ももすけの日記

品良きは背筋伸びたる夏帽子
ああ面白かったと言って死ねたらいいな

こんなことになるなんて

2013年06月28日 19時22分24秒 | 日記

それは4月1日の晩のことでした。

おとうさんの誕生日なのでお赤飯を炊いていました。おとうさんが帰ってきたので食事の前におかあさんが先にお風呂に入り、入れ替わりにおとうさんがお風呂に入りました。

バタン、おかあさんは脱衣室に出たとたん倒れたようでした。すぐに意識を取り戻して最初に見た景色は、自分の左の腰骨でした。

前屈しても体が硬くなっているうえ、おなかのぜい肉がわざわいしてなかなかくっつかない昨今。そのときは、といえば、伸びた両足の上に胴体が密着し、顔面は胸のほうに向いて頭部が折れ曲がっていました。

物音に風呂場のドアを開け、ペタンとしているおかあさんを発見したおとうさんはとりあえずおかあさんにパジャマを着せて、居間の電気こたつまで、えいこらっしょ、っと運びました。おかあさんは、腰痛持ちのおとうさん、大丈夫かしら、と心配しましたが、そんなことを言ってる場合ではもちろんなく(意識はあるのに体は全く動きません)

おとうさんは自分も服を着て、すぐに居間に戻り119番に電話をしました。(あとで聞くところによれば、裸のおとうさんは寒いので一度お風呂に浸かって温もっていたそうです!)ぼくはいつものようにストーブの前で寝そべっていましたが救急隊の人たちがどやどやとおかあさんを運び出すとき、何か変と、わんわん吠えただけでした。

救急車はすぐに来てくれ、状態を把握するとおかあさんは担架で救急車に運びこまれましたが、家の前からなかなか発車しませんでした。倒れた時の一瞬だけどうしたのかわからなかったおかあさんですが、頸椎だ、と話すことはできました。何年も通っていない大阪市内の病院は受け入れてくれるはずもなし、、、それならば整形外科ですが、当直に整形外科の先生がいるところはこの近くに無い、どうしますか?そんなこと訊かれたって、こちらが訊きたい!!

寒い晩でした。救急車の中で30分はじっとしていたかな、血圧、50・・・40・・・とおかあさんの耳にも聞こえていました。結局、一番近くの病院、脳外科の当直医のいる、歩いてだって10分くらいの病院へ搬送されたのです。

 

まる2日間絶対安静、もっとも首から下、体が動きません。首を固定する大きなカラーが巻かれていました。意識はあるのに自分の体が動かないという不思議な感覚、でも、この2日間、まるで空白。一体、なにを考えていたのか、それとも何も考えていなかったのか、よく覚えていません。「こんなことになるなんて」と「重篤」という単語が何度も頭をよぎったことは覚えています。

3日目、食事の時、ベッドを60度まであげてもよいとの許可が出、初めて天井以外のまわりを見ることができました。自分は人間であったと思い出したような気がしました。手は痛さとしびれの不快感でしたが、足のほうは少し、なんとなく動かせるような気がしていました。

「頚髄中心性損傷」外側に下肢の神経、中心に上肢の神経が通っていて、中心部の神経の損傷がひどかったのです。

体力の回復やいろいろな状況により12日後に、4か所の背骨を切ってその間に人工骨をいれて頚髄を広げる手術を受けました。損傷した神経が治りやすいようにしてもらったわけです。

手術の当日、朝日に向かって「今まで生きてこられたことに感謝」と日記に記しています。

しかしまたその後、お風呂からあがって一人で倒れていたらそのまま死んでいたかもしれない、それも楽だったかもしれない、なんて考えたりもしています。

このお値段でこんなにたくさんの種類のお惣菜、と感激していた夕食の宅配も実はおかあさんはもう飽きてきています。今は土曜日曜だけ夕食を自分で作っていますが、全部となるとまだ自信がないのですが。

ぼくら犬は生きるの、死ぬの、などと考えたこともなく、与えられた食事をし(たまには拒否もするけれど)力をふりしぼってけんめいに歩きます。人間はどうしてこんなにぜいたくなことを考えるのでしょう。

おかあさんはすぐにしんどくなってひっくり返って寝ころんでしまいます。あれほどのダメージから戻ってきたのだもの当然、と考えるか、怠け癖かも、ズルしてるのかも、という負い目・・・

 

今日こそ日記を書きあげようとしていたのに画像を削除したら途中からの文章まで消えてしまって意気消沈するも、お友だちがどうしてるかとのぞきにきてくれたり、今、日本に帰っているおにいちゃんのお嫁さんからお見舞いのお花が贈られてきたりで、また、機嫌よくなったおかあさんです。