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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

椿

2012年03月02日 19時00分29秒 | Weblog

 

 朝から雨が降っている。ありがたいことだ。雨が降る毎に、少しずつ暖かくなる。今年の冬は寒くて、植木鉢のチューリップも芽を出し切れずにいた。我が家に私の兄弟につながる者たちが集まった時、義弟がたくさんの鉢を眺めながら、「もう芽が出ていますね」と感心していたけれど、あれから成長は止まっていた。寒さで鉢の土が凍っていた時もあった。それが、最近の暖かさですっかり凍土はなくなった。そこへ今日のように雨が降れば、根を張ることができ、芽も大きくなっていくだろう。この時期になると、カラスがチューリップの芽を食べに来るから、よく見張っていなくてはならないが‥。

 

 植木鉢に張り付いているアゲハチョウのサナギを毎日心配して見て歩く。ミカンの木に張り付いたサナギは大丈夫だと思うけれど、植木鉢の方は風や雪がまともに当たってしまうものもある。今日までのところは皆無事である。このまま暖かくなり、花が咲くようになれば、サナギも殻を破って羽化するだろうが、今年はいつ頃になるのだろう。白い山茶花は毎日よく咲く。1つの花が長く咲いているのか、次々と花を咲かせているのか、この寒さの中で咲き続けている。私は山茶花よりも、ヤブツバキか侘助のような赤い椿が好きだ。子どもの頃、母の実家の庭で見た椿が忘れられない。

 

 私の家の庭にも椿はあったけれど、まだら模様のピンク色した大きな花だった。けれども、母の実家の椿は小ぶりで、とてもきれいな赤い色だった。しかもその日は、前夜に珍しく雪が降ったから、真っ白な雪と真っ赤な花と深い緑の葉がとても美しく思った。多分この体験は、まだ小学生だったけれど、色の配置を美しいと思い、日本的だと、大人になって感じる原点だったのだろう。教員になって冬の京都を歩く機会があった。法然院だったか定かではないけれど、参道だったか寺に行く道だったか、それもはっきりしないけれど、道路におびただしい椿の花が落ちていた。その時も道路は薄っすらと雪が積もっていて、その上に無数の赤い椿の花があり、美しいと思った。

 

 椿はヤブツバキのように飾り気のない方がいい。母の実家の椿も、故郷の寺の椿も、法然院(?)で見た椿も、ヤブツバキであったように思う。椿は日本の各地で見ることができるが北限はどのあたりなのだろう。夏の暑さには強いと聞いた。椿の葉の黒っぽい艶のある緑もいい。中学からの友人が額田郡幸田町の本光寺の椿がいいと言っていたので、いつか見に行きたいと思っている。いろんな椿が咲き誇っているよりも、同じ種類の椿がひっそりと咲いている方が風情がある。椿は冬の花、可憐であっていいと思う。でも、どんな花でもひとりで見るというのは寂しすぎる。花はふたりで眺めるからいいのかも知れない。

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人の世は不思議だ

2012年03月01日 19時07分47秒 | Weblog

 本当は昨日、この記事を見つけたかった。1772年2月29日、江戸で大火事が起きた。目黒行人坂の大円寺から出火し、消失町数934町、死者1万4千人と伝えられる江戸3大火事のひとつだ。原因は放火だった。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるくらい、江戸では火事が多かった。徳川家康が江戸に幕府を開いた頃は、人口は40万人そこそこであったが、元禄の頃には80万人と推測されている。この火事の前、享保の時代には100万人を超えていたそうだ。狭い土地に木造の家が立ち並んでいるのだから、一度燃え出したら止めることは出来ない。火消しの最大の目的は延焼を最小限すること言われている。

 

 1772年は明和9年にあたり、田沼意次が老中職にあった。武家政治は行き詰まりかけ、賄賂が幅を利かすようになっていた。庶民の暮らしは苦しくなっていた。田舎では暮らせない者が江戸に流れ込んで来ていた。幕府の権力はゆるがないが、しかし先の見えない。何ともやりきれない思いが社会を支配していた。そういう時代には、うっぷん晴らしが生まれる。和歌の形式を踏まえて風刺や皮肉、滑稽を詠み込んだ狂歌が大流行した。明和9年は大火事が起きたから縁起が悪いと、安永と年号を改めた。しかし、物価高は収まらず庶民の嘆きは次の歌となった。「年号は 安く永くと 変われども 諸色高直 今に明和九」。

 

 人の知恵はなかなか深いと感心していると、高校2年の孫娘が帰宅の途中に立ち寄ってくれた。今日は高校の卒業式である。「卒業式はどうだった?」と聞くと、「感激した」と答える。私たちの頃の卒業式は厳粛そのものだったけれど、孫娘の高校の卒業式はまるでアメリカの学校のように華やかだ。卒業生が退席する時、後輩らが先輩の名前を大声で呼ぶ。すると先輩はお菓子の袋を取り出して後輩たちに向かって投げる。さながら結婚式のようでもあり、豆まきのようでもある。じめじめした感傷的な雰囲気は一切無くて、「とっても楽しかった」と言う。けれどもこの伝統は縮小されそうになっていると話す。

 

 校長はこうした卒業式をよく思っていないみたいで、騒いだりお菓子を投げたりすることを禁止する意向のようだ。「私たちの学校の伝統なのだから、禁止することないのにね」と孫娘は言う。そして、「ママも私の高校が理解できないと言うの」と、ちょっと寂しそうに付け加える。長女が卒業した高校と孫娘が通う高校では地域差もあるし、時代差もある。私たちの頃からみればさらにその差は大きい。卒業式の厳粛さを今は懐かしく感じるけれど、当時の私はどうしてこうも日本人は形式にこだわるのかと腹を立てていた。時代と共に変化があるのは仕方の無いことだ。

 

 江戸の火事の原因は放火が多かったようだがで、これは今も変わらない。歌舞伎の八百屋お七は、火事のために避難した寺で出会った小姓が好きになり、火事になればまた会えると火を付けて回った物語だ。火事を花見と言う風習もある。火事は全てを焼き尽くすから物が足りなくなる。つまり物価は上がる。物価が上がれば金儲けできると喜ぶ人がいる。江戸の経済を支えたのは火事と言う人もいる。津波や原発事故で住むところを失った人が大勢いるのに、これで経済は上向くと言われている。人の世は不思議だ。

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