友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

文学座の『長崎ぶらぶら節』を観る

2012年05月17日 23時29分51秒 | Weblog

 今月の名演は、なかにし礼原作の文学座『長崎ぶらぶら節』だった。休憩時間を含めると2時間45分になる大作である。それにしても俳優は何でも出来ないといけない。主人公の芸者・愛八を演じる平淑恵さんはじめ芸者役の皆さんは、本物の芸者だった。毎日、三味線や民謡そして踊りに相当な時間を注いで来たことだろう。見事なものだと感心してしまい、舞台の転換や照明、演出の工夫など、かなり思い切ったところがあったのに、余り覚えていない。セリフも聞いた時は心惹かれたのに、忘れてしまった。

 『長崎ぶらぶら節』は、舞台では歌手の石川さゆりさんが上演していて、その回数は200回を超えるという。テレビでは市原悦子さんが、映画では吉永小百合さんが、愛八を演じた。その時は見たいとは思わなかったけれど、舞台を見て、吉永小百合さんの映画を見てみたいと思った。舞台では、席が遠すぎて顔の表情までは分からないし、なかにし礼の原作を読んでいないが故に、文学座の描き方と映画とを比較してみたい気がした。後半で妹芸者の梅次が「私にもお金を出させて」という場面では泣けた。

 舞台は2つに大きく分かれていた。前半は愛八が古賀と一緒に埋もれている歌を探していくことが中心になっている。古い歌を記録しておきたいと言う古賀の学問への情熱に惹かれて、それを手伝ううちに、愛八は古賀に恋心を抱くようになる。それを古賀は分かるけれど、「木石ではないけれど、男と女の関係になってしまえば、魂が汚れてしまう」と、愛八を女としては受け入れず、「添い寝をしてあげるからおいで」と招き入れ、抱きしめて眠る。好きなのに意地を通す古賀の愛は、私の中学からの友だちと同じだ。彼は最後まで、「友だち以上、恋人未満」の関係を維持した。純粋に愛に生きる男がいると感心した。

 後半では、芸と粋に生きる愛八が、自分と同じような境遇のお雪を、必死で助けようと努力をする。それを知って芸者仲間が助力を申し出るけれど、あくまでも自分の力で助けることにこだわりつづける。そのかたくなさに腹が立つほどだが、同時に涙が止まらない。「長崎ぶらぶら節」がレコーディングされることになり、愛八はやっとお金が手に入るけれど、それをお雪の治療費に当ててしまう。飲まず食わずの生活で、お雪の治療費を工面するが、愛八自身は次第に衰弱し、この世を去っていく。

 セリフから推察すると、愛八はそんなに美人ではない。気風のよさと必死に習得した芸で売れっ子になっていく。弱い相撲取りを応援することも、古賀のようにお金のためではなく学問のために情熱を燃やす人を支えることも、お雪のような身寄りのない子を助けることも、愛八の生き方の現われなのだ。そうすることが彼女の生き甲斐であり、人生の意味なのだ。人のために尽くす、そういう人は確かにいるし、それは大きな光ではないけれど、そのために助けられる人も確かにいる。

コメント (1)
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