友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人は何によって満たされるのか

2008年04月20日 19時27分24秒 | Weblog
 私の友人は1坪農園に励んでいる。やれナスだトマトだと、苗の植え込みに忙しい。土を耕し、肥料を施し、苗を植える。朝早くから畑に出て、やはり同じ1坪農園の愛好者らと苗や肥料の話題で尽きないそうだ。「ものを育てることは実に楽しい」と笑顔で話す。人間は長い間農業を中心に暮らしてきたから、農業は心の癒しにもなっているのかもしれない。

 私は彼のように、食べるものを作ろうとまだ思わないけれど、花でも手間をかければ必ず美しい立派な花になってくれる。彼が朝早くからは畑に出て、植えた苗の1本1本が気になるように、私もまた、自分のところの小さなガーデンの花たちが気にかかる。人間が地上に下りて、狩猟からものを育てることを覚えた時から、育てることの快感を味わったのだろうか。

 昨夜は、孫娘が見るといった日本映画『神童』を私も途中から一緒に見たが、余り感動することも無く見終わった。映画にしろ、演劇にしろ、小説にしても、私は何か心に響くものが欲しい。『神童』は天才的なピアニストである少女の凄さはわかったけれど、そして彼女が耳の中でセミが鳴いているということから、悲しい運命にあることも理解できたけれど、「それで‥」が見えない。

 いつだったか、BSシネマ劇場で上映していた韓国映画『私の頭の中の消しゴム』は、同じ難病でもきわめて叙情的に作り上げていた。『神童』がアメリカ映画のようならば、この『私の頭の中の消しゴム』はかつての日本映画のようだ。主人公の女性は激しく恋に生きるタイプで、好きになった男性と幸せな家庭を手に入れる。この上なく幸せな日々が続いていくはずが、どういうわけか物忘れをしてしまう。若年性のアルツハイマーに襲われた彼女は痛々しいし、彼女を支えようとする夫もかわいそうだ。

 韓国映画が得意(?)とする「愛することの美しさと悲しさ」をこれまた美しい映像で見せてくれる。『私の頭の中の消しゴム』とは、どんどん記憶が消えてしまうことだ。それを知った主人公の女性に夫は「永遠の幸せはないよ」と言う。「オレがお前の記憶で、お前の心だ」とも言う。腹を立てないためには「憎しみに1つ部屋を与えてやろう」と話す。言葉の一つひとつが心憎い。こんなに素敵なセリフが今の日本映画にあるのだろうか。

 そんなことを思いながら、映画やドラマを見た時に「いい言葉だ」と思ったものを書き留めたメモを見ていたら、こんな言葉が書いてあった。「仕事をしていると、仕事のために生きている気がするけれど、生きるために仕事をするのだ。仕事は人生のためのもので、人生は仕事のためのものではない」。もちろんそのとおりであるけれど、仕事がやりがいの時は毎日が充実していることも事実だ。人は何によって満たされるのだろう。
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風が強くて

2008年04月19日 20時06分24秒 | Weblog
 雨は上がったが、強い風が吹いている。日差しが高くなれば風は収まるだろう。そう思ったが、一日中風は止まない。チューリップは雨には耐えてくれたけれど、この風にはかなり痛めつけられた。午前10時にご近所の皆さんがやってきた。チューリップを楽しんでもらうだけだから、気遣いは無用だったのに、それぞれに手作りの一品を持って来てくださった。

 昨年のこの会が雨に打たれて、部屋からの鑑賞会になったことから、ワインの酒盛り会に変身してしまったので、そのことから手作りの品を用意されたのだろう。雨降りではないから、ルーフガーデンに出てチューリップは鑑賞してもらったけれど、風が強いからやはり寒い。外でお茶が飲めるようにとイスもテーブルも用意したが、長く座っていることはできない。結局、昨年同様に部屋の中での鑑賞会となった。

 そしてまた、昨年同様にワインを楽しみながらチューリップを眺めることになっていった。「遠くで見ている時はわからなかったけれど、チューリップの花がこんなに大きいとは知らなかった」と言ってくださる。そう、我が家で育てているのは見栄えのよい大輪のタイプ。これだけ風が強くてはチューリップもかわいそうなので、来てくださった皆さんに好きなだけ切り取って持って行ってとお願いした。

 「歳を取ると、時間が過ぎるのが速くて」と誰かが言う。若い女性が「それは経験知が少なくなるからだとテレビで言っていましたよ」と答える。歳を取ると、新しい経験に出会わない。同じ時間を過ごしていても、新しい経験が無いから時間が早く過ぎるように思うのだそうだ。なるほど、そういうことだったのかと妙に納得できた。

 「どういう時に幸せを感じるか?」との質問に、こんな時ですとすぐさま答えられないのは、幸せの対極である不幸にいないからだ。「日常に追われていて、そんなことを考える時間がない」と言うけれど、そのこと事態が幸せなことなのだろう。そんな日常に新しい体験が生まれるなら、さらに幸せが舞い込むことになるのだ。

