この間、「アルファ碁」というドキュメンタリ映画を見た。
それとほぼ同じタイミングで、藤井五段(当時)の朝日杯決勝戦をAbema TVで観た。
そこで私は、なぜ人間はコンピュータに将棋や囲碁で負けてもなお、それらを続けるのか、ということについて、ピンときたのでそれを書く。
アルファ碁は、Google Deep Mindというグループが開発したコンピュータ囲碁プログラムで、
今回観たドキュメンタリでは、最初にヨーロッパのチャンピオンを倒し、その後、韓国の天才囲碁棋士と闘う様子が映し出されている。
すでに新聞報道でも有名なので、ドキュメンタリの内容を一部明らかにするが、要するに何度も世界チャンピオンに輝いた韓国の天才囲碁棋士は、無残に敗北する。
ヨーロッパチャンピオンを倒したとき、アルファ碁はそれほどの強さではなかった。と言われた。
というのも、ヨーロッパと東アジアでは、レベルの差が段違いだったためである。
棋譜の内容も、アルファ碁がまだ人類を倒すほどではないと判断された。
それゆえ、前評判では韓国の棋士が圧倒的な差で勝つだろうと言われたし、本人もそのように公言していた。
ところが、ヨーロッパチャンピオンを倒した後の半年あまりで、アルファ碁はさらに飛躍的に強くなった(らしい)。
以前に書いたが、コンピュータの一日と、人間の一日は、同じ長さではない。
コンピュータの場合、人間の処理能力を遥か彼方に超えているためだ。
おそらく当時ですら、アルファ碁内部の囲碁の「歴史」は、人類の囲碁の歴史よりも長くなっていたことだろう。
このドキュメンタリは、韓国の天才棋士が敗北し、大量の記者が押し寄せる対戦会場が、見事にお葬式のような空気になっている様子を余すことなく映し出している。
人間がコンピュータに負けた、もうダメだ。Ai怖い。という印象を誰もが持つなかで、
興味深いのプログラム開発関係者の言葉だ。
「〔みんな、やたらAIを怖がるけど〕アルファ碁は、まだAIと呼べるほどのものでは、ありません。」
また別の関係者は、こう言う。
「アルファ碁は、賢い洗濯機の程度のものです。」
確かに、将棋も囲碁もコンピュータが相手にしなければいけない世界をきわめて限定している。
囲碁における指し手の選択可能性がいくら宇宙規模であっても、あくまで世界は盤上に限られており、
コンピュータは、棋士の表情を読み取ることもなければ、勝負をめぐる社会的なプレッシャーを感じることもない。
だから、アルファ碁と闘う棋士は、奇妙な感覚に襲われるという。
すなわち、自分の鏡と闘っているような気分になるのだ、と。
アルファ碁はさらに強くなり、中国の最強棋士も破ってしまったという。
おまけに開発チームは、コンピュータが人間の棋譜の読み込みではなく、独自の対局による学習によって強くなる、「アルファ碁ゼロ」を開発したという。
漫画『ヒカルの碁』では、最終的に棋士たちが「神の一手」を目指す様子が描かれるが、AIはその「神の一手」にいち早く届いてしまっているのかもしれない。
少なくとも人類よりは、ずっと先に進んでいる。
では、人間は将棋や囲碁をプレイする意味を失ったのか?
