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人身御供・人喰い伝説のある失われた文明の遺跡、「猿神王国」ついに発見か?(ホンジュラス)

2015年03月16日 | 世界びっくりニュース
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 アメリカとホンジュラスの考古学チームが、失われた文明の遺跡を発見したという驚くべき報告を発表した。ここは、「猿神王国」あるいは「白の都(シウダー・ブランカ)」という古代文明にまつわる伝説が存在し、その遺跡がどこかに眠っているといわれてきた場所である。

 この遺跡はかつて、1人のアメリカ人探検家によって見出されていた場所でもある。

 遡ること、75年前、1940年7月12日、アメリカ人探検家のセオドア・モーデは中央アメリカの薄暗いジャングルで、驚くべき発見をしたと語り出した。

 モーデは実在したインディ・ジョーンズであり、戦時中はアメリカのスパイとしても活躍した人物だ。当時、国立アメリカン・インディアン博物館に誘われて、アステカやマヤにも匹敵する謎の文明が築き上げた、大量の黄金が眠ると噂される”白の都”の発見に尽力していた。

 白の都は数世紀にも渡って冒険者たちが探し求めてきたもので、16世紀初頭にスペインが中央アメリカを征服したとき、征服者たちが莫大な富を蓄えた都市の噂を聞きつけたことが発端とされている。しかし、モーデが発見したと告げるまでの数百年間、これを発見できたものは1人としておらず、ニカラグアと国境を接するホンジュラスのモスキーティア地方の熱帯雨林の奥深くで眠り続けてきた。


アメリカ人の探検家セオドア・モーデ

 ついに白い石壁の都の残骸を抱く隠し谷に辿り着いたモーデは、そこで出会った地元のインディアンから話を聞いた。その話によると、古代マヤ文明と同時代の白の都の人々は、奇妙な猿の姿をした神を崇めていたらしく、その巨大な神像は未だに土の中に埋もれているということだった。

 また、彼らには猿神に人間を生け贄として捧げ、儀式の最中にその犠牲者を食べる習慣があったそうだ。モーデ自身もわずかな滞在期間中に不穏な儀式を目撃したと語っているが、そこでは熱に浮かされたかのような地元民が猿を殺して食べるカルト的行為が行われていたらしい。

 そうした発見の証拠として、モーデは石器や小さな猿の仮面など、いくつかの遺物をアメリカに持ち帰っていた。だが、略奪を恐れて、白の都の正確な場所を明かそうとはしなかった。そうこうする間に1954年に謎の死を遂げ、その秘密は葬り去られてしまう。


白の都はヒンズー教のハヌマーン(写真)にも似た猿の姿をした神の寺院だった。

 モーデの死以降、密林の探索が何度も行われたが秘密が解き明かされることはなく、いつしか彼の発見は自分を売り込むための作り話だと見なされるようになった。森林の木々越しに、白い建物の先端を目撃したという報告もあったが、それは単なる石灰岩の崖の見間違いだろうと相手にされなかった。

 だが、ついにアメリカとホンジュラスの考古学チームが白の都から帰還を果たした。急峻な山に囲まれた盆地状の熱帯雨林の中に猿神の都と思われる遺跡を発見したと発表したのである。



 調査に同行したナショナル・ジオグラフィック誌によれば、考古学者によって「広大な広場、土塁、古墳、土のピラミッドが調査された。これらは1,000年前に繁栄し、忽然と消え去った人々の文明」とのことである。また、都が捨てられて以来、手つかずのまま残されていた素晴らしい石の彫刻コレクションも収集された。

 コロラド州立大学の考古学者クリストファー・フィッシャー氏らは、ピラミッドの地下で発見された彫刻は猿神へ捧げられたものだと推測する。



 同チームが遺跡を最初に発見したのは、3年前に航空測量をしていたときであった。このとき使用していたレーザー光はジャングルの樹冠を貫通できるもので、これが考古学の大発見に繋がったのだ。

 それによれば遺跡は渓谷を流れる川に沿って1.6km以上も広がっていた。この人里離れた一帯はコカイン売買の主要なルートで、研究チームにはホンジュラスの特殊部隊と元英SAS隊員が随伴している。キャンプには野生動物が頻繁に訪れたが、それ以前に人との接触した経験がないのは明らかであった。



 発掘を進めるまでもなく、地面から顔を除かせていた52個の遺物が見つかった。その中には石製の儀式用座席や、ヘビ、コンドルなどの動物があしらわれた器もあった。

 だが、最も興味をそそられるものは、恐ろしげな牙を生やした半人半獣の頭部を象った石の彫刻だろう。フィッシャー氏の考えでは、”オオカミ男”ならぬ、”ジャガー男”とでも形容できそうな精霊であり、トランス状態にある司祭を表したものだ。


