かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

隣人のつぶやき

2016-03-06 19:12:14 | アズワンコミュニテイ暮らし

 隣人市川憲一さんは、昨年わが家から道一つへだてた、南向かいにある

セゾン小林というアパートに引っ越してきた。

このアパートには、ぼくの娘と孫、ぼくと瓜二つのおっさんの船田さんとその

奥さん、はたけ公園でぶどうをつくっている山田さん、大道芸の家族、などが

暮らしている。

このアパートには小学4年生がぼくの孫も入れて3人、そのほかにわがマンションにも

小学4年生が2人いて、その兄弟を入れると、かなりの子どもたちのつながりが

お互いのなかにあるようだ。

娘の部屋のカギは、人がいるときは、基本閉めていないので、学校から帰ってきた

子どもたちの溜まり場になる。遊びもするけど、子どもら輪になって、宿題をやっている

ときもある。

船田さんちの軽自動車は、ぼくとか、近くに住む吉田順ちゃん、娘が使いたいとき

使っている。

市川さんの部屋に行くことがあったけど、モノが所狭しと置いてあって、落ち着かない。

彼は、ときどきわが家に来て、ゆっくり話していく。

彼は、長いことシャープの家電修理の会社で、クレーマー相手に苦労してきた。

昨年その会社を辞めて、晴れ晴れして暮らしていたが、大腸がんが発見されて、

死を身近に感じたらしい。摘出手術のあと、抗がん治療をやりはじめたが、

苦しさのあまり、今はお医者さんと相談しながら、止めている。

やめてから、元気そうにみえる。

 

最近、市川さんは、フェースブックに文章を書いて、公開した。

読んで、「へえ、こんなこと書くこと、あるんだあ」

なんか湧いてくるような文章で、市川さんが表現している”それ”はどんな

ものか、関心がでてきた。

紹介したいし、記録しておきたいとおもった。

 
 
3月3日 11:26 · 
 

街のなかに、まちをつくる。

たとえば、仕事にいくのに、自分たちでつくった会社に行き、帰ってからの

生活では自分の家の食事や買い物が、自分たちのつくった食堂やじぶんたち

のつくった食材コーナーでまかない。

困ったりしても、困るまえに、よろず相談できて、このまちでは、互助会のこころ

がそこかしこに現れ、礼服が要るとつぶやけば、これを使いなさいとこえがかかる。

しまいには、味噌や醤油の貸し借りを飛び越えて、金も、水のように、こっちで

いるならはいよ、そちらで要るならどうぞ、ええいめんどくさい、カネ無しで暮らせん

かいな。

ぎすぎすせんと、生き延びるために人を道具のようにギュウギュウ搾り取れるまで

責めたてないで、たがいに足しあって、贈り合って、知恵もこころも、ものも。なにより、

暮らす人そのひと自身がまわりから尊重され、本人も自分を犠牲にかんがえなくて

自分自身も尊重し、お互いこころの奥のもっと奥の生きてることに耳をかたむけ

あって暮らす。

そんなまちをこの今の街のなかにつくっていこう。
 

いつか、いつの日か、世界中の争いもせめあいもなくなって、人間になってくらして

いけたらー

 
宣伝コーナー
こんにちは~アズワンコミュニティ
毎月探訪企画が、土日で用意されています。

アズワンコミュニテイのHPをごらんください。

 

ここまで、市川さんのブログ。

 

 

「人間になって、暮らしていけたら」

さらっと書いてあるけど、流し読みしたあと、「えっ、どういうこと?」

これは、ぼく。

 

 

こんな街の姿を、今年のお正月、毎日新聞の生活欄で取り上げてくれた。

http://as-one.main.jp/sb1/log/eid1190.html

 

 

 

