北風が強かったが、寒さはそれ程でもなくまずまず。右写真のetrexの表示のとおり、歩行距離13.6㎞、3時間10分で、休憩を含め4時間35分だった。何時も通り北口から西・中央・南口を経て戻った。
写真左は、etrexのデータをカシミール3Dに読み込み、地図に表示(歩いたコースは紺と赤の線で表示)したもの。
カメラを忘れて写真は撮れなかったが、花の咲き具合は前回(16日)とあまり変わらず、梅・水仙・福寿草の花が少し増えたかなといった感じだった。
北風が強かったが、寒さはそれ程でもなくまずまず。右写真のetrexの表示のとおり、歩行距離13.6㎞、3時間10分で、休憩を含め4時間35分だった。何時も通り北口から西・中央・南口を経て戻った。
写真左は、etrexのデータをカシミール3Dに読み込み、地図に表示(歩いたコースは紺と赤の線で表示)したもの。
カメラを忘れて写真は撮れなかったが、花の咲き具合は前回(16日)とあまり変わらず、梅・水仙・福寿草の花が少し増えたかなといった感じだった。
社会学者の著者がフィールドワークの調査結果として、’94年に発表したものを文庫化(2006/12)した。
文庫化にあたって、新たな対談と解説を収録していて、これが面白い(勿論表題作も、だが…)。
一編は、「大人になった制服少女達」と題し、著者と当時の援交少女だった3人(中山美里、大泉りか、山崎優子の各氏)のもの。
もう一編は、著者の後に同様のフィールドワークをやった圓田浩二氏と「何が問われ、何が問われなかったのか」と題するもの。
前者の対談で氏は、”何故援交少女を擁護したか”について、次の4点を上げている。第一に、バターナリズム(父性的温情主義)批判。第二に、「まったり革命」として援交少女をとらえられるのではないかということ。第三に、自身が革命を目指し挫折したことから、援交少女の生き方と重なって見えた。第四に、東大助手時代につき合っていた人が援交の経験者だったので、彼女をサポートしてあげたかった。と、云っている。
そして同じ対談で、以上のような理由で、援助交際する女性達の生き方を肯定的にとらえていた。でも、今は間違っていたと思っている。何故かというと援交少女達のその後を観察すると、あまり幸福になっていない例が目立つ(P159)、ということから。
これをとらえて、解説(中森明夫氏)-23頁もある-で宮台真司の転向という題で論じている。これも面白いが、長くなるので省略する。
あの頃は、ダイヤルQ2とかテレクラで援交していたのが、今では、出会い系サイトを通じて業者が参入してきているという。一般にこの業界では規制や取り締まりが厳しくなるほど、売春リスクが高まるので、リスク処理をする非合法の業者が入ってくる(著者と圓田氏との対談-P335-)のだという。
当時通勤途上、電柱に「援助交際希望」という張り紙を見たときのことを思いだした。うん?援助?って何だ?学費が無くて困っている子に、金銭を援助してやるのかな…?と、考えたのだった。女子高生が身体を売るなどとは、考えが及ばなかった。
あの頃、何気なく見過ごしていた現象も、このように学問的にみると、面白い。