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森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

パナール178 AMD-35装甲車 (Panhard 178 AMD-35) 1/35 ICM

2017年01月28日 | AFVの模型
今回はICM製のパナール装甲車の完成品を紹介します。

この作品は月刊ホビージャパン2015年11月号に作例として掲載されたものです。今回は外で撮影してみました。自然光はとてもいいですね。

パナール装甲車は、割と知っているようで詳しいことは全然知らなくて、でも昔からずっとなんか気にはなってて、かといってこちらからアクションを起して詳しく知ろうとかとは思わなくて、でも好きは好きなんだよなあ、という、あだち充の漫画になりそうな、私にとってはなんか変な位置にある不思議な車両です。なので(という接続詞が適当かどうかわかりませんが)、こうやって作例のお仕事がいただけて嬉しかったです。でなければ、パナールときちんと対峙することが今後もなかったような気が、、。で、こうして改めて見ると、やっぱりおフランスならではのセンスの良いスタイルで、なんとなく上品な佇まいなのが、好感を持っている大きな理由のような気がしますね。

このキットはパーツが少ないながらもインテリアが丁寧に再現されていて、各ハッチも開閉が選択できるので、ほぼ全てを開けてみました。それなら遺棄された状態がいいかな、と思ったので映画「ダンケルク」のイメージを拝借することにしました。



製作に当たって、「ダンケルク」をかなり久しぶりに観ました。海岸の砂の色とか、うち捨てられた装備の印象など、とても参考になりました。海岸ではいつも風が吹いているというイメージがあるので、ハッチに引っ掛かった布切れや、枯れた草でその辺を表現してみたつもりです。

フィギュアはタミヤ「フランス歩兵セット」の一体を改造。映画の主役ジャン=ポール・ベルモンドに似せてみようとしてみましたが、どんなもんでしょう。セットのどのフィギュアか忘れましたけど、なんとなくベルモンドに似てる一体があったので、目元と唇を少しいじっただけなんですけどね(笑)


散らばった装備も同セットから。このセットのMASライフルや、Mle1924軽機関銃はとてもよく出来てますね。銃や水筒のストラップは板鉛で作ってます。それぞれにストラップをつけるのはなかなかメンドクサイのですが、やらないと不自然ですし、遺棄されたという感じも出ないのでやってます。

砂浜なので、木の切り粉を砂に見立ててタイヤなどに付けてます。タイヤ(ゴム製)のトレッドはとてもいい感じで掘りも深いので砂が詰まっているようにしやすかったです。あと、キットではステアリングを切った状態にできないので、ちょっといじってます。といっても、車軸の根元を切って、斜めに瞬着で止めてるだけです。今回のようにベースに固定するのならそういう簡易な方法でもOKかと思います。ただ、位置が狂わないように気をつける必要がありますけど、、。

キットはとてもいい出来なのですが、唯一操縦席ハッチの左右のリベットのモールドが甘かったのでリベットを再現しました。

リベットは釣り用の板鉛を、ビーディングツールで打ち抜いたものを使ってます。プラ板よりも抜きやすく、バリも出ませんし、デザインナイフの先でつついて持ち上げやすいです。プラよりも柔らかいので多分ツールにもやさしいんじゃないかなあと。などなどの理由で、私は板鉛ばっかり使ってます。ただ、柔らかすぎて爪でもつぶれるほどなのですが、まあその辺に気をつけていればとてもいい材料だと思います。つぶれても付け直したらいいや、くらいのつもりでやってます(笑)

前述の通り、車内はほどほどの部品数ながら丁寧に再現されています。

きっちり作りこみたい人は手を加えるベースとしては十分そうですし、逆にハッチを全部閉めちゃう人には未練が残らない(笑)くらいの、ほんと丁度いい按配です。ハッチの裏側のスリットも丁寧にモールドされていて、好感度高し、ですね。

風になびく布はタミヤのエポパテ(速硬化型)で表現しました。混ぜた後、2-3時間くらい経ってある程度固まりだしたら、薄ーく伸ばして置いときます。そして、それからさらに1-2時間後くらいになってから皺や破れなどの形を付けていきます。文章でちょっと説明しずらいのですが、まあそんな感じです(コラコラ)。時間は人によってやりやすさが違うかと思いますので、その辺もご了承ください。

エポパテはやり方によっては、とても薄くできるのがいいですね。破れた感じにもしやすいように思います。ハッチの角などの錆やこすれの表現は油絵の具(バーントアンバーとブラックを混ぜたもの)をドライブラシしてます。うまいことやったらチッピングっぽくなりますし、しかもチッピングよりも速く出来るので、いまはもうこればっかりですね。失敗したら何度でもやりなおせるのもいいですね。

ホビージャパンの記事にも書きましたが、パーツが少なくとても作りやすく、でもきちんとパナールしてて、インテリアもちゃんとしてて塗装のし甲斐もあって、完成したらジオラマにしたくなるような、、、要するに、とてもいいキットでした。

取り組んだのはもう1年半くらい前なんですけど、作っていて何故かほっこりした気分になったのを今でも覚えてます。それは「昔ながらの楽しいプラモ」を思い出させてくれたからかもなあ、と。ICMのキット、また作ってみたいですね。


というわけで、どれも似たような写真ばかりですいませんでした。ブログを書きながら写真をずっと見てたら「ベルモンド君、そろそろ立ち上がって次の行動を起こしたら?」って思っちゃいました(笑)

それでは。

※ホビージャパン掲載時のお知らせエントリーはこちらです。映画「ダンケルク」の感想みたいなのも書いてますのでよろしければどうぞ。 
http://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/b0c0a5abeb59896fb407a5cc61d08715

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シュタイヤーRSO/01トラクター 1/35 タミヤイタレリ (その1)

2016年11月05日 | AFVの模型
今タミヤイタレリのRSOを作ってます。とはいえ、ほぼ放置状態なんですけど、じわじわと作ってます。

買ったのはいつだったか、、。インストを見ると2003年とありますので、まあ少なくとも10年は経ってますね。同時にロイヤルモデルのディテールアップセットと、カステンのキャタピラも買って、一緒に箱の中に入れてました。合計で約9000円、、。多分今ならドラゴンのキットで十分だと思いますので、まあちょっと高い買い物ですね。まあでも、店晒し減価償却(造語)は終わってますので、まあまあまあ、って感じですね。ちょっと前までは、それなりに頑張ろうとしたら、こんな感じの出費でしたよねえ、、。


キット自体は、そもそもがマックス模型のもので、でもマックスからは未発売で、その後トミーから発売→イタレリブランドになる、という転々としたものだということは、よく知られてますね。

昔のキットなので、シートはキャビンの床と一体でして、その辺の処理からスタートします。シートを切り取って、穴をプラ板とエポパテで埋めて、平面にします。

ロイヤルモデルのレジンのシートに合わせて洋白線でフレームを作ります。足元の箱はロイヤルのエッチング。

こういう作業って、なんか懐かしいですね。今はどのメーカーのキットも出来がよくて、基本的にディテールアップなんてしなくてもいいですからねえ、、。

荷台のモールドは、木目が彫刻されていて、とてもいい感じなんですけど、一部に突き出しピンの痕があって、修正しなければなりません。どうせ手を加えるなら、、ということで木の板で作り直すことにしました。


まずは、キットのパーツの板の部分を切り取ります。


で、薄くスライスした杉の板をそこにはめ込んで、ロイヤルのエッチングを張っていきます。リベットは、ビーディングツールで、釣り用の板鉛を打ち抜いたもの。プラ板を打ちぬいたものに比べて、デザインナイフで突き刺しやすくて、お薦めです。

でも、とてもやわらかくて、爪で凹んでしまうくらいなので、接着後の取り扱いにはちょっと注意が必要です。とはいえ、凹んじゃったらまた付け直したらいいので気楽なものです。

これは荷台全体が大体出来たところ。

木とエッチングパーツをいじってるだけで、なんか「やってるな」という自己満足に浸れます(笑)

カステンのキャタピラも、ピンが片側だけなので、とても組みやすいですね。


キャビン後面の金網は、ディテールアップセットにエッチングパーツがあるのでありがたく置き換えようとしたところ、説明書では「キットのモールドをくりぬいて内側から張りなさい」とあります。そうすると、パーツの厚み(1ミリ以上あります)があるので、かなり窪んでしまい実感に乏しくなります。どうしたものかと、あれこれ考えましたが、結局、めんどくさい方法しか思いつきませんでした。

まず表側を0.3ミリほど掘り込んで、エッチングを張ります。

次に0・3ミリのプラ板の枠を付けます。内側は、プラ板の製品状態のまっすぐなところを選んで、ハサミで細切りにしてます。要するに、ズボラかましてるわけです(笑)


角の丸みはエポパテで再現し、ついでに周囲の凹みも埋めちゃいます。パテの硬化後、板に張ったペーパーでヤスリがけして平面出しします。


なんとかイメージどおりに仕上がったかと思いきや、デザインナイフでエッチングをつついてしまい、ちょっと破いてしまいましたが、まあ見えにくい場所だし、ダメージにも見えるからいいか、と、事なきを得ました(笑)。

確認用に灰色の塗料を吹いてみて、特に問題もなさそうなのでこれでOK、ということで。いやー、こういうのは実にめんどくさいのですが面白いです、ほんと。

写真ではわかりにくいですけど、キャビンの外側は、リューターでちょっと凸凹にしてます。実車写真を見ると、特にダメージがなくても、キャビンは凸凹してますのでその辺の雰囲気を狙ってみました。

なんか、大体出来たように見えますが、車内の工作もまだまだですから、まあほんとこれからですね。実車写真と比べてみますと、車内とかはまあそれなりの再現度みたいですね。とはいえ、手を入れまくるんじゃなくて、できるだけキットの持ち味を残した仕上がりにしたいなあと。徹底的にやりたいなら、ドラゴンのがありますからねえ。そんなんじゃなくて、当時これだけのキットを作ったマックス模型へのリスペクトを込めた作品にできないかな、と思ってます。いや、あの時期にこのキットを開発してたのって、ほんと凄いですよね、、。

それはそれとして、今はほんとこういう工作ってあまりしませんし、模型誌でも見かけなくなりましたね。前述の通り、キットのレベルがほんと高くなったからですよね。いやほんと、ありがたいことです。

とはいえ、私くらいの世代なんかはこういう風にあれこれやってみるのが、なんというか「プラモにはまり始めた頃の原点」みたいな感じがします。実際作業していて、とても楽しいですし、なんか懐かしいです。創刊当初のアーマーモデリングとかって、こういうのがたくさん誌面に載ってて、当時の自分が出来る出来ないは別にして「おおーっ!」とかいいながら見てましたからねえ、、。

まあでも、そんなこといいながら、またちょっと放置しちゃいそうな予感がします(笑) (その2)はまたいつかそのうちそれなりに進んでから、ということで、、。

それでは。

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試製五式四十七粍自走砲・ホルについて(その3・完)

2016年10月09日 | AFVの模型
というわけで、ホルの3回目です。長々と引っ張ってしまいましたが、何卒ご了承ください。とはいえ、引っ張ったとはいっても、そんなに内容があるわけでもないのが辛いところですが、これまた何卒ご了承ください。ホルが実際の戦闘(まあ、ありていにいうと本土決戦のことですね)に参加した場合、どうなるのかな?ということについて、あれこれ考えたことを今回書いてみたいと思います。このイラストは実戦の様子を想像して描いてみました。空薬莢受けとかは、私の完全な想像です。

