かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

沸騰している?このいのち

2012-11-07 07:29:17 | わがうちなるつれづれの記

  「ゆっくりしたいなあ」という気持ちがちらっとした。

 何回か、よぎった。

 そういえば、夏から毎日、ずいぶん忙しかった・・・

 

 「やることがいっぱいあった」

 コトバにしてみると、こういう言い方ででてくる。

 さて、「やること」ってのは、どこにある?

 

 「やりたいことがいっぱいある」ともおもう。

 「やりたいこと」って、どこにある?

 

 「やったこと」はじぶんの記憶のなかにある?

 「やりたいこと」は?

 まだ、やっていないのだから、じぶんのおもいのなかにある?

 

 「やりたいとおもう」というのは、金魚の水槽に酸素を入れた

ときのように、泡がぶつぶつと、浮かんでは消えているかのよう。

 人と話していても、なにかのものを見たときとか、

テレビで食べ物や旅番組をみているときも・・・

 

 その泡のようなおもいのなかから、「これは、ぜひ」と

なるとき。

 そのとき「やりたいことに」になるのか?

 いやいや、「やりたいと強くおもった」となるのか?

 

 最近は、どうもその辺が整理ができていないじゃないか、と

振り返るときがある。

 「やりたいこと」って、どこにあるのだろう?

 「やりたいというおもい」に過ぎないのに、「やりたいこと」と

なったトタンに、なにか「そういうこと」に縛られるような感じ・・・

 そんな感じ・・・

 

 「あれやって、これやって、ああ、そうそう、あれもやらなくっちゃ」

 

 そんなときの「やらなくっちゃ」というのは、どういうことだろう?

 

 ごくごく、当たり前のようにおもっているけど、ほんと、そうだろか、と。

 

 幼い子どもに「やらなくちゃ」ってあるだろうか。

 成長するというのは、「やらなくっちゃ」を身につけていくことなのか。

 「やらなくっちゃ」がなければ、一人ひとりが、ちゃんと暮らせないか、

社会も平穏無事におさまらなくなるだろうか。

 

 「やらなくっちゃ」が、どうも後から身についたもので、

これがなくては、暮らしていけない、生きていけないぐらいに

なっているけど、ホント、そうだろうか?

 

 「やらなくっちゃ」がなくても、「やりたい」「とってもやりたい」、

これだけでいけるのでは・・・

 

 世界がかわる?

 

 先日、細胞生物学者で、歌人でもある永田和宏さんの

「時間という錘」(2009年)というエッセイを読んだ。

 

 その一節。

  「1ミリの百分の一程度の一個一個の細胞のなかでは、

約八十億個のタンパク質が働いて生命活動を維持しており、

活発な細胞では、一個の細胞のなかで一秒間に数万個の

タンパク質が作り続けられている。

 数万掛ける六十兆、一つの個体内タンパク質の数を考える

と、気が遠くなりそうである。

 細胞を、そして生命を維持するのはたいへんなのである」

 

 もう一節。

 「あるとき(詳しくは説明しないが)、私は不意に、サイエンスと

文学はまったく違ったものなのだということに気がづいた。

 まったく関係なく、二つのことを同時にやることに、なんの理由も

意味もないのだという、まことに当たり前の、単純なことに気が

付いたのである」

 

 永田さんが言わんとしていることに、副っているかどうか。

 じぶんとしては、「やらなくっちゃ」というもから解き放たれ

た!という読後感をもった。

 細胞やいのちの活動そのままに・・・

 

 こんな個人のイメージをそのまま、社会のことに変換なんかできない

だろう。

 ただし、これは一面としても、人間の本来のすがたにふさわしい

社会の仕組みを検討、構想、試み、実証していくことは、できるのでは・・・