こんな記事を読みながら、気分としては、昔読んだ、河上肇さんの

「味噌」という詩を思い出した。

      味噌

関常(かんつね)の店へ臨時配給の
正月の味噌もらひに行きければ
店のかみさん
帳面の名とわが顔とを見くらべて
そばのあるじに何かさゝやきつ
――奥さんはまだおるすどすかや
お困りどすやろ」
などとお世辞云ひながら
あとにつらなる客たちに遠慮してか
まけときやすとも何んとも云はで
ただわれに定量の倍額をくれけり
人並はづれて味噌たしなむわれ
こゝろに喜び勇みつゝ
小桶さげて店を出で
廻り道して花屋に立ち寄り
白菊一本
三十銭といふを買ひ求め
せなをこゞめて早足に
曇りがちなる寒空の
吉田大路を刻みつゝ
かはたれどきのせまるころ
ひとりゐのすみかをさして帰りけり
帰りて見れば机べの
火鉢にかけし里芋の
はや軟かく煮えてあり
ふるさとのわがやのせどの芋ぞとて
送り越したる赤芋の
大きなるがはや煮えてあり
持ち帰りたる白味噌に
僅かばかりの砂糖まぜ
芋にかけて煮て食らぶ
どろどろにとけし熱き芋
ほかほかと湯気たてゝ
美味これに加ふるなく
うましうましとひとりごち
けふの夕餉を終へにつゝ
この清貧の身を顧みて
わが残生のかくばかり
めぐみ豊けきを喜べり
ひとりみづから喜べり

                  (昭和十九年元旦作)

 

河上肇さんは、「貧乏物語」など著作があり、戦前治安維持法で長い

獄中生活を過ごした。晩年は一人暮らしであったが、詩作のこころ

は澄んでいた。

何気ない「関常」という味噌屋のおかみさんのふとした心配りが

戦争で疲弊した街のなかでも、ほっと明るく、しみじみと温かいもの

に包まれている世界があらわれてくる。

気分なんだけど、こんな気分があたりまえの世の中にくらしたいなあ。

 

 


核廃絶と戦争放棄

2016-03-01 09:32:58 | わがうちなるつれづれの記

 

 晩ごはんを食べているとき、テレビで北朝鮮への制裁を国連安保理で

すすめるというニュースが流れていた。

水爆実験や人工衛星を飛ばすといって、ミサイルを発射したことが

アメリカや日本では気に入らないらしい。

はじめ他人事のように聞いていた。

一瞬、「だけど、変だよな」というのが出てきた。

北朝鮮は国際社会の言うことを聞かないで、核兵器の開発をする、

「ならずもの国家」ということになっているけど、膨大な核兵器を

開発して、それを所持しているアメリカ、ロシア、中国が、なんで

「ならずもの」にはならないのだろう?

分からない。

核兵器が人類生存の脅威というなら、まず、核兵器をもっている国が

それらを廃棄して、それから、それでも核兵器をもちたいという国や地域が

でてきたら、「ちょとまってね」と話し合うというなら、まだ分かる。

当たり前の社会の姿って、どんなんだろう?

静かに考えてみたら、どんなことになるだろう。

核兵器なんぞなくとも、世界の各地、それぞれその地域らしく、平和に

自立して、しかもお互いの間に障壁がない、そんな世界が描けてくるの

ではないか。

そんなことできっこないとか、いやできるとか、議論したいわけではない。

人と人ということになったら、そんな実際はそこらで、現に現われている。

ジョン・レノンのように、だれでもが願っている、まず各自の夢を描きたい

んだな。

 

遠い記憶にビキニの水爆実験のことがある。

小学校低学年のころか。ラジオや新聞からそのニュースを聞いていた。

子どもなりに世の中で何かたいへんなことが起きているらしいことを

感受していたのだろう。

いま、記録を見たら、1954年3月1日にビキニ環礁でアメリカが

水爆実験をして、そこでマグロを採っていた漁船が死の灰を浴びて、

死者もでた。

(1954年とすれば、1947年生まれのぼくは、7歳、小学1年。

不安で暗い気持ちの記憶として残っている)

(えっ、今日って、3月1日だよね、朝から雪が降っていた。たまたま

だけど、核兵器のことが思い浮かんできてね。何か、虫の知らせ

みたいなものかなあ)

 

最近、鈴鹿カルチャーステーションの書架に「湯川秀樹著作集」と

いうのがあった。そのうち、「平和への希求」という巻を借りた。

何か調べたいという目的があったわけでない。

読みはじめてみると、結構おもしろい。何か、身になる感じはしないけど、

未知の世界を垣間見る感じ。

敗戦後、1946年ごろは、原子力物理学の発達が人類の幸福につながる

ことを願いつつ、破滅に向かう可能性も示唆して、人間性のテーマも語って

いる。どちらかというと、楽観的な印象があった。

ところが、1954年3月、ビキニの水爆実験で、その威力や死の灰による

被害が明らかになって一転する。

 