まず日本本土決戦について、ざっくり説明します。米軍の日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」は二段階からなっており、前段が九州南部に侵攻し、飛行場を確保する「オリンピック作戦」、後段がその飛行場を利用した航空戦力の援護を受けて、関東に侵攻する「コロネット作戦」となってます。両方の地域とも、日本軍も米軍の上陸の可能性がもっとも高い地域として、重点的に防備を重ねていました。本土決戦はいろいろな要素から考えると、沖縄戦並かそれ以上の過酷で熾烈な戦闘になったと考えられます。沖縄戦のように、日本軍側の戦力は限定されていませんし(無尽蔵ではないとはいえ、かなりの備蓄があったと思います)、民間人の戦意も高く(戦争終盤にはかなりの人心荒廃があったといわれてますが、まあそれでも)、そして日本側からすると「後のない」戦闘だったことなどから考えると、恐らく人類史上最悪の戦闘になったことは間違いないでしょう。ほんと、あの段階で戦争が終わってよかったと思います。あのままいっちゃってたら、多分、日本は滅亡してますよねえ、、。

まあなんであれ、戦車戦に限って考えますと、例えば独ソ戦のように、彼我の戦車がガチでぶつかる戦闘が行われることになったかというと、それはほとんどなかったんじゃないかなと思います。もともと日本側の戦車部隊は決して多くはないですし、しかもそのほとんどは九七式・一式中戦車という47ミリ砲装備の車両なので、ガチの戦車戦を避ける戦法を採ったはずです。そして、何とかシャーマンに対峙できる三式中戦車・三式砲戦車の生産数はごくわずかです。終戦が伸びて四式・五式が制式化・量産されていたとしても、その部隊の数は非常に少なかったかと。

ホルも、前回お知らせした神戸製鋼の社史どおりだったとしても50両という生産数では、戦局を挽回するほどの活躍は出来なかったのではないかと。終戦が伸びて生産が続けられたとしても、せいぜい100-200両を超えることはなかったでしょう。

しかしながら、これらの新型戦車・自走砲を装備した部隊は、局地的ながらそれなりの戦果を上げたんじゃないかな、というのが私の推測です。それは外地での戦車部隊の戦いぶりを見れば容易に推察できます。米軍に戦いを挑むのには厳しいとしか言いようがない車両を駆使し、隊員が創意工夫を重ねて、最大限の戦果を上げている例は枚挙に暇がありません。例えば、フィリピンの一式砲戦車の活躍などはその最たるものじゃなかろうかと思います。たった2両であれだけ頑張ってるのって、ほんと凄いと思いますよ、、。もし20両あったらどーなってたんでしょうね、、。

本土決戦では戦車戦が行われなかったかも、という推測の根拠としてはもうひとつあります。それは、日本の地形によるところが大きかったんじゃないかな、と。例えばクルスクのように、ばーっと無限に開かれた平地というのは日本にはありません。関東平野があるといっても、すぐ川とか山で遮られてしまいます。米軍が平地に戦車をばーっと展開させて攻めてきたとしても、関が原じゃあるまいし、日本軍戦車隊が受けて立つわけじゃないですしね。そういう場合は沖縄戦のように、山などに隠した砲陣地からの砲撃で対処するはずです。そもそも、ドイツもソビエトもクルスクを取り合う目的でああいうことをやっているわけですから、もろもろの条件が揃わないと「平原での戦車戦」というのは成り立たないんじゃないかと。

じゃあ、どういう風に日本側の戦車隊が戦ったのかと想像すると、これはもう防御戦闘しかないわけです。要するに、米軍の戦車隊の進路を予測し、こちらにもっとも有利な地形の地域で待ち構えて、攻撃する。戦果が上がれば、可能な限り後退し、次の地点で待ち受ける。これしかないんじゃないかなあ、と。

米軍の進路の予測、といっても実はそんなに難しいことではなかったような気がします。車で国内を走るとよくわかるのですが、隣県に向かう道路の選択肢というのはまあほとんどありません。地域にもよるでしょうが、せいぜい数本の国道があるくらいです。山越えとなると選択肢はもっと狭まります。田舎に行けばいくほど、A地点からB地点に向かう道は、二桁国道一本のみ、ということがよくあります。当時、戦車が走れる道路がどれだけあったかと思うと、攻める米軍戦車隊の選択肢は非常に限られたものじゃなかったのかなあと。

「陸軍機甲部隊」(学研)によりますと、九州南部の防備を担った第57軍がまず何をしたのかというと、それは戦車が進出できる道路網の整備だったそうです。要するに、根拠地から米軍のいる場所まで戦車が向かえる道路を整備しなければ、接敵すらできなかったわけです。逆に言うと、米軍も自分の望む道を走って来れなかったであろうということです。

宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」で、試作機を牛車で運ぶシーンがありましたが、あれは国内に飛行機を運べるトラックがないとかいう話じゃなくて(劇中に自動車はたくさん登場してますしね)、トラックに積んだ飛行機を壊さずに運べる「きちんとした道路がない」ということを表してるんですよね(多分)。要するに道路網というインフラが整っていないのに、世界レベルの戦闘機を作ろうとした歪な状況を描いているわけです。しかし、それでも世界レベルの戦闘機を作っちゃった日本ってスゴイ!のですが、話がそれるのでここまでにしておきます(笑)

というわけで、我田引水の重ね重ねにもほどがある言い訳(笑)はここまでです。要するに、自分たちのホームに引き込んじゃえば、なんとか一回くらいは勝てるんじゃないか、と言いたかった訳です(回りくどいなあ、、)。そこで考えてみたのが、この「必勝法」です。

①私が無理やり引き出した先ほどの結論の通り、米戦車が来られる道は限られてます。大体は、道路は山々の谷間にあって、左右どちらかには川があったりしますよね。待ち伏せするなら「あそこを目指すならここを通るしかない」という地点を探るのが肝要かと。
②ホルは、とにかく道路の左右に陣取ります。47ミリ砲はM4の側面なら比較的遠距離で(砲塔で700メートル・車体で1500メートル)貫通が可能です。「何が何でも、とにかく側面!」が合言葉であります!(悲)砲塔正面でも500メートル以内なら角度がよければ(こればっか)何とかなるかもダゾ!
③車体の小ささを生かして、とにかく頻繁に射撃地点を変更することが肝要です。事前に茂みや家屋など射撃地点を選んでおくことは必須でありましょう。短砲身の三突でソ連戦車7両を喰ったビットマンのように「頻繁に動いてれば敵は包囲されたと思うさ」って感じですかね。
④まず最後尾のM4をやっつけて退路を防ぎます。
⑤次に先頭のM4を仕留めて、残りの連中を動けなくしちゃうわけです。
⑥支援用に、75ミリ砲装備の三式砲か三式中戦車が1両でもあると文句ないのですが、まあこれは望みすぎでありましょう。でもあると嬉しいなっ!イージーエイトなんかでもイチコロっすよ!
⑦川の対岸にも1-2両配置してはさみ撃ちするのが基本でしょうね。小隊で最低3両、4両あるなら文句ないですね。
⑧田んぼには、出来る限り水を張っておいて、走りにくくしておかないといけないでしょうね。M4はキャタピラの幅が狭いので、泥濘地ではさすがにモタモタするでしょう。動きが鈍くなったところをガーンとやっちゃいましょう。
⑨挟まれた車両は、そのまま的になるか、田んぼにはまるか、川に落ち込むかしかないわけです。神州に土足で上がりこむ不逞の輩の運命は決まっているのであります(冗談です)。
⑩川の橋は、ホルはまあ渡れたとしてもM4には無理なものばっかでしょうから、対岸からアッカンベー(死語)してやりましょう。日本では普通にどこにでもある川も川原も、戦車にとってはどうしようもない嫌な地形ですね。こういうのを活用できるかどうかが、勝負の分かれ目といえるでしょう。

というわけで、簡単にシミュレーションしてみましたが、まあ何とかなりそうですね(ほんとか)。なんであれ、ガチの戦闘を避けて、土地勘からくる有利さを最大限引き出して、狭い地域に呼び込んでちょっとづつ潰していくというのがキモでしょうね。

で、山間部の戦闘はこんな感じでなんとかなる(?)のですが、都市部での市街戦はどうでしょうか。まあ、こちらも車体の小ささを生かして、ちょこまか動き回れば勝機はあるんじゃないかなあという気がします。「小さい車体に、それなりに威力のある砲を積んでいる」という長所を最大限生かせればかなりの活躍ができたんじゃないかと思ってるのですが。東京の市街戦でも、こんな感じで活躍したんじゃないかという想像図がこれ。

ばーっと挟み撃ちして、ささーっと路地に逃げ込んだら、M4も手出しできないんじゃないかなあ、、、、ってそんな甘くはないか、、。

とはいえ模型で比較してみると、M4との車格のあまりの違いにちょっとげんなりしてしまいます。

うーん、やっぱちょっとしんどいかな?とは思いますが、一方で砲の性能がいいので、それを加味すれば車体の小ささは逆に有利に働くんじゃないかな、と。例えば一式中戦車だと車体が大きすぎるために砲の性能が割り引かれちゃうような気もするんですよね。

懐に入っちゃえばこっちのもんだ!、、、ってことはないか(笑)でも、この距離なら必殺ですよ。ほんと。

ちなみにM4はタミヤのM4A3をほぼストレートで組んだものです。とてもいいキットですね。「にっくきシャーマン」みたいなことをずっと書いてますけど、シャーマンはシャーマンで好きなんすよね(笑)

でも、M4だからまだなんとかなりそうですけど、スターリンになっちゃうとお手上げです。

もう、ちょっと相手にならないような感じが、、。これがほぼ同時期なんですから、嫌になっちゃいますね。

128ミリ砲の砲身がホルの車体と同じくらいの長さですもんねえ、、。

ここまで迫っても、、無理か、、、。パーシングでも同様だと思います。うーん、悔しい、、。悔しいなっ!でも、五式ならなんとかなるかな?ホリなら圧勝だぞ!(空しい、、)スターリンのキットはドラゴンのものです。これも傑作ですねえ、、。もう一個作りたいです。スターリンは初期型の方が好きですね。

で、パーシングが出てこようがこまいが、北海道にスターリンが上陸してこようがこまいが(さらっと書いたけど、結構あり得るんすよね、、。この辺のシナリオって、考えれば考えるほど怖くなります。ほんと、あのタイミングでの終戦って僥倖に近いと思います)、それ以前に対処しなければいけない案件があります。航空機からの攻撃です。戦車隊がいくら頑張っても、制空権は恐らく100パーセント米軍に取られてしまいますので(残念ですが)、その辺の対処は必須になったんじゃないかと推察します。その辺の苦労はノルマンディーのドイツ軍と同じかそれ以上(対空火器が、、)だったんじゃないかな、と。

で、これまた小さい車体の有利さが働きます。カモフラージュがしやすいんですね。樹木によるカモフラージュとかを考えてて、ふと思いついたのがこの偽装ユニット。どーですか!(といわれても困るか、、)

杉などの軽い材木を使えば、重量もそれほどでもないと思いますし、何より雨がよけられるという実用的な長所があります(笑)

こちらが、簡易な藁タイプ。どーで(略)


どちらも案外、上空からはわかりにくいんじゃないかなあと。街道に寄せてじっとしてればわかりませんよね。多分。

なんであれ、それぞれ手近な材料で効果的なカモフラージュが出来るのがいいんじゃないかなと思うんですけどね。こういう風なものを作ったかどうかは別にして、本土決戦になると現場では知恵を絞って本当にあれこれ工夫したんじゃないかなと思います。


で、模型にしたらどんな風に見えるのかなあと思ったので、実際に作ってみました(笑)

いや、ほんと案外いけそうじゃありません?


