かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

もうろうたる日

2013-07-06 08:15:13 | わがうちなるつれづれの記

 きのうの夕方、わが家にいて、気がついたら、Tシャツが

ぐっしょり汗ばんでいた。

 ジトジト落ち着かない。

 「お茶でも飲みにいこうか?」と妻を誘う。

 一軒目が休みで、「じゃあ」と、家の近くの炭焼珈琲の

店に行く。この辺に暮らして2年。はじめてでかける。

 ブレンドコーヒー、けっこういける。

 しばらくいると、汗が引いてきた。

 周囲を落ち着いて、眺められる気分になってきた。

 

 そのうち、二人して、手帳を出して、「この日はこれがある」

とか、「ウリさんは、この日食事にくるかな」とか、日程の付け

合わせがはじまった。

 最近、ちょっと気になっていることがある。

 その日や明日やあさって、どんな予定があるか、頭が真っ白に

なった感じで、さっぱり分からなくなる、もろうたる感じのときが

しばしばある。

 20年以上前から、予定は覚えられないとして、手帳を使って

いる。

 最近は、携帯に入力している同年代もいるけど、そっちに

いかない。文字で、一覧できないと、安心できないのかな。

 今年から、手帳を、ズボンのポケットに入るサイズから

単行本の大きさぐらいのに変えた。欄が大きくなり、予定が

ゆったり書ける、とおもった。

 

 手帳にけっこう、こまめに予定を書く。何ヶ月先のもの

まで、律儀に書く。

 夜、寝る前には、「明日はなにがあったけ」と手帳を

みることは見る。

 その日になって、ついさっきまで、そうしようとしていたのが、

なにかのことに夢中になって、予定のところに行くのを忘れている。

 電話がかかってきて、われに返る。


 人と話していて、きょうが何月何日の何曜日かというのが、

突然、砂漠のまんなかにほうり出されたような感覚で、分からない

という感じに見舞われる。

 「えーと、えーと」とかいいながら、手帳を開き、「ああ、ここ、ここ、

これがある」と、もうろうたる世界から今に立ち返る?


 以前から予定をダブルブッキングする常習者で、「まあ、そんな

こともあるさ」と他に迷惑をかけ、、じぶんも消耗するのに、反省

なしでやってきて、そのツケがまわってきている、ともいえるの

かな。

 いまからでも、なんとかなるか?


 毎晩、なにやることがないと、9時か10時ごろ、目を開けていられ

なくなる。そのまま、寝てしまうのはいいが、ときに2時ごろ、目が

覚める。

 その後、眠れないときがある。

 ああ、きのうがそうだった。


 眠られないままに、歌人河野裕子さんのエッセイと歌を

読んだ。

 河野裕子さんは1946年生まれ。育った場や環境は違えど、

同時代を生きたという、近しさがある。

 2000年に癌が発見され、その後10年の闘病生活。

 夜とはいえ、熱帯のムンムンした部屋で、気がついてみると、

もうろうと、河野裕子さんのエッセイや歌のなかにいた。

 

 癌の告知を受けたのち、夫と病院の路上で出会う。

 そのときの歌。

    何という顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢゃない


  エッセイや歌を読んでいると、それを書いた同じころ、ぼくが

どんなことを思い、どんなことしていたか、思いだされた。

 そのころ、河野裕子さんは、死と隣り合わせになりながら、

とってもあたりまえに、じぶんの心の深いところと向き合っていた。

響いてくるものがあった。しんしんと静寂の余韻のなかにいた。

 

 河野裕子さんが亡くなったのは、2010年8月。

 夫君永田和宏さんが、亡くなる直前に近いときの、河野裕子さんの

言葉を紹介してくれている。

  ーーひとつ思うのは、体を病んでいても、歌は健やか歌をつくり

     たい。健やかであること。

     それが、どんな場合にも大切で、ことに、病気をしていても、

     健やかであり続けることは、大きな広い場につづく道がある

     ことを約束している予感が、しきりにする。


 河野裕子さん、最後の歌は永田和宏さんが聞き書きしたそうである。

    手をのべてあなたとあなたに触れたとき息が足りないこの世の息が


 

 これで眠れるか。床に戻る。

 妻は寝息を書いている。

 しばらく目をつぶっていたが、またゴソゴソ起きだして。

 中井久夫さんの「樹をみつめて」をひっぱりだす。

 

 沖縄には、フクギという木があるそうな。

 なんの役にも立たないという。そんなに美しくもなく、実も

落ちると悪臭を放つとか。

 そんな木を「福」の木と読んでいる。

 

 人の目を中心に据えたら、人の役に立たない、醜い木に

なんの意味があるというのか、ということになるのだろう。

 ふりかえってみると、やることばかりに関心がいって、

人の気持ちに関心がいっていないというのは、人を

なにかの役に立つ、役に立たないというところで評価している、

とっても幅った姿なんじゃないか。

 中井久夫さんは言う。

 「おそらく無用に見えるものの存在を肯定すること自体が

福をもたらすのであろう」

 これが、「沖縄の心ばえ」と言っている。

 

 もう、ほんとうに朦朧としてきている。

 何時だろう、4時になろうとしている。

 少し、明け方の涼しさにかわってきていた。

 毛布をかぶっていたら、いつのまにか、ウトウトしていた。