1954年3月に書かれた「原子力と人類の転機」から。

ーー原子力の猛獣はもはや飼い主の手でも完全に制御できない狂暴性を

   発揮しはじめたように見える。

ーー原子力の問題は人類全体としての運命にもっと直接に関係する

   新しい問題として現われてきたのである。それを転機として、人類の

   各員が運命の連帯に深く思いをいたし、原子力の脅威から自己を守る

   万全の方策を案出し、それを実現することに、いままでよりもはるかに

   大きな努力を払わなければならない段階に入ったのである。

   そしてそれには人類がその繁栄と幸福とに、もっと直接つながる

   人類的共同体の実現への大きな一歩を踏み出すことでもあるのでは

   ないか。

 

読みながら、当時小学1年生として感じていたビキニ事件を、当時、こんな

ところまで踏み込んで発言している知性があったのだった。

嬉しいような、新鮮な発見のようなものが湧いた。

ヒロシマ・ナガサキの原爆はTNT火薬にすると1万数千トンの規模。ここまでは、

まだ「強力な爆弾」という域をでなかったという。

水爆では、TNT火薬に換算すると、100万トン。この量の火薬を一箇所に集積し、

それを目標物へ運び、一点集中して爆発させるという兵器ができたということ。

考えたら、どえらいことだ。

そんなこと知って、そんな兵器を何万発も所持していると考えたら、尋常じゃ

ない、狂気の沙汰というほかない。それが、当たり前になって、人々の関心から

消えて、意識もされなくなっているのでは・・・

 

湯川秀樹さんは何年間か、アメリカでアイシュタインと研究したり、親しく

つきあっていたという。

1955年7月、<ラッセル・アインシュタイン宣言>というのが発表された。

これには、湯川秀樹さんも署名している。

水爆の脅威について、警鐘を鳴らしている。

 

ーー水爆戦争になれば大都市が跡形もなく破壊されてしまうだろうことは

疑問の余地がない。しかしこれは、私たちが直面することを余儀なくされて

いる小さな悲惨事の1つである。たとえロンドンやニューヨークやモスクワの

すべての市民が絶滅したとしても2、3世紀のあいだには世界は打撃から

回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、とくにビキニの実験以来、

核爆弾はこれまでの推測よりもはるかに広範囲にわたって徐々に破壊力を

広げるであろうことを知っている。

信頼できる権威ある筋から、現在では広島を破壊した爆弾の2500倍も

強力な爆弾を製造できることが述べられている。もしそのような爆弾が地上

近くまたは水中で爆発すれば、放射能をもった粒子が上空へ吹き上げられる。

そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落下してきて、地球の

表面に降下する。日本の漁夫たちとその漁獲物を汚染したのは、この灰で

あった。そのような死をもたらす放射能をもった粒子がどれほど広く拡散する

のかは誰にもわからない。しかし最も権威ある人々は一致して水爆による戦争

は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。

もし多数の水爆が使用されるならば、全面的な死滅がおこる恐れがある。

――瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数のものはじりじりと病気の

苦しみをなめ、肉体は崩壊してゆく。

 

 

このラッセル・アインシュタイン宣言では、核兵器の廃絶を訴えているだけでなく、

戦争の廃絶をはっきり求めている。

 

ーーさて、ここに私たちが皆に提出する問題、きびしく、恐ろしく、おそらく、そして

避けることのできない問題がある――私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも

人類が戦争を放棄するか?

人々はこの二者択一という問題を面と向かってとり上げようとしないであろう。

というのは、戦争を廃絶することはあまりにもむずかしいからである。

ーー戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかし、おそらく

他のなにものにもまして事態の理解をさまたげているのは、「人類」という言葉が

漠然としており、抽象的だと感じられる点にあろう。

危険は単にぼんやり感知される人類に対してではなく、自分自身や子どもや孫たち

に対して存在するのだが、人々はそれをはっきりと心に描くことがほとんどできない

のだ。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみながら

死滅しようとする切迫した危険状態にあるということがほとんどつかめていない。

そこで人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、おそらく戦争はつづけてもかまわない

と思っている。

ーーこの希望は幻想である。たとえ水爆を使用しないというどんな協定が平時に

むすばれていたとしても、戦時にはそんな協定はもはや拘束とは考えられず、戦争

が起こるやいなや双方とも水爆の製造にとりかかるであろう。

ーー大部分の人間は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちは次

のことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が何らかの方法で

解決され、誰もが――共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人で

あろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろう

と黒人であろうと――、出来うる限りの満足を得られなくてはならないとすれば、

これらの問題は戦争によって解決されてはならない。

私たちは東側においても西側においても、このことが理解されることを望んでいる。

私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩が

ある。

私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を

選ぶのであろうか?