材料は薄い杉の板です。至近弾一発で吹っ飛んでしまいそうですけど、戦闘までのカモフラージュの目的は十分に果たしてくれそうです。


きちんと作れば、日本の風景にしっかり溶け込んでくれそうですねえ、、。このジオラマはホビージャパンの五式中戦車の作例(このエントリーの「その1」で説明してます)で製作したものです。


ちょっと情けなく見えないこともないですが(笑)、あったらあったでなんか安心しそうな気もします。「我が家」って感じですねえ(笑)。隊員の中に大工さんとかがいたら、一日で一台分くらいは軽く作れるんじゃないかと。


思いつきで作ったのですが、結構気に入ってしまいました。でも、説明もなくジオラマに登場させても「ハアッ?」って感じでしょうね。どこかで何かに使えないかなあと思ってるんですけど、突飛すぎて難しいですね(笑)

というわけで、長々となりましたがこれにてお終いです。ホルの模型を作りながらあれこれ考えたり気が付いたりしたことのほとんど全てを、自分なりに何らかの形でまとめておきたかったというのが、この一連のエントリーを書いた大きな動機です。

今後、ホルについて興味を持ってくれたり、知りたいという人がこのブログを見て、少しでも何かの役に立ってくれればそれに勝る喜びはありません。推測憶測妄想の塊のような内容でしたが、その辺は差っぴいて参考にしていただければと思います。差っぴくとゼロかマイナスになっちゃうかもしれませんけど(笑)

なんであれ、ホルは謎の多い車両ですので、今後どなたかの手によって調査が進展したり、新たな資料が発見発掘されたりすることを願っています。繰り返しになりますが、これらのエントリーの内容の多くは、基本的に私の個人的な妄想や考察を元にしていますので、その辺はご配慮いただければ幸いです。もちろん、妄想だけではなくて、事実のことも書いています(この辺がややこしくて申し訳ないのですが、、)。例えば、神戸製鋼の記述については本当のことです。

というわけで、当分はこれまでのように適当な近況報告のエントリーになると思いますので、これまたあらかじめご了承ください。こんな内容でも、それなりに大変でしたので、ちょっと疲れました(笑)

それでは。




※この車両を使ったジオラマは月刊アーマーモデリング2015年4月号にて紹介されています。興味のある方はぜひ誌面をご覧ください。

参考までに、掲載時のお知らせのエントリーはこちらです。http://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/0a2c497d62f7526393c4bee1bfb09f3a

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試製五式四十七粍自走砲・ホルについて(その2)

2016年08月27日 | AFVの模型
というわけで、第2回目です。今回もかなり長いので、あらかじめご了承ください。

まず、凄い情報を入手しました。ホルは、神戸製鋼所で50両ほど生産されたという記述が神戸製鋼の社史にありました。
前回のブログを書いた後に、ホルの製作にあたってお世話になった大阪の辻本氏に「よかったら見てください」とメールしました。お返事とともに「神戸製鋼の社史に、ホルが生産されたという記述がある」との情報をくださいました。そういえば、以前酒席でも聞いたような、、。しかしながら社名を失念していたのでそれきりになっていたのでした(すいません)。地元の県立図書館のDBに当たってみると、「神鋼五十年史」(昭和29年)が所蔵されてたので、早速借りてきました。すると、確かにそのものズバリの記述が!(P131)

いやー、これは凄い。終戦からわずか9年後に、生産した企業が、社史で「ホル」とはっきり書いてますから、ほぼ間違いないでしょうね。神戸製鋼は九五式を生産してますしね。この数行だけで断定するのは早計ではありますが、「試作で終了した」という定説を揺るがすには十分な資料でしょう。辻本氏はじめ、日本戦車に詳しい方々の間では以前から知られていたんでしょうけど、いや、びっくりしました。

50両というのは試作の域を超えてますから、制式化された、ということでしょうか?もしくは制式化前に、生産するということもありうるんでしょうか? ひょっとすると、同社に写真なり図面なりが残されている可能性もありますね。

で、「日本の戦車」(共同出版社)では「相模造兵廠で完成」とあり、「日本の大砲」(同)では「戦車砲は大阪造兵廠で完成、四技研で研究中の車台に取り付けられた(要約)」とあります。どれもがまちまちで、一致しません。これはこれで謎ですねえ、、。なんであれ、貴重な情報を教えてくださった、辻本氏には改めて御礼申し上げます。

また、社史ではキャタピラについても言及してますね。「改良した」とだけ書かれてますが、少なくともオリジナルのままではなかった、ということでしょう。

<2017年4月18日追記>

先日、日本軍戦車のみならず日本軍兵器のオーソリティーであり、日本軍戦車モデラーの救世主といってもよいある方(これだけ書いたらわかるでしょ!)と下関でお会いしました。このエントリーを読んでくださったようで(ありがとうございます)、ホルの話などをさせていただきました。で、その方によりますと、「この神戸製鋼の社史の記述はそのまま鵜呑みにはできない。製造されたとしてもせいぜい数両が試作された程度で、50両の量産はなかったのではないか」とのことでした。お話の要点は以下の通り。

1・社史を編纂する人たちは、各部局の記録情報を元に書いているわけで、どこでどうその情報が変わってしまうかわからない。社史を編纂する人は製造部門の専門家ではないので、社史イコール史実と考えるのは早計。しかも、同社の歴史の中で、ホルは無数の製品の中の一つなのでなおさら。社史の記述は調査のとっかかりとなる資料の一つであって、そこから具体的な証拠を調べていく必要がある。

2・もし50両も生産されたのなら、写真・現物・部品など必ず何らかの形で残っているはず。当時残っていたのなら米軍へ引き渡されたはず。その記録もない。

3・神戸製鋼への生産の指示や、材料の調達などはされたかもしれない。もし完成していたとしても数両程度だったのでは。

とのことでした。確かに、1-2両のみ作られた四式・五式中戦車も写真をはじめ、少ないながらも存在を決定付ける資料が残されてます。もし50両も作られたのなら、一切なにも残っていないというのは不自然といえます。終戦時に廃棄されたという可能性もないことはないのですが、飛行機を含め他の最新兵器の多くがほとんどそのまま米軍に引き渡されていることを考えると、まあありえないでしょうね。従来の兵器を組み合わせた、それほど目新しいとは思えない自走砲だけを、証拠も残らないほど完全に廃棄する理由も見当たりませんしね、、。

というわけで、この社史の記述は記述として非常に興味深く貴重なものではあるのですが、あくまで資料は資料であって証拠ではない、ということですね。社史の記述を見て舞い上がってしまい、先走ったことを書いてしまいました。心よりお詫び申し上げます。

というわけで、本当のところは実際どうだったのか、ということは依然不明なままです。今後、新資料が発掘・発見されることを願っています。

<以上追記でした>

この社史は、ほんと興味深い記述があちこちにあって、面白いです。こういうのもありました。

これって、つまり「自社の工場が空襲されそうなので、自分たちで高射砲をぱぱっと作って、B29を墜としちゃった(撃ったのは軍なんでしょうけど)」ってことですよね、、。凄いなあ、、。「戦前戦中の日本の工業水準は劣っていて云々」という記述はよくみますし、私もしがちです。が、私はじめ門外漢の「劣っている」という認識は、当時の実情とはかけ離れているのかもという気がしますね。いくら、他の工廠で作られていた砲とはいえ、生産ラインになかったものをさっと作れちゃうってのは凄いですよ。こういうのを読むと、この車両専用のキャタピラを作るくらいは朝飯前だったのかもしれませんね、、、。ちなみに、この九九式というのは、ドイツの88ミリ砲のライセンス版だそうです。いわゆるハチハチじゃなくて、海軍用の古いものですが、高射砲としての性能は十分だったみたいです。なんせB29を撃墜してるんですもんね、、。



というわけで、本題です。まずは主砲の47ミリ砲関連から。これは、搭載された47ミリ砲の略図です。

1・砲の防盾 2・、、は書き忘れました(笑)欠番です。3・砲の発射用の引き金と握り。ピストルの要領ですね。 4・肩当て。ここに右肩を当てて、砲を上下左右に動かして操作します。5・顔用のパッド。ここに顔の右側が当たります 6・照準器 7・砲尾。ここから弾を込めます 8・この箱の中に駐退器が入ってます。(各部の呼称は適当です。これ以降も、日本軍の正式な呼び名だったり、そうでなかったりします。ご了承ください)

近代的な野砲や対戦車砲の砲身は、砲架に付いています。砲架は砲身の軸である砲耳を挟むようになっていて、砲架に付いたハンドルを回して砲身を上下に動かし、左右方向は砲架を回転させるハンドルを回して動かします。戦車砲は、金具で防盾に砲耳をつけ、防盾を砲塔に固定します。左右方向の照準は、砲塔を回転させて行います。生産国や形式などでいろんな差異はあるのですが、これらが砲身を動かす一般的な構造です。しかし、かなり乱暴なまとめ方なので、参考程度にしておいてください。例えば、砲身が後退する砲は、砲耳は後座用のレールについたりしますが、省いてます。戦車砲なら砲耳が別のところ(防盾とか)に着いている場合もあるなど、細かいことを言うと多種多様なので、、。

日本軍の37ミリや47ミリ砲は上記のような方式ではなく、「ジンバル式」(この名称で呼ばれてたどうかもよくわかりません、、)という方式を採っていました。4の肩当てで砲を上下左右に動かして、照準します。防盾が2重構造になっており、大砲の中心軸である「砲耳」が縦と横についてますので、それができるわけです。図の「A」が上下用の軸で、外の防盾に付いてます。内防盾が外防盾の中に入り、「B´」のネジが「B」の穴に入って、左右用の軸となるわけです。砲塔式の戦車の場合は砲塔も旋回しますので、左右に関しては二重に動かす方法があったわけです。

このジンバル式だと、かなり素早い照準が可能だったと思います。肩でぐりぐり動かすだけでいいので、ハンドルを回す必要がなく、特に左右方向は少しの距離なら砲塔を回す手間が省けるわけですから。また、砲架が不要なので全体の重量も軽くなり、生産も楽でしょう。一方で、砲身が安定しないので、ちょっとしたショック(砲爆撃など)で照準がずれやすいでしょうし、強度的にも、砲架式より華奢な感じがします。まあ結局、「どっちもどっち」なんでしょうね。ジンバル式と砲架式のどちらを採用するかは、それぞれの軍のニーズによるんでしょう。日本軍は、ジンバル式が気に入ったようで、一貫してこの方式を採ってました。

とはいえ、日本軍のジンバル式は47ミリ砲までとなってます。75ミリ砲を搭載した一式砲戦車や三式中戦車では、欧米のような砲架式となりました。まあ、このクラスになると砲がかなりでかくなるので肩で動かすのは無理でしょうし、構造・強度的に75ミリ砲弾の反動を受けるのは難しいんじゃないかと。しかし、今回資料を見直してて気付いたのですが、九九式七糎半戦車砲Ⅱ型(Ⅰ型は二式砲戦車に搭載されたもの。Ⅱ型は試製軽戦車ケセを利用した駆逐戦車のために作られたようです。試作で終了してます)にまで、この方式を取り入れようとしてます。操作はさすがにハンドル式になったようですが、強度的に大丈夫だったんですかね、、。

ちょっと話がずれましたが、長々と47ミリ砲の説明をしたのには、わけがあります。以下順を追って説明していきます。

砲を車体に固定する基部は、製作当初は九七式や一式中戦車のような、それ自体が装甲されている形状で製作していました。箱状の、ごつい感じのやつです。

「日本の大砲」の図面でもそういう風にみえますし、書籍やネット上で見られる完成想像図や、これまでに発売された各ガレージキットなどもそうなってましたので、私もそれにならったわけです。九七・一式のイメージもありますので、いかにもそれらしい感じがします。この状態で、完成に持っていこうと考えていました。

ところがこの件は完成の目処が付いた直後に一転します。上の写真まで進んだ頃、辻本氏と再会しました。ホルについて話をすると「新しい発見があった」とのこと。ドキドキしながら聞いてみると「砲基部の形状はこれまでの「定説」と全然違っているかもしれない」ということでした。

氏の説明を以下箇条書きにします。
①「日本の戦車」のホルの簡易図面の正面図からして、防盾周りが九七・一式のものとは似ていない。どうも、砲耳を簡単に固定しているだけのように見える。

②同じく「日本の戦車」の四式十二糎自走砲・ホトの図面を見ると、砲耳の固定方法がホルのそれと非常に似通っているように見える。

③ホトは写真が残されており、それを見ると砲耳は簡単な金具で固定されているように見える。

④よって、ホルもホトと同様な固定方法だった可能性が非常に高い。

というものでした。

ホトの写真は「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」(光人NF文庫)に載っています。これがその写真の模写です。

