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神々が住む謎多き古代都市、メソアメリカ「テオティワカン」に関する10の考察

2017年05月19日 | 世界びっくりニュース
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 現在は世界遺産となっている古代都市、テオティワカンは、メキシコの首都メキシコシティ北東約50キロの地点にあり、紀元前4世紀から6世紀まで繁栄したとされている。

 その最盛期、エジプトのものに匹敵するピラミッドがいくつも建設され、まさに世界最大の都市であった。しかし、この都市についての記録はほとんど存在せず、今もなお謎だらけである。わずかに残された手がかりから当時の姿を推測できるのみだ。

10. 建設者は不明


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 スペインのコンキスタドールが初めてテオティワカンを目にしたとき、そこにはまだアステカ人が暮らしていた。だが彼らはここに移住して帝国を作ったのであって、都市を一から築き上げたわけではない。

 アステカ人がやってくる1,000年前、マヤ人がやってくる500年前からそこにあったのである。考古学的な調査からは、紀元前400年頃に建設が始まったらしいことが分かっている。そこには溶岩流で形成された地下洞窟の入り口があった。それを聖地と考えた古代人が神殿を建て、そこで暮らすようになったと推測される。


9. 火山が大都市を作り上げた


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 テオティワカンが繁栄の一歩を刻んだ当時、クィクィルコ火山が噴火した。大規模な共同体が吹き飛ばされ、生存者は新たなる家を求めて旅に出た。たどり着いた先がテオティワカンである。

 だが生活は一変。自然の力とそれによる破壊を目の当たりにした彼らは、神を頼るようになった。新しい安住の地となったテオティワカンは単なる都市ではなく、自然の力から逃れ、神々の庇護を得るためのシェルターであった。

 一説によると、ピラミッドは故郷を破壊した火山を模したものだという。神官たちの役割は、神々の力で災害を防ぐことだ。テオティワカンに定住した難民たちは、故郷のクィクィルコを偲び、石像を残している。


8. 生贄の儀式


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 テオティワカンの神々は血を欲する。彼らはアステカやマヤの神々とまったく同じではなく、また不明な点も多い。確かなことは、神々には生贄が捧げられていたということだ。

 太陽のピラミッドの地下トンネルには、生贄が埋葬されていた墓地が4ヶ所ある。うち3ヶ所からは、大人だけでなく、子供の遺体も発見されている。ピラミッドの新しい層が作られるたびに、惨たらしい人身御供が行われていたと考えられている。月のピラミッドからは動物の死体のほか、12体の人間の遺体も発掘された。うち10体は首を切断したものだ。


7. 太陽のピラミッドの儀式


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 太陽のピラミッドは現在でもなお世界で3番目に大きな建造物だ。それは都市が始まった聖なる洞窟の上に建てられている。そこは太陽が誕生すると信じられていた場所だ。

 当時、頂上には祭壇があり、儀式が行われていた。その内容は推測するしかないが、単なる祈祷の類や、あるいは後にアステカ人が真似したような心臓を抉り出すようなものだったかもしれない。テオティワカンの支配者層の家からは翡翠のマスクが発見されている。儀式の最中、緑のマスクを被った権力者たちが太陽のピラミッドの神官たちに加わったのだろう。


6. かつての西洋最大の都市


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 紀元前100年頃までに、テオティワカンは西洋世界最大の都市にまで発展している。一部の推定によると、最盛期の人口は20万人であったという。これに匹敵する都市は1400年代になるまで登場していない。

 これほどまでに発展した理由は、それが一帯における宗教の中心地であったからだ。太陽の動きをなぞった長方形のグリッドでレイアウトされ、「死者の大通り」という大通りが中央にある大ピラミッドまで伸びていた。各地から人々が集まり、700年間も世界最大の都市であり続けた。


5. 多文化都市


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 アステカ人はテオティワカンを作り上げた人々のことを知らなかった。どうやら彼らは単一のグループではなく、現在のニューヨークのような多文化都市だったようだ。

 テオティワカンはマヤ、ミシュテカ、サポテカの文化エリアに分けられ、それぞれに独特の神殿や遺構が残されている。だからといって、人々が平等だったということではない。一般人はそれぞれの神殿を建て、儀式を執り行うことを許されていたが、支配者層が暮らすピラミッドのある中心部からは隔離されていた。

4. 軍隊による支配


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 テオティワカンは周辺地域に対して強大な権力を誇っていた。周辺諸国と貿易が行われ、メソアメリカの宗教を完全に作り変えてしまったようだ。しかし周辺諸国を支配した方法については明らかではない。壮大なピラミッドを作ったことで、単純に畏敬の念が払われていたのだろうか。だが、あるいは力で支配したという可能性もある。

 テオティワカンの壁画には、目をゴーグルで覆い、頭部を羽根飾りで飾り、手に武器を握る、かつてそこを守ったであろう戦士が描かれている。その彼らが人々を強制するために使われていたと信じる理由がある。

 ケツァルコアトルの神殿は、戦争の神を象った羽の生えた蛇の彫刻で覆われている。神殿が完成したとき、200人が生贄に捧げられた。後ろ手に縛られ、穴に埋められたのだ。犠牲となったのは地元の人々ではない――打ち倒され、捕獲された他の都市の人々である。


3. 地下の秘密トンネル


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 太陽のピラミッドとケツァルコアトルの神殿には地下トンネルがある。ケツァルコアトルの神殿のものは、底部の陥没穴によって発見され、100メートル先の中庭まで続いていた。単なる通路などではなく、神々へ生贄を捧げる場所だったようだ。

 そこにある十字型の部屋の内部からは供物が発見されており、ネックレスや小さな像のほか、人間の皮膚まであった。理由は不明であるが、1,800年前に封鎖され、再び発見されるまで誰の目にも触れることがなかった。


2. 落日のテオティワカン


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 アステカ人がここを発見したとき、すでに廃墟となっていた。テオティワカンが滅んだ理由は分からない。最も有力な説は、暴動が原因であるとするものだ。都市の周辺に住むことを強制されていた750人の一般人が、支配者層に反旗を翻したのだ。

 当時、一帯ではひどい干ばつが発生していた。貧しいものは飢えたまま放置されていた可能性が高く、支配者層が所有していた建物が狙われたというわけだ。

 都市が崩壊し、人々は去った。散り散りとなり、それぞれが新しい共同体を作り、新しい土地への定住を記念して生贄を捧げた。150人が生贄にされた事例もある。かつて共に暮らしていた彼らだが、まもなく敵対するようになり、戦争と混乱の新しい時代が幕を開けた。


1. アステカが宗教を模倣


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 それから600年間放置され、1300年代にアステカ人がやってきた。彼らには単なる人間がテオティワカンのような壮大なものを作れるなど想像もできなかった。ゆえに神々が自らを生贄に捧げ復活するための場所であり、また彼らが世界を作ったその場所であると信じた。

 アステカ人の宗教はテオティワカンに残された信仰を基にしていると考えられている。アステカ人もまた羽の生えた蛇、ケツァルコアトルを信仰した。またピラミッドを模倣し、人間を生贄に捧げた。600年放置されてもなお、テオティワカンは世界を形作り続けたのである。


☆ほんまかどうか、分らんわなぁ!

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