私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、

そしてその他のことを忘れよ、と。

もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。

もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

 

 

とても感慨深い。

湯川さんやアインシュタインが生きていたころは、まだ人類の繁栄や幸福、

何が当たり前の社会の姿か、人間性とはどういうことか、そういうことに

ついての言葉が虚無の彼方に消えていかない確かさがあったとおもう。

 

湯川秀樹さんは1965年5月「日本国憲法と世界平和」という文章を

発表している。

 

ーー<日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な

   理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に

   信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した>

   と書かれている。これを読ん人の多くは、おそろしく現実離れしていてこれが

   複雑で変転きわまりない国際政治の中におかれている一つの国家の憲法の

   文章であろうか、と奇異に感じたであろう。

   「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という一句は、あまりにも

   はなはだしく遊離していると判断したかもしれない。それは、一応もっともな

   ことである。ところが、その後の世界情勢の変化によって、この一見現実

   離れしたしているとおもわれる文章のなかにこそ、未来を洞察する人間の

   大きな知恵が潜んでいることが、だんだんと明白になってきたのであった。

 

ーー<日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を希求し、国権の発動  

   たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する

   手段としては、永久に放棄する。

    前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。

   国の交戦権は、これを認めない。>

(ラッセル・アイシュタイン)宣言が戦争の廃絶を呼びかけているのにたいして、

憲法はすでに日本がみずから戦争を放棄することによってこれに応えていた

のである。

 

そういう世界観からみると、今は狂気の世界で、ああしたらいい、こうしたらいい、

と右往左往している人と社会のありさまに見えてくる。

晩年、湯川博士は「こんなシンプルで当たり前のことが通じないんだよね」と

語っていたという。

いまも、ニュースで北朝鮮へ制裁を厳しくやっていこうというニュースが

流れていた。

ニュースで流れると、それが当たり前として、ぼくらの頭にすりこまれて

いくんだろうな。

 

人はあらそわないのが本来で、当たり前の姿じゃないのかな。

社会も戦争なんてないのが当たり前だし、だれもが願っていることじゃない

のかな。

ほんとうは争いたくないけど、相手が攻めてくるから守らなくてはというけど、

そこが人間としての人間性を発揮するやりどころじゃないか、湯川博士に

共鳴する。

 

 

湯川博士は、1956年3月、「科学と人間性」という文章のなかでこんな

ことを言われている。

ーー・・・思考者としての人間、観察者としての人間、行動者としての人間、

その他、いろいろな側面から見られた人間が、全体として統一された人間像

というようなものを形づくっているということ、これははじめから分かっている

いることである。いいかえれば、一口に人間性と言われるところのものは、

さまざまな要素、さまざまな側面があって、それらの全体が生きた人間の

中にある統一をもって共存していることは、自明の事実であって、われわれの

考察は、むしろそれを出発点とすべきであったともいえるだろう。

 

 

日本国憲法9条を破壊する根拠に昨婚今の情勢、北朝鮮や中国の脅威を

言い立てている人たちがいる。

そんなことで、いままでも、争ったり、戦争したりしてきているのだ。

本来の人間、当たり前の人間の姿があるはず。

生まれてきた赤ちゃんは、当たり前の姿の人間の根源であるし、なんどでも

ここを出発点にして、成長のプロセスでいろいろな障がいがあっても、人間性

が発露できるよう、みんなの知恵と心を寄せ合うことではないだろうか。

 

 

2011年3月11日には、東北大震災、福島第一原発爆発事故が起きた。

ビキニの水爆事件も1954年3月だった。

ぼくの誕生日は1947年3月2日。これは、関係ないかあ。

 

あのね、この間、岩田隆画伯が中学生とアートスクールという教室を

やっているんだけど、「ねえ、ねえ、すごいんだ」といって、何枚かの

その子どもが描いた絵を見せてくれた。

子どもたちには、自分のにあるこころを、絵にしてみて、という投げかけを

したという。

「明日」というタイトルで描いてきたという絵が印象的だった。

 

 

絵で足みたいな形が描いてあるけど、描いた本人は足だという意識は

なかったという。何か、全面は黒っぽく、これが、この子にとって「今」

のイメージかもしれないと、岩田さん。

「でも、向こうにある7色の世界がなにかいいんだよね」

ああ、ほんとうに、そうだなあと共感した。