不鮮明な写真なので、わかるようなわからないような、火星の人面岩を眺めるような気持ちになります。しかし、ずっと見ていると、確かに砲耳は簡単な金具で固定されているように見えます。

さらに、よく考えてみますと、確かにそうかもしれないと思いました。360度回転する砲塔式の戦車なら、どこにどう弾が当たるかわかりませんから、下図の「甲」のように防盾周囲の装甲を厚くする意味はあります。しかし、こういう自走砲の場合、前面はともかく側面の装甲厚はかなり薄かったはずです。なのに、防盾周囲だけ分厚くしても無意味なんですね。正面図やホトの写真から想像した、ホルの砲基部が「乙」です。

要するに「乙」は外防盾がそのまま装甲になっちゃってるわけです。図面では前面装甲板との隙間も結構あるような感じです。なので、雨水が車内に入ってくる可能性もありますので、少なくとも上面くらいはキャンバスなどの覆いが必要かもしれません。それにしても「甲」と比べると、かなりお粗末な印象です。しかし、ほんとにこんな感じだったのかもなあ、、、という説得力があるような気がします。

この時期はジオラマの製作も佳境に入る頃で、すでに締め切りへのカウントダウンは始まっており、ほぼ目処が付いている車両の作業を後戻りさせるかどうかについては、かなり悩みました。「このままでいっちゃってもいいんじゃないかなあ。車両はあくまでジオラマを構成する大道具の一つなんだしなあ、、、」と。しかし一方で「自分の大好きな車両が、しかもこういうマイナーな試作車が、自分の作品として模型雑誌に掲載されるという機会は今後はまずないだろう。だからこれまで得られた知識や情報を全て盛り込んでおかないと、後々後悔するんじゃないか?」とも。悩みましたが、ズバッと修正することにしました。

これが修正後です。

悩んだ、といってもまあ小さいものですから実作業でいえば大したことではありませんし、時間のロスもそれほどではなかったです。なので、修正してよかったなあと今でも思ってます。「悩んだときは、やっとけ」というのは至言ですね。この写真を見ても、上部に前面装甲との隙間ができてしまうことがよくわかります。

大砲について、あともう一つ。この砲は、左右で計20度振ることができます。20度は結構大きな角度で、500メートル先ですと約176メートルの間が射界となります。M4シャーマンだと約29台分です(図の小さい点)。車体を動かさずに、これだけの射界があるのはいいですね。これ以上の範囲は、車体を左右にずらすしかないわけです。この辺は全部、ドイツの突撃砲と同じですね。

で、この左右の20度で重要になるのが、砲の中心軸(図では黒い丸)がどこにあるのか、という点です。先に書いたとおり、砲手は砲の左側に位置します。なので、砲の軸はできるだけ車体の中心「S」にあるのが理想です。もし少しでも左に寄ってしまうと、「A」の空間が狭まるので砲手のスペースがなくなり、砲を右に振れる角度が実際の能力よりも小さくなってしまいます。
前回チラッと書きましたが、正面図が手に入る前、私が砲を中心に据えていたのはそういう理由です。
でも、図面では恐ろしいことに左側にオフセットされていました。大体図面どおりに作って、砲を右に振ると、砲手の体が入らなくなるんですね。この写真だと、能力の半分の約5度くらいですが、すでにギリギリなのがわかっていただけるかと。でもまあ、素人の私でも気付くことですから、走行装置に干渉してしまうなど、何らかの理由があったんでしょう。操縦手のスペースもギリギリっぽいですからね。


というわけで、砲を右いっぱいに振るとこのイラストみたいになっちゃいます。兵隊さんは、大変です。そもそも、砲手の顔のすぐ横で大砲が発射される(される、というか自分で引き金を引くんですけど)わけですから、かなりの音と衝撃だと思います。耳栓をしてなければ鼓膜が破けちゃうかも。ほんと、大変です。砲手って耳栓をしてたんでしょうかね。その辺もよくわからないです。

話を戻しますと、この右側方向の射角が少なくなる点は「設計上仕方がない」ということで飲み込まれてしまったんでしょうか?その辺も知りたいところです。
続いて、イラストの車内の説明をします。イラストのほとんどは妄想による推定ですので、ご注意ください。
①砲手 いや、ほんとご苦労様であります。
②操縦手。通信手も兼ねます。こちらもかなり狭いところで、正確な操作をしなければならないので大変です。
③車長。装填手も兼ねます。車長も砲の向きにあわせて体をずらす必要があります。逃げそびれると薬莢が飛んできます。下手すると、体が後退する砲尾に当たり、ただではすみません。で、戦車隊の将校だった司馬遼太郎氏の話では、戦車隊は日本軍御用達の私的制裁(ビンタとかの兵隊いじめ)はなかったそうです。機械を扱う部隊なので、とにかく非合理なことを排除しないと成り立たなかったんでしょうね。精神論では戦車は動きませんものね。また、一両の戦車に上官部下が乗って運命を共にするので、連帯感もかなり強かったようです。部下をイジメてる暇があるなら、錬度を上げないと負ける(死ぬ)確立がどんどん高くなるわけですからねえ。また、全員が機械の専門家でなければならないので、隊員の教育レベルも高かったでしょうからなおさらでしょう。なので、このイラストのようなことをいう上官はいなかったかと。じゃあ書くなよ、という話ですが、つい(笑)
④近接防御用の一〇〇式機関短銃。壁面に弾倉嚢を掛けてます。一〇〇式の隣は砲身清掃用のブラシ(分解式)。三式砲戦車には3丁の一〇〇式が積まれていたようなので、ホルなら1丁くらいかな、と。三式砲の内部については、アーマーモデリングで紹介されてましたので、それを大いに参考にしました。
⑤装甲は正面50ミリ、正面の斜め部分が30ミリ、側面が15ミリ程度と推定しました。50ミリはおごりすぎかな、と思いましたが、まあ模型の世界くらいはいいかな?と。私の希望的推測値です(笑)。50ミリでも全然足りませんけどね、、。ほんとは正面25ミリくらいだったんじゃないかなあと。
⑥薬莢受けは、前回書いたように、スライド式の後部板を描いてみました。稜線射撃時以外は、ここを上にずらして薬莢を受けます。
⑦砲弾ケースについては、かなり悩みました。どうやっても数が積めないんですね。あれこれ考えて、側面の角度に合わせて、斜めに入れれば何とか左右で30発くらいは積めるかなあ、とそういう形状をひねり出しました。3列だとかなり狭くなるんですが、2列だとまだちょっとましかも。なんであれ、側面の装甲は薄いはずなので、それなら割り切って垂直にしたほうが車内がかなり広くなるんですけどね。なので側面図だけで製作し始めたときは、かなりゆるい角度で作ったんですが、、。砲弾ケースは、足元に一列のものを配置するなどして、私の妄想作なら65発くらいは積めます。実際の九五式も、こまごまと弾薬ケースを付けてて、感心するほどなので、あれこれ入れ込んだんじゃないかなと。でもまあ、65発でも少ないくらいですけど。辻本氏は、牽引式の弾薬車があったのでは、と推測されてます。それも、十分ありえますね。
⑧エンジン吸気用のダクト。これは九五式と同じです。結構大きな口が開いてます。旧軍戦車にベンチレーターがないのは、これがそれを兼ねてたからなんですかね?その辺もよくわかりません。ホルの場合は、オープントップなので、発砲煙に関する心配(有毒ガスです)はなかったでしょうね。
⑨走行装置も、九五式と同じです。操縦手の左はシフトレバーです。右が右側の走向ハンドル。
⑩手前が無線機。奥が走行関係の計器類の一部。計器板はひざの上にもあります。無線関係は、ほんと資料も知識も無いので困りました。ヘッドホンの詳細もよくわかりません。無線機ともどもネット上などで、写真を集めて製作しました。無線機を積んでるのなら、車外にアンテナがないとダメなんですけど、搭載方法もこれまたわからないので製作ではオミットしてます。日本戦車の通信関係のまとまった資料がほしいんですけどね、、。
⑪機関短銃用の銃眼。「日本の火砲」の図面に三式砲と同形式のものが書かれてたので付けました。ただ、車内が狭いのでちゃんと撃てたかどうか、、。妄想をさらに膨らませると、全長が短い試製二型機関短銃の車載型が搭載されたかもしれませんね。

内部の工作途中写真です。砲弾ケースの蓋は、1枚だとこのように車外にはみ出てしまいます。今から考えると、1列ずつそれぞれについてるほうがそれっぽいかもしれませんね。無線機の上にある雑嚢には手榴弾が入ってる、という設定。


反対側がこちら。砲手の足元にあるのが砲弾ケース。ここで30発です。九五式はこの場所に車載重機用の弾倉ケースがあります。砲手シートの後ろにある箱が、一列5発入りのもの。一〇〇式の奥にあるのが砲身清掃用のブラシ。三式砲も一〇〇式、ブラシともども大体この位置にあります。一〇〇式の弾倉嚢は、この後で銃口の上側の壁面に付けました。改めて見ると、この辺はもうちょっと何か積めそうですね、、。水筒とか糧食を置いてもよかったかも。

というわけで、それなりに作りこんではいるのですが、例によって完成するとほとんど見えなくなっちゃいました。ははは。

次は、車体外部についてです。今回はこれで最後なので、もう少しだけお付き合いください(笑)。こちらも、全部妄想と推測なので、ご注意ください。

①オープントップなので、雨よけのキャンバスがあったんじゃないかと思います。シート状のものじゃなくて、車体に固定して、巻き上げるタイプにしました。
②車長用のペリスコープも必要と思ったので付けました。オープントップですが、戦闘中に頭を出すのは危険ですからね。ドイツのマーダーⅡなんかは、顔をひょっと出したらすぐ外が見えそうなのに、わざわざ側面にペリスコープをつけてますから、こういうのは割と切実に必要なんでしょうね。ライフルしか持っていない敵歩兵からすると、装甲車両から顔を出してくれるのは、ほんとチャンスですものね。宮崎駿氏の漫画「泥まみれの虎」でも、カリウスがひょっと顔を出す一瞬のチャンスを、ソ連の狙撃兵が待ち受けている描写がありましたが、まあそういうことなんでしょう。ペリスコープは九七式中戦車などのキューポラハッチに付いてるのと同型です。
③砲手も、照準器以外にも外を見られるほうがいいので、ペリスコープを付けました。三式中戦車の砲塔にあるような、取り外し式にしました。外を見られる人間は、多ければ多いほどいいはずですので。
④防盾と前面装甲板の隙間をふさぐキャンバス。普通に考えると、つけるならイージーエイトみたいに全周を覆うようにすると思うのですが、そうするとせっかくの砲基部が見えなくなっちゃうので(笑)上部だけにしました。
⑤ライトは九五式と同じです。戦闘時はくるっと後ろに向けられるようになってます。この方式だと、カバーが要りません。かしこいですね。これも辻本氏に教えてもらいました。多分、車内にレバーとかがあって、車内から向きを変えられるんじゃないかな、と思うんですけど、どうなんでしょうね。作例では、一個は割れてしまったようにしたので、正面を向けたままにしています。
⑥車両の角度を確認するためのバーです。赤白の目盛りが塗装されてます。操縦手はこの目盛りと、外の風景を比較して、車体の向きの角度の目安にします。三式砲にこれがついていたそうなので、それにならいました。模型の目盛りは、もっと細かいです(イラストは適当に塗ってしまった)。これがあると、車長の指示通りに微妙な方向操作ができるんじゃないかな、と思います。
⑦天井が広くて間延びしたので、猫を描きました。猫は、真夏でも暑いトタンの屋根で寝てますね。平気なんでしょうかね。
⑧前回と女の子のキャラを変えてみました。変わってないって?服と髪形が違うじゃないですか!! ちなみに、わかりにくいですけどラング兄さんのポーズのつもり(笑)

というわけで、おしまいです。メチャクチャ長くなってしまいましたね。ここまで読んでくださった方(いるのかなあ、、)ほんとにありがとうございました!

