妻は日曜の昼から一週間、お出かけした。
サイエンズスクール「人生を知るためのコース」
日が照って、蒸し暑い日だった。
春も、一週間「内観コース」に出かけた。
「行ってもいい?」と妻。
その時は、「ああ、清々する」とうそぶいていた。
その間、体調がおかしくなり、隣に妻が居てくれる
有り難味が身に滲みた。
今回は、すこし謙虚だ。
コースの参加は応援したい。ひとりは、なにかすがるものが
ないという、たよりなさの感じ。
「ああ、妻にもたれているのかなあ」つぶやき。
「行ってもいい?」と妻は念を押してきた。
「ああいいよ。桃子の世話になろうかな」
晩ごはんは、娘や孫の風友と晴空がやってきた。
賑やかな夕餉。
やがて、彼らは、ワイワイいいながら、娘のアパートに
帰って行った。
部屋にひとり。
いつもは、取り立てて話すこともないが、食後、
妻がお茶を入れてくれて、テレビを見たり、いつの
間にか妻が居なくなると、隣の部屋でパソコンで
トランプゲームをしている。
その妻が隣にいない。
昨年末、心臓が止まった。隣に寝ていた妻の機転で
障害もなく、生命を長らえた。
「奥さんに感謝しなさい」と多くの人から聞いた。
妻も隣にいて、発見が早かったことを安堵している。
除細動器を心臓のところに植え込んだ。
これなら、いつどこで発作が起きても、心臓のはたらきを
とりあえず保ってくれるという。
かといって、サイボークになったわけでもないだろう。
いずれは、この世とおさらば、となる。
その後、息切れが顕著になり、めっきり体力がおちた感が
ある。一方、顔の色艶がなんだかよいらしく、人に会うと
「元気そうですね」と声をかけていただく。
「ええ、まあ、ぼちぼちです」と口ごもる。
食後、すぐ寝てしまって、夜中に目が覚める。
そんなときでも、隣にはいつもいろんな格好で寝ている妻
がいた。
今はその影すらない。
晩ごはんのとき、孫の晴空が雄一くんに、突然、
「ねええ、ねええ」と問いかけていた。。
「地球が星の周りりを回っているの、それとも星が地球の
周りを回っているの?」
「どうして、そんなことかんがえた?」と雄一くん。
「だって、地球と星がいっしょに回るなんて、できないでしょ」
「うーん」と雄一くん。
「地球と星がどんなことになっているか分からないけど、
地球も星もぶつからないで、やってるよな」これは、ぼく。
晴空は、宇宙のことを想像している。
図書館や学校で、そのきっかけをもらってくるようだ。
子どもは、無邪気に遊びまわっているだけではないんだ。
「ねえねえ、人ってどこからきたの?」とまた雄一くんに
問い始めた。
「人って」という言い方が晴空のなかにあるんかあ。
「晴空は?」と雄一くん。
「ママのおなかから」
「じゃあ、ママは」
「オジジ」
「そのオジジは?」
そしたら、ずっとずっと前から、これだと決められないけど、
ずっとずっと、おそらく宇宙のどこかに、はじまりはあるかも
しれない、でも、分からない。
どこまでも、続く。
「どのくらい前だとおもう」と雄一くん。
「100年」と晴空。
暗い部屋でひとり寝ていると、「ひとりなんだ」という
実感がわいてくる。
「寂しい」みたいなもの、たしかにある。
不思議だけど、「うひひひ、ひとりなんだ」という愉悦感
みたいなものもある。
枕元には、読みたい本を何冊か置く。
蛍光灯をつけて、妻が目を覚まさないか、気をつかわなく
てよい。
カラダを大の字にして寝る。ひろびろしている。
どっちが先か。この世とあの世のこと。
昨年はぼくだけでなく、妻も自転車でコケて、足のじん帯が
切れて、一ヶ月ほど肢体不自由の暮らしをした。
「ああ、こんなことがあるんだ。先にいくのは、ぼくだと固く
決めていたけど、こんなことどっちが先かなんてわからない」
いまのところ、「どうも、やはり、ぼくだろな」に傾いている。
妻のいない暮らしを想像したくないのかなあ。
ひとりといっても、娘一家は近くにいるし、親しく暮らしていこうぜ、
という人たちも周りにいる。
カラダの衰えを感じている。
いままでのように、「おれはひとりでやれる」といきがるものは
なくなってはいないが、薄くなっている。
谷川俊太郎さんのエッセイを読んでいて、偕老同穴という
四文字熟語を知った。
「夫婦の仲がよいこと。ともに老い、ともに同じ墓に入ること」
いやあ、そういう意味かあ。
妻とは、27年連れ添っている。
いろいろ世話になったし、迷惑もかけてきた。
ここ3年ほど、やっと「通じる」という感じがでてきている。
「ともに墓に入るかあ」そこまでは、おもってもみなかった。
谷川さんは、「ひとり暮らし」というエッセイのなかで、
家族についてこんなこと言っている。
ーーもたれ合う、依存し合う家族よりも、ゆるやかな
絆でむすばれた個人の集まりとして家族をとら
えるほうがいいのではないかと、その是非はともかく
として私はかんがえるようになっています。
たとい血がつながっていようと、結婚の誓いを
ともにしていようと、自分ではない人間を一個の
他者と考えることが必要な時代になっていると
思うのです。
「もたれ合う」「依存し合う」
言葉の意味はなんとなく分かるし、「したほうがいい」とか
「しないほうがいい」とか、そういう心のなかの反応もあるけど、
じぶんのアタマのほうにばかり関心がいっていて、実際が
どうなっているか、自縄自縛・こんがらがっていては、そこは
見えてこないのでは・・・
足下にある世界には、「もたれ合う」も「依存し合う」もないこと
霧が晴れるように、見えてくるときがくるはずだ、いのちある
間に。