症は
その娯楽を形成する周辺の条件の違いからして
「儲かる」という暗示の要素が前面に出た
競馬競輪などとは少し性格が違うように思われるのだが
専門的にみればそのあたりはどうなのだろうか。