次回は、実戦編です。「ホル、もし戦わば」です(笑)

でも、いろいろあってどうも2週間では準備できそうにない感じです。なので、次回は別の話題をはさみます。すいません。というわけでこの続きは約1ヵ月後になります。って、残念がる人はいないですね(笑)

それでは。

※この車両を使ったジオラマは月刊アーマーモデリング2015年4月号にて紹介されています。興味のある方はぜひ誌面をご覧ください。

参考までに、掲載時のお知らせのエントリーはこちらです。http://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/0a2c497d62f7526393c4bee1bfb09f3a

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試製五式四十七粍自走砲・ホルについて(その1)

2016年08月12日 | AFVの模型
今回は、日本陸軍の「試製五式四十七粍自走砲・ホル」について書きたいと思います。

この車両は、九五式軽戦車の車台に、47ミリ戦車砲を搭載した対戦車自走砲です。五式の名称の通り、戦争の末期に試作されました。私はずっと以前からこの車両のことがとても気になってまして、数年前、1/35スケールの九五式軽戦車のキット(ファインモールド製)をベースに製作をスタートしました。完成したのがこれです。

いくつかの幸運が重なって、この車両を登場させたジオラマが月刊アーマーモデリング2015年4月号に紹介されました。誌面ではジオラマの紹介が中心でしたので、今回、車両についていくつか書いてみたいと思います。製作中、調べたことや、形にすることで初めて気づいたことなど、あれこれ書いてみたいことがあったもので、、。

この車両は、試作されたこと自体はわりとよく知られているのですが、残念ながら写真も正式な図面も残っていません(どこかに秘蔵・死蔵されている可能性もあるかもしれないのですが、、、)。「日本の大砲」(共同出版社・1986)という本に、車両の簡単な説明とともに、側面図が掲載されています。地元の図書館でたまたまこれを見たのが製作を決心するきっかけとなりました。よく見ると、「Y・TOMIOKA」とサインがありますので、あの富岡氏の手によるもののようです。何故この本に、富岡氏のこの車両の図面が載っているのか、いまだによくわかりません。他の自走砲の図面がたくさん載ってるならともかく、この車両だけポンと唐突に載っているんですね。他の雑誌からの転載なんでしょうかね?この図面が描かれた経緯を知りたいものです、、。

なんであれ、この図面があれば、なんとか形にはできますので、取り掛かりました。プラ板を図面にならって切り出して、箱型にします。側面図しかありませんので、側面の装甲板の角度はあてずっぽうでした。

これが大体できたところ。47ミリ砲はファインモールドの一式中戦車のもの。いま調べたら、この時点で2012年10月ごろです。ジオラマを含めた全体が完成するのは2014年の夏ごろです。うーん、我ながら気が長いというか、何というか、、。

実は、こういった車両の改造はこれが始めてで、試行錯誤しながらの製作となりました。それでもまあ、割とすぐにそれっぽい形になったので満足でした。「後は、ディテールをちまちまつければすぐできるだろう。ディテールったって、幻の車両なんだからテキトーにやりゃいいか」と、のほほんとしてたのでした。それが大間違いで、修正を繰り返すことになるとは、この当時の私には知る由もなかったのでありました。

その後、中四国AFVの会の会場で、大阪の辻本氏と知り合いになりました。ご存知の方も多いかと思いますが、辻本氏は日本軍の試作車両などを次々とスクラッチする方で、当然ホルのことも詳しくご存知でした。これ幸いと、あれこれ質問していると「日本の戦車(新版)」(共同出版社・1978年)に簡易図面が載っていることを教えてもらいました。後日、写しを送ってもらいました。左が「日本の大砲」右が「日本の戦車」のもの。どうも、富岡氏もこの簡易図面を参考にされたような感じもします、、。結局のところ、この簡易図面が「源泉」みたいですね。

その図面には、正面図が載ってました。製作中の私のと比較すると、正面から見た側面装甲版の角度が全然違ってることが判明しました。製作当初、角度についてはあれこれ悩みました。検討してみると、あまり角度を付けると車内がかなり狭くなりますので「まあ垂直ではなくとも、それなりの角度だろう」と判断してそうしたのですが(理由はまた書きます)大間違いでした。
辻本氏によりますと、この簡易図面は実車を見ながら描いたスケッチの可能性があるそうです。なんであれ、現時点では唯一無二の一級の資料と考えてよさそうです。なので、できるだけこれに沿ったものを製作するのがより「正解」に近いわけです。さらに、砲は車両の中心にあると考え、そうしていたのですが(これまた理由はまた書きます)、正面図では向かって右側にオフセットされています。これまた修正する必要がありました。

※8月13日追記 当初は、「簡易図面は正式図面を写したものらしい」と書いていましたが、辻本氏から連絡があり、これは私の記憶違いによる間違いでした。正しくは「簡易図面は実車を見ながらのスケッチの可能性がある」ということらしいです。大変失礼しました。本文はその旨訂正しました。

というわけで、やり直しです。っていうか、作り直しであります。ははは。

そんなこんなで、完成までかなり時間が掛かってしまったのでした。完成寸前の姿は、アーマーモデリングに掲載されてますので、ご参照ください。

さて、図面を見るだけでは気付きにくいことが、立体にすることによって、よくわかることも多々ありました。こういうのは模型の醍醐味ですね。以前ちらっと描きましたが、まずは車体側面の形状についてです。側面形は、砲基部から、天井に傾斜が着いており、山形になってます。戦車や自走砲の形状としては、ちょっと不自然なものです。天井は地面と平行になっているのが普通です。図面を見ていたときは「なんでかな?」と思ってたのですが、立体にすると一発でその理由がわかりました。稜線射撃時、車両が上向きになった際、正面投影面積を少しでも減らすためなんですね。ドイツのヤークトパンターの天井も、ちょっと斜めになってますが、恐らく同様の理由ではないでしょうか。

戦車や自走砲は車体が大きければ大きいほど、弾薬や燃料を多く積めるので、それに越したことはないのですが、それに比例して敵に見つかる可能性が高くなっていきます。装甲も厚ければ厚いほどいいのですが、車体の大きさともども、重くなればなるほどエンジンの出力に見合った機動性能がどんどん失われていきます。これらの矛盾する各点の落とし所を探るのが設計者の腕の見せ所であり、かつ戦闘車両の設計の難しいところなのだと思います。

そういう意味では、このホルはとてもよく設計されている、優れた車両だと思いました。「長年運用された信頼性のある車体」と「威力と軽さのバランスのとれた優秀な砲」を、「設計の巧みさによって両要素の長所を最大限に引き出した自走砲」なのかも、と。側面から見ると、非常にコンパクトにまとまってることがよくわかります。稜線射撃のために、側面形が山形になっていることも一目瞭然かと。

車体は九五式のものなので、生産や整備、運用についての不安要素はありません。47ミリ砲も、九七・一式中戦車に使用されているので、砲弾の生産や部隊間の融通においても問題はないでしょう。乗員の教育も、組み合わせによってはほとんどなしで済ませられるはずです。47ミリ砲の威力についても、このクラスとしては欧米の砲に比しても遜色はありません。沖縄で同格の一式機動砲がM4シャーマンをぽこぽこやっつけたことから想像するに、車両の長所を把握した上できっちり運用すれば勝機は十分にあります!!それなりの数が量産され、本土決戦が行われた場合、米戦車隊にかなりの損害を与えることになったのは間違いないでありましょう!!!ハアハア、、(落ち着け)

前面からみても、その設計の巧みさがよくわかります。スタンバった状態でも必要最小限の露出で済ませられます。天井が車体最高部で地面と平行だった場合、必要以上に正面投影面積が大きくなることがおわかりになるのでは。
ただ唯一、疑問なのがキャタピラです。「日本の戦車」「日本の大砲」ともども、キャタピラの幅を広げて起動輪を「内部嵌合式」にした、専用のものが用いられたと解説されています。円盤状になっている起動輪は、そのためのものと推察されます。この車両は、砲塔式の戦車と違い、砲の向きを変える場合は車体を左右に移動させる必要があるのですが(車体を移動させなくても、砲は左右計20度動かせますが、360度の砲塔式に比べるとかなり限定されたものです。この辺はドイツの突撃砲と同じですね)、九五式のキャタピラは幅が狭いので、少しづつであろうとも超信地旋回を繰り返すと最悪キャタピラが外れるないしは切れる可能性があります。なので、足回りに何らかの改良を施す必要はあったかと思います。例えば、イタリア軍のセモベンテは、ドイツ軍に接収された後、起動輪にキャタピラ脱落防止用の爪が追加されてます。イタリア人がのほほんと使ってるときは問題なかったんでしょうけど、ドイツ人が突撃砲的な使い方をしようとしたとたん、キャタピラがバンバン外れちゃったんでしょうね、、。

閑話休題。なにはともあれ、試作はともかく量産になった場合、この単一車種のために新規にキャタピラを生産することになったかというと、ちょっと疑問です。生産できたとしても、時期的に量産状況は芳しくないでしょうし(他の車種のキャタピラも量産することを考えると、なおさら)、さらに配備部隊にスペアを補給することを考えると現実的ではないように思います(本土決戦時に、かなりニッチな部品が必要とされる車両がどこにどれくらい配備されてて、さらにその整備部隊がどこにいるかなんて、どこの誰が把握できるでしょう?さらに、この部隊は「自走」砲部隊です。戦場をあちこち移動しています。で、なんとか部隊の位置がわかったとしても、その部隊のために補給の便宜を図る、というのも非現実的です)。というわけで95式のままにしようかな?とも思いましたが、図面の特徴的な丸い起動輪にしたかったこともあり、「新規量産は難しく廃案となり、代替案として九七式のキャタピラを流用することになった」という無理くりの設定をひねり出し、そうしてみました。九五式オリジナルのキャタピラは、正面から見るとなぜか車体に密着せず、ちょっと外側の位置に付いてますので、九七式の幅の広いキャタピラもなんとか収まるような感じでした。

で、アーマー誌のジオラマに配置した状態で撮ってみました。前述の設計の巧みさと、車体がとても小さいこともあいまって、こういう風に廃屋内で待ち伏せした場合、発砲される前に発見することはほぼ不可能でしょうね。雑木林などに隠れている場合も同様かと思います。

見えないところからいきなり撃ってきて、撃つだけ撃ったあとはささっと後退して、廃村の建物や雑木林の向こうに逃げられたらどうしようもありません。M4にとっては、かなーり嫌な相手になったんじゃないかなあと。

次の話題です。「日本の戦車」では、この車両は戦闘室後部上面が開放されているとなってます。要するに、一部がオープントップとなってるわけです。根拠は不明ですが完全に閉鎖されているという説もあるらしく、これまでに発売されたガレージキットの中には、閉鎖式で製作されているものもあるようです(メーカー名などは失念しました。そういうメーカーさんの製品が複数あるのか単一なのかもわかりません。あやふやですいません、、)。で、製作してみると、やっぱり「開放されている」んだろうなあと私は思いました。

稜線射撃の状態にして砲を水平にすると、砲尾が開放された部分とぴったり合うんですね。これで発砲すると、薬莢は恐らく綺麗に外に飛び出していくんじゃないかと。車内はとても狭いので、10発も撃てば空薬莢で足の踏み場もなくなってしまいます。九七・一式中戦車には袋状の空薬莢受けが付いているのですが、これは密閉式砲塔なので外に排出できないためであり、かつ、床にそのままばら撒くとごろごろ転がるので乗員にとって危険になるためです。この作品では空薬莢受けを再現しましたが、考えれば考えるほど、発砲時は自動的に外に排出させるのが「正しい方法」だったんじゃないかなあという気がします。もちろん、薬莢はそのまま使い捨てるものではないので(きちんと回収して再利用するのが基本)、機関室上部には紛失防止用の柵のようなものが付けられたんじゃないかと思います。しかし、砲が水平の場合は、薬莢は外に飛び出すことができないので、薬莢受けが必要です。なので、薬莢受けには水平射撃時用のクッションつきの可動式の板が付いていたんじゃないかなあ、と。稜線射撃の時は、その板をずらすか折り畳むかしたんじゃないかなあ、と。図示するとこんな感じ。まあ、ここまでくると妄想の領域なのですが(笑)製作時はここまで思い至らなかったので、九七・一式の薬莢受けにならったものをつけてます。

