かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

j自分を知るコースに参加して

2011-06-11 17:55:53 | サイエンズスクールのある暮らし
 昨年の初めに参加して、今回で2度目。
 自分を知るとはどういうことか。
 そのイトグチは、自分が見たり、聞いたり、思ったりしていることが、自分のなかで、どうなっているかを観察することからはじまると思った。
 「うちわを見ているのか」「見て、うちわと思ったのか」
 
 途中、歯が痛くなり、歯医者に行こうと思った。歯医者にいく日の検討会の時間が午後1時から夜までになった。2日後にも、歯医者に行った。このときも、検討会を午後からになった。
 この「なった」ということをしらべた。検討会は午前8時30分から午後6時までと案内の紙に書いてある。なんとなく「そうなっているんだなあ」ととらえている。検討会の時間を変えることを「そうなっているのを変える」としている。じっさいは、どうなっているのか?
 まず、そうなっていることがあって変えたのか?
 そして、「そうなった」のか?
 実際には、歯医者に行きたいというぼくの希望があって、そこから一人ひとりがなにかした、そのときの状態があるのではないか。
 「そうなっている」
 「そうなった」
 そういう事例を自分のなかにしらべていくと、ほとんどそれによって行動しているのではないかと見えてきた。
 
  じっさいを見ようと思っているけど、実はじぶんの考えが正しいとして、狭い世界におちいりやすい回路にきがついた。
 
 みゆきさんが、散歩のとき、「門から玄関までうーんと離れている家を見て・・」という例をだした。ぼくも、その日散歩で、そういう家を見た。
ぼくの感想。「そういう家をつくるには作る人のなにか考えがあるのだろうな」これって、なにか、どこか、すわりがよくない。
 「そういう家」といっているぼくのなかはどうなっているのだろう?
なにを見て、そういう家といっているのか?ぼくのなかにどういう感覚があるのだろう?「そういう家」とはじめから、きめつけているのではないか?自分の感覚だという自覚があるだろうか?
 じぶんの感覚だという自覚があったら、その家をつくった人の実際にもっと関心がでてくるのではないか。人と人とが、心底よりよき方向へ話し合っていける希望がそこに生じるのではないか。

 「私はなぜここにいるのでしょうか」という問い。
 わたしがいま、ここにおることの、実際てどんなことかと考えた。
 「自分を知るとは、どういうことだろうか」
 じぶんの実際を知るとはどういうことだろうかと考えた。
 「知る」
 「知っている」とは異う。
 実際を知ること。どこまでも、どこまでも、それに近づいていくこと。
 それしかない、それだけの途。
 なにも、いまあるものを変えなくてもよいように思える。
 実際を知れば、知るほど、当たり前の世界が現前するような、そんな予感。
広々として、活気にあふれ、興味深々、しらべればしらべるほど、尽きない関心がわてくるような・・・