そんなぼんやりした疑問を持っていた私だが、先日、藤井(当時)五段の朝日杯の決勝戦をリアルタイムで見て、そんなことはないと得心した。
決勝は、A級リーグで活躍する広瀬八段との一戦だった。
将棋の細かい話は割愛するが、要するにその将棋に私は感動したのだった。
藤井(当時)五段の指し手は、緊張感をはらみつつ、大胆で驚きに満ちたものだった。
将棋というのは、基本的に序盤戦で陣形を組み、中盤戦で本格的に戦闘となる。
もちろん、この試合もそうなっていたわけだが、中盤戦からは、正解の選択肢がどんどん少なくなる。
たとえば、4つの(一見正しく見える)選択肢があったとしよう。
決勝戦の対局は、この4つのなかのどれが正解なのか、きわめて分かりにくいうえに、
明らかにひとつしか正解がない。いや、もはや、ひとつも正解がないような道を進んでいた。
藤井(当時)五段は、常に複数ある選択肢のなかから、凄まじい速度で正解を着実に選択した。
さらに驚いたのは、しばしば、その4つの選択肢以外の(大正解の)5つ目を見つけていたことだ。
プロ棋士であっても、常に正解の選択肢を選ぶことはできない。
そもそも、どれが正解なのかは、最後まで指してみないと分からないからだ。
さらに言えば、4つの選択肢のなかに、ひとつも正解がない場合もある。
そのなかで、藤井(当時)五段の指し手は、最初はまるで正解なのか分からないけど、
見ている人たちが途中で「あ!さっきの手、正解だったんだ!」と膝を打つようなものだった。
ボールを遠くに飛ばすだけなら、機械にやらせた方がいい。
人間を早く移動させるだけなら、飛行機や車に乗ればいい。
けれど、人間が人間との競技のなかで飛距離や速度を勝負する場合、そこには美しさや感動が生まれる。
広い意味でのスポーツは、人間同士がコミュニケーションするためのツールであり、人間とはいかなる存在なのかを示すことにつながる。
将棋も囲碁も、人間が試合を行うことで生まれる美しさや感動があるらしい。
音楽もそうだ。
もしコンピュータが一流のオーケストラの演奏を(録音ではないかたちで)模倣して再現できたとして、そこに感動はあるだろうか?
そこにはコミュニケーションがない。
そのコンピュータの世界では、「空気の振動」だけがすべてであり、そこに居合わせた人間たちの人生の機微は存在しない。
私はコンピュータの発展が無意味だと思わない。全くその逆だ。
コンピュータの驚異的なパフォーマンスに照射されるのは、どういうわけか、人間の本質だということを言いたいのである。
それとほぼ同じタイミングで、藤井五段(当時)の朝日杯決勝戦をAbema TVで観た。
そこで私は、なぜ人間はコンピュータに将棋や囲碁で負けてもなお、それらを続けるのか、ということについて、ピンときたのでそれを書く。
アルファ碁は、Google Deep Mindというグループが開発したコンピュータ囲碁プログラムで、
今回観たドキュメンタリでは、最初にヨーロッパのチャンピオンを倒し、その後、韓国の天才囲碁棋士と闘う様子が映し出されている。
すでに新聞報道でも有名なので、ドキュメンタリの内容を一部明らかにするが、要するに何度も世界チャンピオンに輝いた韓国の天才囲碁棋士は、無残に敗北する。
ヨーロッパチャンピオンを倒したとき、アルファ碁はそれほどの強さではなかった。と言われた。
というのも、ヨーロッパと東アジアでは、レベルの差が段違いだったためである。
棋譜の内容も、アルファ碁がまだ人類を倒すほどではないと判断された。
それゆえ、前評判では韓国の棋士が圧倒的な差で勝つだろうと言われたし、本人もそのように公言していた。
ところが、ヨーロッパチャンピオンを倒した後の半年あまりで、アルファ碁はさらに飛躍的に強くなった(らしい)。
以前に書いたが、コンピュータの一日と、人間の一日は、同じ長さではない。
コンピュータの場合、人間の処理能力を遥か彼方に超えているためだ。
おそらく当時ですら、アルファ碁内部の囲碁の「歴史」は、人類の囲碁の歴史よりも長くなっていたことだろう。