さらに、完全密閉式にするのであれば、上面後部を斜めに切り取る(Aのライン)必然性がなくなってしまいます。天井をそのまま戦闘室後部まで延長すれば、車内はそれだけ広くなりますし(Bのライン)、かつ稜線射撃時の正面投影面積は変わりません。でも、それだと全高が高くなってしまうので、後部上面を水平にすれば(Cのライン)、車内の広さはさほど変わりません。密閉式なら、Cのラインにするのが合理的です。なので、AとCの間の空間を殺して密閉式にする理由がちょっと思いつかないんですね(資材の節約、とかはナシにして(笑))。ただ、三式砲のように後部ハッチを大型化するなら話が別です。射撃時にほとんど開放させた状態にできるほどの大きさであれば、納得がいきます。でもそれなら上部と後部が開けばいいだけなので、側面がAのラインになる必然性がなくなってしまいます、、、。だったらやっぱりCのラインかなあ、、いやでも、、というわけで、結局想像は堂々巡りになっちゃうんですが、、。ほんと、写真や図面が発掘されることを願って止みません。

で、もう一つ気付いたのが五式中戦車との類似点です。図面を参考に作って、立体になったのを見ていたら「どこかで見た形だなあ」と。何のことはない、五式中戦車の車体前部の副砲周辺の形状ととてもよく似てるんですね。

瓜二つ、とはいかないまでも各面の構成がかなり似てます。まさか設計者が同じではないとしても、製作時期はほぼ同じということもあって、設計に当たって何らかの情報交換があったんじゃないかなあ、という気がします。

それにしても、この車格の違いは凄いですね。五式中戦車はほんとでかいです。


しかしながら、この2車種が量産されたと仮定すると、実際に活躍するのは実はホルの方なんじゃないかなあと。

先に書いたとおり、整備や運用のしやすさ、隠れやすさ逃げやすさ(笑)などのポテンシャルの高さは、五式中戦車をはるかに凌駕している気がしてなりません、、というのはいいすぎですかね? もちろん、五式中戦車も最高なんですけどねえ。

というわけで、長くなりました。でも、いつものことながら、こういうエントリーが1回で終わるはずがなく(うう、、)、2回くらいにしようかなと思ってたのですが、あれこれ考えると、どうも3回くらいになりそうです。でも、連続するかどうかはちょっとわかりません。間に別のネタを挟むかもしれません。あらかじめご了承ください。

で、冒頭のイラストの全景がこちらです。今回のエントリーについてあーだこーだ考えてたら、無性に絵に描きたくなって、勢いで描きました(笑)勢いで描いたので、細かいところがかなり適当ですが、ご容赦ください。

それにしてもほんと、田んぼとかお地蔵さんが似合う車両だと思います。旧軍の車両はどれも好きですが、ホルはそのなかでもかなり好きですねえ、、、。もう一個、作りたいくらいです。10年後ぐらいに(笑)

で、再々で恐縮ですが、この車両を使ったジオラマは月刊アーマーモデリング2015年4月号にて紹介されています。この車両が紆余曲折の末無事完成できたのも、掲載されたジオラマあってのことです。同誌編集部の皆さんには感謝の言葉もありません。また、多くのアドバイスや資料を提供してくださった辻本氏にもこの場を借りて心よりお礼申し上げます。興味のある方は誌面をぜひご覧ください。

参考までに、掲載時のお知らせのエントリーはこちらです。http://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/0a2c497d62f7526393c4bee1bfb09f3a

さらに、五式中戦車は月刊ホビージャパン2009年12月号の作例です。これも本土決戦のジオラマにしています。というか、これがきっかけとなって、私は本土決戦ジオラマを作るようになったんですね、、(懐かしいなあ、、)。これまた、興味のある方はぜひご覧ください。

それでは。

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「義烈空挺隊員」 1/12 フルスクラッチ (その3)

2016年06月18日 | AFVの模型
というわけで、なんとかじわじわ進めていますが、各部の仕上げに入ってから進捗状況は遅くなってます。といいますのも、スクラッチフィギュアはスケールを問わず、大体形になってからが長いんです。でもまあ、こういうのって人によって違うんでしょうけど、、。私の場合は、細部の仕上げやディテールの詰めに時間がかかります。これからが本番、という感じです。

なんだかんだありまして、今年の2月くらいから製作がとまってました。5月末ごろからやっと再開。とりあえず、軍跨の仕上げから始めました。

中四国AFVの会で、この道のオーソリティの方に製作中のフィギュアを見ていただいて、アドバイスをいただきました。曰く「軍跨がぴったりしてるね。日本軍の軍跨はもっとダボッとしてるよ」とのこと。聞けば、日本軍の軍跨はひざが突っ張ったりしてすれたり破れたりを防ぐためにゆったり目にできてるそうです。なるほど。そのつもりで写真を見ると、確かにそうです。ただ野暮ったいだけじゃなかったんですねえ。なんでも聞いてみないとわからないものです(ほんと、ありがとうございました)。

製作についてはコツも秘訣もなくて、自分なりに納得するまでとにかくパテを盛って、削って、また盛っての繰り返しです。「どこまで続くぬかるみぞ」という感じですが、コツがあるとしたら「めげずにとにかく頑張る」というのがコツかもしれません(笑) とはいえ、いつまでもやってらんないので(笑)大体目処がついたら適当なラッカー塗料を塗って表面をちょっとづつ仕上げていきます。
写真をあれこれ見て皺を再現しようとしましたが、体勢によって皺の感じがころころ変わりますので、それっぽい風にするのに苦労しました。ほんと皺は難しいですね。

次に、足元から仕上げていきます。軍靴の靴紐とハトメを板鉛で再現しました。こういう、誰にでもなじみのあるものは、適当にやっちゃうとすぐ変だとバレちゃいますので、できるだけ頑張ります。

隊員の多くは、軽機用の弾薬嚢を身につけてますので、装備に追加することにしました。例によってエポパテで製作。バックルも最初エポパテで作ったのですが、どうもなにか実感に乏しいので、真鍮線と板鉛で作り直しました。こっちのほうが、キラッとしていいアクセントになるような気がします。

むき出しの百式機関短銃の弾倉もできるだけ再現していきます。弾倉底板のスプリング止めの穴も開けます。底板を止める、弾倉下部左右のプレスの出っ張りもきちんとモールドにします。

ガンマニアの端くれとしては、できるだけこだわりたいところです(笑)

手も仕上げに入ります。手は作ってるとなんかドキドキします。顔も作ってて不思議な気分になりますが、それによく似た気分です。それぞれ一番人間らしい部位だからでしょうか。「ひとがた」を作るという行為には、なにかこう人を特別な気分にさせるものがあるのかな?という気がします。顔もそうですが、手もちょっとした違いでも違和感が出てきますので、大変です。なんでかな?とよくよく考えると、手は、多分一生の中で一番よく見る自分の身体の部位なので当然なのかもなあと。手ってほんと不思議です。

九四式拳銃嚢も、結局これまで作っていたものの表面を削ってしまい、ディテールをやりなおしました。なんといいますか、全体的に進んでいるような後退しているような、もやもやした感じです。早く塗装してみたいのですが、ここが頑張りどころかなあ、という気もします。まあ、急ぐ旅でもありませんので、あせらずじっくり取り組みたいと思ってます。

それでは。


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「Sweet Home」試し撮り

2016年06月04日 | AFVの模型
先月の静岡HSにて展示しました拙作「Sweet Home」を自然光にて撮影した写真をUPします。静岡前に、ちょっと手直しをしていたところ、窓からの光がとてもよかったので撮影しました。車両を取り外して少し塗装に手を加えていたので、完全品の作品の写真ではなく「試し撮り」ということで。このジオラマの完成形は月刊アーマーモデリング2015年4月号に掲載されています。


建具から伸びる影が、なんかリアルですね。プロでなければ、照明だけでこういう光はなかなか作れないと思います。自然光は、ほんといいですね。


車両がないので、普段見れないところが見えます。


廊下の真ん中にあるのは、東北の民芸品(安産祈願用らしい)の犬の人形です。なぜか100均で売ってたので買ったものをモデルにエポパテで作りました。現物も犬じゃなくて猫に見えます。かわいいので部屋に飾ってます。これとちょっと違う形のはつげ義春の「ほんやら堂のべんさん」に印象的に描かれてますね(べんさん初登場のコマ)。それへのオマージュもあったりなかったり(笑)


廊下は、薄い杉板を細切りしたものです。ペーパーで1000番くらいまで磨いて、メンソレータムでつやを出してます。写真ではわかりにくいのですが、ちょっとつやっとしてるのでアクセントになってくれてます。


日差しは、本物の日差しなので、本物に見えます(当たり前)




机の上にあるのは、右から双眼鏡のケース、九九式手榴弾(のつもり)、Kレーションです。この写真だとわかりにくいですけど。この机も、パソコンを置く机として使ってるやつです。古道具屋で安く買いました。たんすも今使ってる祖母の遺品。柱時計も昔の実家から頂戴してきたものを作りました。身近にあるものを作るのは楽しいですね。

車両は、試製四式自走砲「ホル」です。ファインモールドの九五式を改造。油彩でウェザリングを少し加えました。掲載時は、まだ油彩をやってなかったんです。


この車両はほんと興味深い車両なのですが、資料がほとんどなくて製作には苦労しました。誌面にも書きましたが、大阪のT氏から資料の提供と多くのアドバイスを受け、なんとか完成させることができました。旧軍の中でもかなり好きな車両なので、出来るだけ頑張れてよかったです。自分でもあれこれと考察しながら製作しまして、いろいろ興味深い発見もありました。その辺についてはまたそのうちブログを書きたいと思ってます。とりあえず、一つだけ。

ホルの側面形は、天井が前方に向かって傾斜しており、山形になっています。なんでかな?と思ってたのですが、立体にしてみて疑問が解けました。これ、稜線射撃時の正面投影面積を減らすためなんですね。写真でみるとよくわかります。最高部の高さで天井が地面と平行だと、露出部がかなり増えます。

もしそうだとすれば、最初から運用法を考えた上で設計されたということになります。まあ、当たり前なんでしょうけど、、。なので、ジオラマでもこの状態で待ち伏せしているようにしています。

天井の後部が開放されているのも、ひょっとすると排莢された薬莢がそのまま外に出て行くようにするためなのかなあ、とも。これだけの距離を飛び出すものかどうかはわかりませんけど。一式砲でも、機関部の上に薬莢が転がっている写真がありましたので、ふとそう思いました。SU76も後ろのドア内側に、薬莢が当たったとき用(多分)のクッションがついてますので、口径は違えど薬莢ってこれくらいの距離は飛ぶのかなあ、と。

などなど、いろいろありますのでそのうち書きたいと思ってます。

それでは。

アーマーモデリング掲載時のお知らせはこちらです。興味のある方はぜひ誌面を御覧になってみてください。
http://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/0a2c497d62f7526393c4bee1bfb09f3a








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「日本兵フィギュア」改め「義烈空挺隊員」 1/12 フルスクラッチ (その2)

2016年03月12日 | AFVの模型
この間紹介したフィギュアは、義烈空挺隊員として製作しています。いまのところ、全体のディテールが作り終わったところです。これから細部の仕上げに入っていきます。