一部が人間で一部がジャガーの姿をした石の彫像

 この古代文明についてはほとんど何も判っておらず、正式な名称すらない。ちなみにモーデはそこの生きる人たちをチョロテガ人(Chorotegans)と呼んでいた。そして彼自身もまた、飛行家のチャールズ・リンドバーグが1927年の飛行中に「驚くべき古代都市」を目撃したと繰り返し話した後で、大勢現れた探検家の1人であったのだ。

 1930年代、アメリカン・インディアン博物館の創立者であるジョージ・ヘイがスポンサーとなり、2回の探検計画が王立地理学会の会員スチュアート・マリーによって遂行された。だが、彼が発見したのは、原住民は失われた”猿神の都”に住む”悪魔崇拝者”であるという黒い噂でしかない。



ヒューストン大学と国立航空レーザーマッピング研究所が作成した3次元デジタル位相マップ。赤い丸の中に人工的な広場の形跡がある

 また別の伝承が伝えるところでは、猿神は半人半猿の子孫を残しており、彼らは”毛深い人々”と呼ばれていた。地元民は、大昔に猿が村から乙女を攫い、混血児を生ませたと信じている。彼らによれば、遺跡は呪われているそうだ。

 セオドア・モーデはヘイ氏の第3回目の探検リーダーとして任命されたのだが、飢えと病気と疲労で数ヶ月苦しんだ後、計画を諦めようとしていたと述懐している。そして、彼が小さな崖の上から何かを目にしたのはまさにその時だった。それは壁に囲まれた石造りの遺跡で、「見事な都市だ…その最盛期には数千人の住民が暮らしていたに違いない」とモーデは記している。元々の壁は高さ9mと推定され、そこで目にするほとんどには猿の肖像が彫られていたそうだ。

 滞在中、本物のクモザルが興味深そうに木の上から探検隊を覗いていた。植物が生い茂り視界が悪かったが、ガイドが遺跡の中央にある巨大な古墳を見せてくれた。その土深くに埋まっていたのは、長い階段を備えた巨大な寺院で、「猿神の像が鎮座していた高座」へと続いている。ガイドの説明では、そこが「生け贄を捧げる祭壇」だったらしい。



大昔に猿が村から乙女を盗み出し、混血児を生ませたという伝承がある

 生け贄に関しては、モーデと相談役の民俗学者はこれが後にアステカ文明に受け継がれるようになったと確信していた。毎年、健康な肉体を持った若者がその年の猿神への供物として選ばれていたのだ。生け贄に選ばれた若者は崇拝され、選りすぐりの美女が与えられた。だが、12ヶ月の後、ピラミッド状の寺院の頂上で催される儀式で殺されると、心臓が取り出される。身体は階段の下へと投げ出され、そこでバラバラに切り分けられる。これを司祭が信者に分け与え、彼らは家に持ち帰って食べるのだ。

 ある晩、モーデは地元民の集団が禍々しい儀式的な舞踏を演じる場面に遭遇した。彼らは槍の切っ先に3匹のクモザルを突き刺し、これ見よがしに振り回していた。火の上で猿をあぶり出すとまるで生きているかのように手足が縮む。最後には部族全員でそれを食べていた。

 儀式を取り仕切っていたのは、地元のシャーマンだ。腰巻き以外は裸という出で立ちで、身体には白い模様が描かれている。また、猿の胎児の小さな頭蓋骨、黄ばんだ人間の歯、蛇の毒嚢で飾られたネックレスが恐ろしげな風貌を演出する。

 指の先端にはアリゲーターの牙が付いている。途中で、1匹の大きなクモザルを射た矢を誇示し始めた。またある時は、空洞にした竹の筒を焼いた猿の眼窩に突き刺し、脳を啜る仕草を見せた。

 このシャーマンは猿神の司祭の末裔なのだろうか? 地元民によれば、儀式は大昔に攫われた乙女たちに捧げる、猿への復讐の踊りだということだった。モーデは遺跡で2日間過ごしたが、モンスーンの季節だったため、発掘調査を実施する前に帰還せざるを得なくなる。


森の中で発見された遺跡の石を調べる科学者たち

 そして、現在になって彼の発見はようやく日の目を見ることになった。地元民が警告したように白の都が本当に呪われているのなら、モーデはその代償を払ったのかもしれない。彼は不可解な状況の中で謎の自殺を遂げている。

via:dailymail

☆貧乏くさい文明に思えるのだが・・・!

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