コッツウォルズはロンドンの西約200kmに広がる標高300m位の丘陵地帯にある。
コッツウォルズは「羊の丘」という意味だ。コッツウォルズの歴史は古く、
13~14世紀には羊毛の交易で栄えていたようである。コッツウォルズは北部、
中部、南部の3つの地域で構成され、160Kmにわたる緑の牧草地の中に小さな村や
街が点在する。国の特別自然景観地域に指定されている。
今回、訪問したのは①バイブリー(南部)、②ボートンontheウォーター(中部)、
③ストウontheウォルト(北部)、④チッピング・カムデン(北部)という村や街
である。チッピング・カムデンでは個人宅のオープンガーデンが開催されており、
花咲く個人庭を3軒拝見できた。
1)バイブリー
歴史
コッツウォルズに至る道路は、その昔、ローマ帝国がブリティン島に進出した折に
作った街道が残り、現在も、道幅が拡張され使用されている。道路の片側には当時
の1~2mの擁壁(コッツウォルズ・ストーンでできている)が残っている。
コッツウォルズは、現在でも、古いイングランドの面影を残した建物を見ることが
できる。20世紀にはいり、その景観を活かした観光業が盛んになっており、毎年多く
の観光客が訪れている。黄色みを帯び「蜂蜜色の石」「ライムストーン」とも称さ
れる石灰岩「コッツウォルズストーン」を使った建物が特徴的な景観をなしている。
2) ボートン・ウォーター
街の中を清流が流れ、水遊びをする子供達で賑わっていた。(6/18は日曜日)
コッツウォルズ・ストーンでできた町並みを見ながら市内を散策し、街全体をミニ
チュア化したモデル(模型)都市を見学後、川辺のカフェで昼食をとり、次いで
次の街へ向かった
3)ストウ・ウォルト
6月18日、3番目の訪問先として、午後一番に現地に入った。町並み拝見と教会見学
土産物の取得が主な行程となった。
エドワード教会には1850年代のクリミア戦争で亡くなった人々が祀られて、教会の入口
には、意味ありげに深紅のケシの花が植えられていた。
<参考> クリミア戦争
1853年7月ロシアがオスマン帝国下のモルダビア、ワラキアに進軍、10月にオスマン軍が
ドナウ川を渡河して開戦となった。(宣戦布告なし)
バルカン半島ではキリスト教徒、ロシア正教徒、イスラム教徒が複雑に入り組み、聖地
エルサレムの聖地管理権問題を含んで、ヨーロッパ全体は複雑な利害関係の中にあった。
1853年11月にロシア黒海艦隊が黒海南岸都市シノープのオスマン帝国艦隊を急襲し、徹底
的な破壊をしたが、これに対抗して、イギリス、フランスが同盟してオスマン帝国を支援し、
1854年3月28日、ロシアに対して宣戦布告した。
同盟軍はバルナ(ブルガリア東部)に上陸して、オデッサに向かったが、オーストリア軍
が、自国のバルカン山脈通過を阻止したため、ロシア黒海艦隊の基地のあるクリミア半島の
セバストポリへ目標を変えた。1854年9月28日から始まったセヴァストポリの戦いでは、戦闘
は複雑で一進一退となったが、最終的に、サルデーニャ王国が精鋭15000人を派遣して同盟軍
に参加したことにより、街は3日に及ぶ総攻撃の末に、1855年9月11日に陥落して決着した。
(イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成したのはナポレオン戦争から第一次世界
大戦までの100年の間でこの1度だけだった。)
このあと、厭戦機運の高まりや為政者の交代などで和平交渉が遅れ、1856年3月30日にオース
トリア帝国とプロイセン王国の立会いの下で、パリ条約が成立した。
ヨーロッパ全体を巻き込んだこの戦争の間に、イギリス、フランスに産業革命が進展し、また
プロイセンやイタリア(サルデーニア)が発展し、ロシアは旧体制のままとなり発展が遅れた。
この戦争は、北欧(バルト海戦)や幕末の日本まで様々な形で影響を与えた。
4)チッピング・カムデン (別にPAGEを起こします。)
アドレス:チッピングカムデンhttps://blog.goo.ne.jp/ms_blog_trecking120/e/3411f5d28105b3929c73a7b5f66c3b6d
以上