義烈空挺隊は、陸軍の空挺部隊ですが落下傘降下をせず、輸送機で敵飛行場に不時着し航空機を破壊するという作戦のために編成されました。沖縄戦たけなわの1945年5月24日、168名が九七式重爆を改造した輸送機12機に乗り込み、沖縄の米軍の飛行場にむけて出撃、1機が読谷飛行場に不時着、突入に成功しました。少なくとも8人が飛行場に降り立ち、7機を破壊、26機に損害を与え、7万ガロンのガソリンを炎上させる戦果を挙げています。残りの4機がエンジン不調などで帰投、7機が被撃墜ないし海上墜落されたと見られています(「丸」2015年12月号より)。

特別な任務を帯びた部隊のため、その装備は特殊なものが多いです。しかし、不明点も多々あります。製作する上では、残された写真を元に出来るだけ再現しようとしていますが、想像で製作した部分も多いです。装備については後述します。基本的に、ほとんどをタミヤのエポパテで製作しています。





装備の中で特徴的なのが、一〇〇式機関短銃の弾倉嚢ですね。その上に巻いた二式弾帯も多くの隊員が身につけています。


リュックは、恐らく中に箱入りの爆薬が入っているのでないかと思います。このリュックも特徴的な装備です。その下の箱状のポーチは、九九式破甲爆雷のケースです。破甲爆雷は、多くの隊員が複数個身につけています。




装備については、あれこれ試行錯誤してます。脇差は、最初作ったものがちょっと大きかったので作りなおしました。が、まだちょっと納得いかなかったので没に。3回目で何とかなりました。この写真のは没になったやつです。


スケールが大きいので、工作は楽といえば楽なのですが、苦労する部分もあります。長髪なら、このスケールでもエポパテで再現できるのですが、坊主頭のチリチリした感じはちょっと難しいので植毛することに。麻紐を植え込んで短く刈り込みました。

頭を深く削って、根元で接着、ハサミで荒く長さを決めます。

最後はリューターの丸いディスク状のノコで刈り込んでます。アップだとちょっとまだ整いきれてませんね。うーん、、。


隊員は空挺部隊用の二式短剣を装備していたのかな?と思いましたが、写真を見ると三十年式銃剣を装備していたようですので、それに倣いました。長いのでアンバランスではあるのですが、強そうでいいなあと個人的には思ってます。


銃はちゃんと握っているようにしたいので、出来るだけ頑張ってます。


握った状態なので、一度銃を真ん中で切断して手を造形しました。これは大体の形を削りだしたところ。


軍衣跨や軍靴など隊員の基本的な装備は、一般兵士と同じのようです。弾倉嚢などが特有の装備のようで、隊員の特徴となっています。ただ、現物が残っていなかったり鮮明な写真がなかったりと、確証を得られる装備はすくないです。なので多くを推察によって製作しています。自分なりに調べて分かった点をイラストにまとめてみました。

1・略帽は通常のもののようです。どの隊員も略帽に墨の迷彩(後述)は施していないようです。

2・前述のリュックは、一部の隊員が背負っています。雑のうをリュック状にした隊員もいます。また、多くの隊員が軽機用の大型の弾薬嚢を身につけています。

3・墨の迷彩は、隊員自身が施していますので、各自パターンはまちまちです。手製ながら、義烈空挺隊が日本初の迷彩服を纏った部隊なのではないでしょうか。

4・二式弾帯は「日本の軍装」(大日本絵画)でも紹介されている装備です。九四式拳銃嚢と弾倉、弾薬用ポーチから成っていると解説されています。ただ、写真を見ると外側2個と内2個のポーチは大きさが違いますので、大きい方は手榴弾用なのではないかな?という気もします。なので、私はそういう風な造形にしました。また、この二式弾帯は、現物の写真を見たことがありません。もし現存しているならぜひ見たいものです。

5・三十年式銃剣は、出撃時の様子を撮影した小柳次一氏の写真(捧げ銃をしているもの)ではっきりと一〇〇式に着剣していることが確認できました。二式短剣を装備した隊員もいたかもしれませんが、未確認です。

6・出撃前の隊員の持つ一〇〇式には弾倉は入れられていません。一〇〇式はMP40やPPsh41のようにボルトセーフティー(ボルトが動かないように固定する安全装置)がありませんので、弾倉を銃に入れたままにすると暴発する可能性があります。オープンボルト式のマシンピストルやサブマシンガンは構造上、銃を縦に持ってトラックなどから飛び降りると慣性でボルトが後退し、暴発することがあるんですね。

MP38にはボルトセーフティーがなかったのでこれが問題になったようで、あとからボルトを止める銃身につける皮製のベルトを支給しています。さらに、回収してMP40のボルトに付け替えて、MP38/40と名称を改めてます。一〇〇式も装備期間が長くなれば、その辺が問題視されて改良されたのではないかと思います。一〇〇式の場合、ボルトを引いた状態で安全装置をかければこの暴発は起こらないのですが、ちょっと怖いので推奨できないやり方です。
恐らく、隊員も訓練を通じてこの欠点を知り、戦闘時以外は弾倉を入れなかったのではないかと。ただ、写真の中には弾倉を入れて輸送機に向かう隊員も確認できますので、徹底はされてなかったのかもしれません。

7・吸着爆雷は、航空機を破壊するための爆雷です。缶の中に爆薬が入っており、導火線が棒の先まで伸びています。缶の先にゴムの吸盤がついており、これで機体に貼り付けるようになってます。だだ、ディテールがよくわからず、これまた多くを推察によって造形しています。

8・導火線は、棕櫚縄のようなもので棒にまかれているようです。習志野の空挺館にこれのレプリカなど、隊員の装備の展示がされているそうです。いつか行きたいものです、、。

9・脚絆は、戦闘巻と営内巻の隊員がいます。この辺は、好みの問題なんでしょうね。


次は、上半身に焦点をあてます。これは写真を元に描いてます。一〇〇式の弾倉嚢がはっきり写っているよく知られた写真ですね。


1・多くの隊員が九八式軍衣の下に防暑衣を着ており、階級章はそれにつけています。重ね着は飛行中の防寒のためか、もしくは着膨れして着陸時のショックに備えるためでしょうか?また、作戦後に現地部隊と合流して戦闘を継続する場合も想定して、上の九八式を脱いで行動するためだったのかもしれません。沖縄の五月はもう暑かったでしょうしね、、、。

2・装備の中で、とにかく謎なのが一〇〇式機関短銃の弾倉嚢です。これまで、一〇〇式専用の弾倉嚢の実物の写真を見たことがありません。マニアの間でも謎とされているようです。マニュアルによると、付属品の解説の項目に麻布製の「弾倉嚢2(一個につき10本入り)」とあります。が、「小銃・拳銃・機関銃入門」(光人社NF文庫)では九九式軽機の弾倉嚢を流用したとあります。部隊の出撃前の写真では、一〇〇式を持ち、軽機の弾倉嚢を装備した兵士が確かにいます。そのつもりで見ると、弾倉でパンパンに膨らんでいるように見えます。一方でこのイラストの専用の弾倉嚢を装備した兵士も複数見られます。

この写真を最初に見たとき(もう20ウン年前ですね、、)は、ベルトに直接差していたと思ったのですが、よく見ると1本1本区切られた袋状になっている弾倉嚢ということがわかります。型があまり崩れていないので、かなり厚い帆布か、ひょっとすると皮製かもしれません。普通なら必ず付く防塵用のフラップがついていないのが、決死的な作戦を象徴しているような感じです。

「日本の軍装」ではフラップの着いた一〇〇式の弾倉嚢が描かれています。しかし、私の集めることが出来た写真の中には該当するものは見当たりませんでした。

マニュアルに書かれている専用の弾倉嚢も、実際に製作されて支給されたのかどうかもよくわかりません。代用品として、軽機の弾倉嚢が使われたのかもしれません。ただ、唯一「世界の軍用銃」(ワールドフォトプレス)に、川越のりと氏のイラストで「一〇〇式用」として紹介されています。イラストを見ると、どうも写真ないしは現物を元に描かれたようにも見えますが、、、。

なんであれ、陸海軍ともども、日本軍の使用した機関短銃の弾倉嚢についてはよくわからないことだらけです。これはまた改めて書きたいなあと思ってます。

3・隊員の多くは鉢巻をして、その上に略帽をかぶっています。鉢巻は日の丸です。小柳氏の写真に、各隊員が略帽を脱ぎ、故郷の方角を向いて遥拝しているものがあります。それを見ると鉢巻は日の丸のみのものばかりでした。「神風」とか「必勝」などは描かれてなかったようです。

4・一部の隊員の軍衣の二の腕の部分には、ポケットが縫い付けられています。個人の手製なのか、専門部署によって追加されたものかどうかは不明です。中に何が入っていたのかも分かりません。

次は後ろからです。


1・リュックのストラップには緩衝材が入っているようなふくらみがあります。

2・墨の迷彩は、下地との境界がぼやけているものが多いのですが、中にははっきりとパンダの柄のように(不適切な表現かもですが)染めた隊員もいます。

3・九九式破甲爆雷のポーチは、下部の左右が丸く裁断されています。角が立っているように見える写真もあるのですが、爆雷の収め方の違い(丸い爆雷の四方に磁石がついているので)のため張り出しているのかもしれません。

4・戦闘帽の後ろに、白い札のようなものをつけている隊員がいます。形状は楕円形のものと四角形のものがあるようです(材質は不明)。この札の目的はよくわからないのですが、何らかの識別用であることは間違いないようです。

5・リュックの蓋のストラップの金具は、米軍のバッグのようなものが使われています。ストラップの端のベロの部分には金具の補強も入っているようです。緩衝材の入ったストラップといい、日本軍の装備としてはかなり特別なもののように思えます。リュックは角が立っているものとヘタッと形が崩れているものが見られますが、これは中身の形状による違いのようです。角が立っているのは、恐らく中に爆薬が入っており、箱状のケースに収められていたのではないかと思います。

というわけで推測ばかりで恐縮なのですが、わかる範囲で製作するしかないのが現状です。

なぜ、義烈空挺隊員を製作しようかと思ったのかは、ちょっとひとことでは説明できません。中学生くらいのころ「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」(毎日新聞社)を見ました。この本には、義烈空挺隊の写真が多く載せられています。

ほぼ戦死確実の作戦なのですが、出撃前の隊員はびっくりするくらいさわやかな笑顔を浮かべています。中学生の私は「死ぬのがわかっているのになぜこんな笑顔になれるのか?」と衝撃を受けました。それ以来、ずっとこの部隊のことが気になっています。

その笑顔の意味をちょっとでも知りたい、というのが製作意図の一つです。もちろん、それだけではありませんので、また機会を改めて書きたいと思います。

このイラストはその写真の一枚をもとにして描きました。なんともいえない笑顔です、、。


「一億人の昭和史」掲載の写真を撮影したのはカメラマンの小柳次一氏です(掲載の写真全てが氏のものなのかは不明です)。小柳氏は隊員に密着取材し、本当に素晴らしい写真を残されています。実は、製作の真っ最中の時期に、地元で氏の撮影した義烈空挺隊の写真展が開かれ、私はギリギリ最終日に会場に行くことができました。写真は書籍では見たことのないものや、書籍に掲載されている写真でもトリミングされる前のものなど、どれも非常に参考になるものばかりで、私にとっては僥倖に近い貴重な機会となりました。

なんとか、氏の写真のような隊員の笑顔を作れればいいな、と思いながら取り組んでいます。



というわけで、またまた長くなってしまいました。また進捗すればアップしたいと思います。


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日本兵フィギュア(仮題) 1/12 フルスクラッチ (その1)

2016年01月16日 | AFVの模型
先日紹介した一〇〇式機関短銃を持たせるフィギュアの製作が、なんとかじわじわ進んでいます。フィギュアを作るときの工具は、デザインナイフと金属製の針(なんていうのかな、これ)と、楊枝、ペーパー、スポンジやすりです。楊枝はほんと重宝してます。

