昨日の朝日新聞夕刊に、「恋する大人の短歌教室」という記事がありました。
未発表の短歌を応募してもらい、専門家の方が添削するコーナーです。
今回の応募作は、
「たわむれに 病臥の妻の 乳首吸う それが最後と ただただ涙」 でした。
添削される石井辰彦さんは、
「究極の恋歌(こいか)と呼ぶべきでしょう。何とも凄絶な一首です。夫婦間の愛情の突き止められた姿が、圧倒的な迫力で歌われていて、読む者をたじろがさずにはおきません。
あまりにもあからさまな第三句の言葉遣いをもっと穏やかなものに換えてみたら、などと考えることさえ、作家の心中を推し量れば憚られます。
おそらくは余命いくばくもない愛妻に対する、ひとり現世に取り残される運命にある夫の、過激だが哀切でもある行為・・・。
真実の愛に裏打ちされた「乳首吸う」には、軽々には手は加えられません。
もっとも、これほど真剣な行為なのですから「たわむれに」はないのでは?
石川啄木の短歌の引用でしょうが、ここではそういう技巧は煩わしく感ぜられます。
「意を決し」など、代案を考えましょう。」 という解説でした。
添削後の短歌
「心乱れ病臥の妻の乳首吸う これが最後とただ涙して」
------------------
個人的に想像する場面は、2人きりのときに、旦那さんが奥さんの着替えを手伝うとか、体を拭いてあげたときに、旦那さんがふざけた様子を装って、奥さんの乳首に触れられたのだと思います。
「意を決し」にすると、その後のことまで意図しているようになってしまいます。
もう体力もないのですから、これまでのことに感謝を込めて、「大好きだったよ、ありがとう」という気持ちで奥さんの体に別れを告げられたのではないかと読みました。
添削者の石井さんに申し訳ないですが、これは何も手を加えないのが一番でしょう。
心を動かされた短歌でした。
未発表の短歌を応募してもらい、専門家の方が添削するコーナーです。
今回の応募作は、
「たわむれに 病臥の妻の 乳首吸う それが最後と ただただ涙」 でした。
添削される石井辰彦さんは、
「究極の恋歌(こいか)と呼ぶべきでしょう。何とも凄絶な一首です。夫婦間の愛情の突き止められた姿が、圧倒的な迫力で歌われていて、読む者をたじろがさずにはおきません。
あまりにもあからさまな第三句の言葉遣いをもっと穏やかなものに換えてみたら、などと考えることさえ、作家の心中を推し量れば憚られます。
おそらくは余命いくばくもない愛妻に対する、ひとり現世に取り残される運命にある夫の、過激だが哀切でもある行為・・・。
真実の愛に裏打ちされた「乳首吸う」には、軽々には手は加えられません。
もっとも、これほど真剣な行為なのですから「たわむれに」はないのでは?
石川啄木の短歌の引用でしょうが、ここではそういう技巧は煩わしく感ぜられます。
「意を決し」など、代案を考えましょう。」 という解説でした。
添削後の短歌
「心乱れ病臥の妻の乳首吸う これが最後とただ涙して」
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個人的に想像する場面は、2人きりのときに、旦那さんが奥さんの着替えを手伝うとか、体を拭いてあげたときに、旦那さんがふざけた様子を装って、奥さんの乳首に触れられたのだと思います。
「意を決し」にすると、その後のことまで意図しているようになってしまいます。
もう体力もないのですから、これまでのことに感謝を込めて、「大好きだったよ、ありがとう」という気持ちで奥さんの体に別れを告げられたのではないかと読みました。
添削者の石井さんに申し訳ないですが、これは何も手を加えないのが一番でしょう。
心を動かされた短歌でした。
「恋する大人の短歌教室」は、投稿される方の生き方が詰まった短歌が多かったですね。
NJさんの「フラット化する短歌の世界」というお考えは、なるほどと興味深く読ませていただきました。
「恋する大人の短歌教室」で検索して来ました。この歌に限らず,このコーナーは,どうして添削するのか,わからないことが多かったです。
トラックバックさせて頂きました。
高校生の投稿が多いのは、興味深いですね。
短歌は、読まれた方の気持ちが強く伝わってくることが多いように思います。
「短歌か」・・と思って先日『NHK短歌』という冊子をかってきました。
俳句は「ひねる。」とよくいいますが、短歌は「溢れ出る。」という感覚なのでしょうか。