このドキュメンタリは、韓国の天才棋士が敗北し、大量の記者が押し寄せる対戦会場が、見事にお葬式のような空気になっている様子を余すことなく映し出している。
人間がコンピュータに負けた、もうダメだ。Ai怖い。という印象を誰もが持つなかで、
興味深いのプログラム開発関係者の言葉だ。
「〔みんな、やたらAIを怖がるけど〕アルファ碁は、まだAIと呼べるほどのものでは、ありません。」
また別の関係者は、こう言う。
「アルファ碁は、賢い洗濯機の程度のものです。」
確かに、将棋も囲碁もコンピュータが相手にしなければいけない世界をきわめて限定している。
囲碁における指し手の選択可能性がいくら宇宙規模であっても、あくまで世界は盤上に限られており、
コンピュータは、棋士の表情を読み取ることもなければ、勝負をめぐる社会的なプレッシャーを感じることもない。
だから、アルファ碁と闘う棋士は、奇妙な感覚に襲われるという。
すなわち、自分の鏡と闘っているような気分になるのだ、と。
アルファ碁はさらに強くなり、中国の最強棋士も破ってしまったという。
おまけに開発チームは、コンピュータが人間の棋譜の読み込みではなく、独自の対局による学習によって強くなる、「アルファ碁ゼロ」を開発したという。
漫画『ヒカルの碁』では、最終的に棋士たちが「神の一手」を目指す様子が描かれるが、AIはその「神の一手」にいち早く届いてしまっているのかもしれない。
少なくとも人類よりは、ずっと先に進んでいる。
では、人間は将棋や囲碁をプレイする意味を失ったのか?
そんなぼんやりした疑問を持っていた私だが、先日、藤井(当時)五段の朝日杯の決勝戦をリアルタイムで見て、そんなことはないと得心した。
決勝は、A級リーグで活躍する広瀬八段との一戦だった。
将棋の細かい話は割愛するが、要するにその将棋に私は感動したのだった。
藤井(当時)五段の指し手は、緊張感をはらみつつ、大胆で驚きに満ちたものだった。
将棋というのは、基本的に序盤戦で陣形を組み、中盤戦で本格的に戦闘となる。
もちろん、この試合もそうなっていたわけだが、中盤戦からは、正解の選択肢がどんどん少なくなる。
たとえば、4つの(一見正しく見える)選択肢があったとしよう。
決勝戦の対局は、この4つのなかのどれが正解なのか、きわめて分かりにくいうえに、
明らかにひとつしか正解がない。いや、もはや、ひとつも正解がないような道を進んでいた。
藤井(当時)五段は、常に複数ある選択肢のなかから、凄まじい速度で正解を着実に選択した。
さらに驚いたのは、しばしば、その4つの選択肢以外の(大正解の)5つ目を見つけていたことだ。
プロ棋士であっても、常に正解の選択肢を選ぶことはできない。
そもそも、どれが正解なのかは、最後まで指してみないと分からないからだ。
さらに言えば、4つの選択肢のなかに、ひとつも正解がない場合もある。
そのなかで、藤井(当時)五段の指し手は、最初はまるで正解なのか分からないけど、
見ている人たちが途中で「あ!さっきの手、正解だったんだ!」と膝を打つようなものだった。
ボールを遠くに飛ばすだけなら、機械にやらせた方がいい。
人間を早く移動させるだけなら、飛行機や車に乗ればいい。
けれど、人間が人間との競技のなかで飛距離や速度を勝負する場合、そこには美しさや感動が生まれる。
広い意味でのスポーツは、人間同士がコミュニケーションするためのツールであり、人間とはいかなる存在なのかを示すことにつながる。
将棋も囲碁も、人間が試合を行うことで生まれる美しさや感動があるらしい。
音楽もそうだ。
もしコンピュータが一流のオーケストラの演奏を(録音ではないかたちで)模倣して再現できたとして、そこに感動はあるだろうか?
そこにはコミュニケーションがない。
そのコンピュータの世界では、「空気の振動」だけがすべてであり、そこに居合わせた人間たちの人生の機微は存在しない。
私はコンピュータの発展が無意味だと思わない。全くその逆だ。
コンピュータの驚異的なパフォーマンスに照射されるのは、どういうわけか、人間の本質だということを言いたいのである。
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