フィギュアを作るときはまず、2ミリのアルミの針金で芯を作ります。その上に麻紐を巻いて、瞬間接着剤でコチコチに固め、ある程度ポーズを決めてからタミヤの速硬化型のエポパテを盛り付けていきます。麻紐を巻くのは、単にエポパテの節約のためです。これが芯にエポパテを盛り付け始めたところ。

こうやって見ると「お前、大丈夫か?」っていうくらいひどいですね(笑) 芯をアルミにしているのは、後でグネグネ曲げて修正しやすいからです。また、さらに体のバランスを根本から修正したいときも、アルミなら切ったり削ったり出来るので安心です。今回もアルミの芯まではいかずとも、麻紐が露出するくらいまでは修正しています。最初からピシッと決められるなら、こういうことはしなくてもいいんでしょうけど、私は全然未熟者なので、仕方ないなあと。

大体のポーズが決まったら、足元からディテールを付けていきます。まずは編上靴を作り、おおまかな形が出来たところで、最初の難関の脚絆(ゲートル)に手をつけます。

まずふくらはぎの形を出し、その上にパテを薄めに盛り付けます。

パテがある程度硬化し始めるころから、ディテールを付けていきます。エポパテは、硬化時間によって作業のやりやすさが変わってきますので、自分がしっくりくる時間をつかんでおくとやりやすいですね。私は大体、練ってから2-3時間くらいがちょうどいいような。

資料を見ると、脚絆の巻き数は大体こんなもののようです。印象だと、もっと巻いているような気もしましたが、そうでもないみたいです。

脚絆は日本兵のシンボルみたいなものですので、出来るだけ頑張りました。巻き方は通称「竹の子巻き(営内巻き)」と「戦闘巻き」の2種類があったようです。「戦闘巻き」は緩みにくくするために脚絆の端についている紐を脛の前でクロスさせる巻き方です。

戦闘中だから必ず戦闘巻きだというわけでもないようです。最前線の写真でも、兵士によってまちまちです。好みの問題もあったのかもしれません。

というわけで、苦労しましたがなんとか形になってくれました。

しかし、足を切って左右別々に作ったために、巻いた感じが左右でアンバランスになってしまい、この後で修正しました。編上靴の紐は、糸ハンダで表現しましたが、ちょっと太いですね。後で、リード線などに置き換えようかなと思ってます。スクラッチは、いつもそうなのですが「できた!」と思っても、「やっぱやり直し!」の繰り返しですね、、。

後ろから見たところ。最後にふくらはぎの上部で、脚絆の紐を巻いて縛って終わりますので、結び目をそれらしくします。


次に、太ももから上の胴体に入ります。九八式軍衣跨はしわとか着膨れの感じが独特で、写真とにらめっこしながら作ってますが、それっぽくするのが難しいです。

何と言いますか、欧米の軍服に比べるとちょっとボテッとしているというか、野暮ったいというか、、。裁断の違いなんですかね。欧米のは、体のラインがもっとはっきり出ていてシュッとしているような気がします。こういうのは、一般社会のファッションの洗練度を反映してるんでしょうね。日本軍のはあえて言うと、ソビエト軍の軍服に近いような。まあ、結局はそれぞれ「●ナカもん」ってことなのでしょう(笑) 今回は夏服なのであまりそうでもないのですが、冬服だとお腹が「ポコッ」としてることが割とあります。やせてる兵士でも「ポコッ」としてます。装具のベルト類の締め付けの具合のせいにも見えますし、着膨れのようにも見えます。そういえば、ファインモールドの四一式山砲のフィギュアは、この「ポコッ」がきっちり再現されています。さすがであります。

この上に装備を付けるので、胴体のしわとかはほとんど隠れちゃうんですけど、それなりにきちんと作りたいなあと思ってます。


で、これくらいのスケール(1/12)だと、階級章など細かいディテールが付けられるのが嬉しいです。階級章も、ほんとは立体的になってますからね、、、。

腕前の問題でもあるのですが、こういうのは35だと再現が難しく、バックルとかはそれっぽくしか出来ないのですね。バックルや脚絆の結び目など「機能している」という感じになんとか出来るのは、大スケールの醍醐味だと思います。

というわけで、胴体の大体の目処が付いたので、次は手と頭、装備に進みます。作業をやりやすくするため、手足などは分割できるようにしています。

これが一つになる日が来るといいんですけどね。いつになることやら、、、。フィギュアって、35でもそうなんですが、大体形になってからの方が大変なような気がします。細部の修正や仕上げなどはやってもやっても終わらないような印象で、最後の最後のころになると、見るだけで「ロッパー!」となりそうなくらいです(わからない人は「えの素」「ロッパー」で検索。※責任は持ちません)。今回の写真も「まあ、大体できたかなあ」ってところなんですね。結局は自分がどこで納得できるか、という。でも、完成後数ヵ月後くらいに見ると「あちゃー!!」って頭を抱えるという。そんなのの繰り返しですね、、、。ほんと奥が深いと思います。

とかいって、頭を抱えていても仕方がないので(笑)、どんどん前に進みます。頭はとりあえず、耳からはじめています。耳は、見れば見るほど変な形をしてますね。面白いです。

参考にしてるのは、なんのことはない、鏡に映った自分の耳です。日本人を作るときは、自分が資料になるのでいいですね(笑)


資料は「日本軍装備大図鑑」(アグスティン・サイス 原書房)がほんと役に立っています。高価な本ですが、実物の装備をこれでもかというくらい詳細にカラー写真で紹介してくれている、稀有で貴重な資料です。しかし、残念ながらちょこちょこ間違いがあるのでちょっと注意が必要です。「ん?」というところがあれば日本の書籍やサイトなどでクロスチェックするのがベターみたいです。ただ、その間違いが本の価値を下げてるかというと、全然そんなことはなく、素晴らしい内容だと思います。脚絆の巻き方については小林源文氏の「GENBUN MAGAZINE Vol001」にて、古田和豊氏が詳細に紹介してくださっており、非常に参考になりました。この記事がなかったら、かなり中途半端なものになってたと思います。アグスティン氏ともども、地道な研究を積みかさね、かつ私たちに情報を提供してくださっている方々には足を向けて寝られませんね、ほんと、、。

余談ですが、本のページを抑えるのはモデルガンが結構使えます。押さえやすくて、見やすいんですね。ガバメントなのはご愛嬌、ということでお許しを(笑)

それでは。

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一〇〇式機関短銃 フルスクラッチ 1/12 (その1)

2015年12月12日 | AFVの模型
先日簡単に紹介しました、一〇〇式機関短銃の製作記です。

これは単体の模型作品ではなくて、スクラッチする予定のフィギュアに持たせるためのものです。ですが、もったいないので(笑)単体作品として紹介します。

まず、実物の図面を1/12に合わせて縮小コピーし、適当な板に張り付けます。これが「原寸図」となります。これに現物あわせで製作していけばいいわけです。板に張るのは、部品を何度も図面に載せるため、紙のままだとゆがんだ状態であわせてしまったり、破れたりするからです。図面は、旧軍小銃のマニュアルを複写した自費出版本「日本の小銃」(全日本軍装研究会)に載っていたもの。「兵器制式図」というやつです。

原寸図とは別に、もう一枚印刷して1ミリプラ板に張り付け、銃床部分だけを切り出します。そうすると、自動的にほぼ正確な側面形になります。あとの部品は原寸図にあわせしながら製作を進めます。

幸い、タナカ製のモデルガンを持ってますので、細部の寸法がわからないときはこれををノギスやメジャーで測って、電卓で12に割れば数字が出ます。とても楽ちんであります(笑)

製作するのは後期型で、モデルガンは前期型ですが、基本的な構成は同じです。このモデルガンは本当によくできています。再販品で、20年ほど前に買いました。初版発売は確か小学4-5年生の頃で、52000円でした(さっき調べました)。もちろん買える訳がなく、泣く泣く諦めたのでした(小学生でこれを欲しがるのって、やっぱおかしいよな、、)。その約十年後、多少はお金の自由がきくようになった学生のころ、再販されたので迷わず飛びついたわけです。バイト代をはたいて購入しました。確か七万円くらいだったかな、、。でも、まだ足りなかったので食費も削ったような、、。

当時のトイガン界は、エアガンブームでモデルガンは人気がなく、新製品もほとんど出なくて風前の灯といってもいいくらいの状況でした。そんな中、再販されたのは僥倖に近く、ここで手に入れないともう二度と手に入らないと思い、必死で購入したのでした。しかしその後、モデルガンも盛り返し、新製品も出るようになり、一〇〇式もメーカーは変わりましたが最近再販もされ、なんと試作型の「改修三型」まで出ました。まあでも、あのころに頑張って買ってよかったと思います。「モノより思い出!」であります(あれ?)。


うーん、それにしてもかっちょいい!

閑話休題(すいません)。続けます。切り出したプラ板に、タミヤのエポパテを盛り付けます。レシーバーのパイプはエバーグリーンの2・5ミリ丸棒がほぼピッタリでした。


銃身は1ミリ真鍮パイプ。前期型の銃身は、放熱効果を高めるために、軽機関銃のようなリング状の溝が切られています。そりゃまあ、そのほうがいいに決まってるのですが、サブマシンガンとしては凝りすぎですね。さすがの日本軍も反省(?)したのか、後期型はストレートな棒状になってます(制式図ではそうなってますが、実物がどうなのかは不明です。いくら写真を見てもわからない、、、)。でもまあ、リング状だったとして再現したとしても、まず見えませんね、、。バレルジャケットは筒状に丸めたアルミ(ビールの缶を切り出したもの)にピンバイスで穴を開けて製作。ここはこの銃の特徴的な部分ですし、模型的にも見せ場になりますので、できるだけ頑張りました。

しかし、丸めたアルミの筒に穴を開けようとしても、内側に凹んでしまってうまくいかないのはやる前になんとなくわかっていたので、いい工法を考える必要がありました。オーソドックスなやり方としては、アルミ板をプラ棒に丸めたままにして、プラ棒ごと穴を開けるというもの。作業中ずれないようにアルミとプラ棒を瞬間接着剤で仮止めしてやってみると、案外うまくいきました。穴が少しでもずれると実感が損なわれますので、できる限りきっちりシャーペンで穴の位置をマーキングして、まっすぐ綺麗に並ぶように開けていきます。

こういうのって、一回目は練習のつもりでやったほうがいいですね。二回目、三回目でうまくいく位に考えてたほうが、逆にリラックスしてできるような。で、「最初うまくいかないとわかってのんびりやったら、案外一発でできたりするんだよねー」とかうっすら期待しながらやったのですが、やっぱり失敗しました(笑)そんなに甘くはないか、、、。でも2回目でなんとかできました(ほっ)。

この銃は、同種のサブマシンガンと同様、径の違うパイプを幾重か組み合わせて作られてますので、アルミを巻き重ねていきます。ペーパーを巻いてくるくる回して磨いてやると、機械加工したみたいに傷がついてごっつええ感じ(笑)

ストックも少しずつ削って、形を近づけていきます。機関部ともども、逐一原寸図に当てて、寸法に狂いがないかチェックを繰り返しながら作業を進めます。

銃は、全体のバランスが狂うと、途端に似なくなってしまいます。なので、銃のスクラッチでは、バランスはディテールと同じかそれ以上に大切だと思います。よりスケールの小さい35の場合だとなおさらです。

全体の大枠ができてきたので、次はディテール工作に入ります。その辺は次回に紹介したいと思います。

とりあえず刻印だけ。デザインナイフの先で少しずつつついて彫りました。でも、これは実物よりふた周り以上大きいです。これより小さく彫るのは無理でした。でもまあ、これが精一杯です、、。よく見るとリアサイトがゆがんでますね、、、。直します。写真ってヤダなあ、、。

前にも書きましたが、1/12は銃にはピッタリのスケールのような気がします。手のひらに乗る感じがなんともたまらんです。


というわけで、一00式はとても好きな銃なので、模型編だけでなく、実銃について自分なりの考察とかも書きたいと思ってます。続けて書くのでなくて、恐らく飛ばし飛ばしの紹介になります。すいません。

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