   記憶のみに心埋めず 残りの日数に指を折らず
   今も胸に熱く騒ぐ 恋なり愛なり 愛しいもの
   切り株から芽吹く命 蘗たち 慈しむように
   こうありたい こうしたいの 想いを育み抱く
   (小椋 佳の『落日、燃え』より)
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一方的な愛でいいじゃないか

2008年04月18日 22時46分24秒 | Weblog
 孫娘は昨日、友だちと二人で『オレンジレンジのコンサート』に出かけていった。二人で出かけた孫娘もエライが、二人だけで行かせた母親も勇気がある。「ママもエライな」と孫娘に言うと、「だって前に、ママも一緒に行ってるじゃん。どんなコンサートかわかってるからじゃーない」と澄ましたものだ。

 私には『オレンジレンジ』にさほど興味が湧かなかったが、孫娘と共感できる点では小田和正が一番だ。そんなことから「オフコース」時代のCDを近頃よく聞いている。小田和正の高い声がとてもいい。それに歌詞が心憎い。ほとんどは「愛」の歌だけれど、その「愛」をどうしてこんなにうまく表現できるのかと感心してしまう。
 
  君を抱いていいの 好きになってもいいの 君を抱いていいの 心は今 何処にあるの
  ことばがもどかしくて うまくいえないけれど 君のことばかり 気になる
  ほら、また 笑うんだね ふざけているみたいに 今 君の匂いがしてる
  (『Yes-No』より)
 
  誰にも似ていない あなたはあなたで だから僕は あなたのこと かけがえのない人だと思う
  きかせてあなたの声を 抱かせてあなたの体を 心がことばを超えて 愛の中へ連れてゆくよ
  (『愛の中へ』より)

 本当はおせっかいだと思うけれど、私の中学高校からの友だちに、小田和正の歌を聞かせたかった。私たちは「オフコース」のように若くはないけれど、それでも素直な気持ちになってもいいのじゃないか。もちろんそれは、波紋を生むかもしれない。その覚悟は確かに必要だと思うけれど、人生は一度しかなく、時間はいつも過ぎ去っていくのだから、やり直しなどできることは決してない。

 そして小田和正はいつも求める「愛」ばかりを歌っているわけではない。
 
  乱れてる 乱れてる この心 ふりむくたび君が誰かといる
  ああだましても だましても この心 君のことを追いかけて 長い夜かけめぐる
  (『風に吹かれて』より)
 
  いま 君らしくない言葉をきいた 心が騒いでる
  もう 気がついているよ いま 君の中に 誰かがいること
  君が涙を流してる 夜が流れてゆく 思わず僕の息が止まる いま 君が嘘をついた
  君 誰れと行くの ここから誰れと歩いて行くの
  (『君が、嘘を、ついた』より)

 私は友だちを「すごい男」とブログに書いた。友だちは「男が女と知り合ってから、足掛け15年、真剣に付き合ってきた期間が12年、男が一方的に好きになり、ただひたすら、愛を与え続けただけのことで、すごい男の評価はまるで、当たっていない」と言うけれど、ただひたすら愛を与え続けたことは、大いに誇っていいと思う。そんなことは普通にはできない。彼女が自分を裏切ろうとそんなことはどうでもいい。彼女が自分を本当に愛してくれたのかとも考えなくてもいい。彼は彼女を愛し続けた。それこそが彼の宝だと思う。
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土曜日はチューリップを愛でる会

2008年04月17日 20時02分15秒 | Weblog
 今朝から雨が降っている。町に出ると、街路樹が若葉を吐き出してきている。新緑の季節は心も浮き立つような気がしてくる。若芽でピンクになっていた山々も、きっと新緑に変わりつつあるだろう。土曜日に「チューリップを愛でる会」を計画している我が家には、この雨は惠の雨かもしれない。

 我が家はマンションにあり、西にルーフガーデンがある。何もないただの空間では余りに味気ない。そう思っていた頃だ。私と一緒に地域新聞を作ってくれていた女の子が、「チューリップが満開になったから見に来ませんか」と言う。出かけたところ、畑一面にチューリップが植えられていた。

 それまで、群生のチューリップを見たことがなかったので圧巻だった。我が家のルーフガーデンもチューリップで満開にしてみようと思い立った。それからカミさんに内緒で、直径40センチほどの鉢を少しずつ買い込み、とうとう50鉢は越えてしまった。土がやせるのを防ぐため、花が終わる春と秋に土の入れ替えを行なうが、これは何よりも時間と労力がいる。

 そんな風にして今年もチューリップを育ててきたが、球根の選択が悪かったのか、花の咲く時期がバラバラになってしまった。それに花も少し小さい。肥料が足りないというよりも、球根そのものが小さかったかなと反省している。昨年の球根の中で比較的大き目のものを100球ほど残しておき、新しい球根を500球購入するが、500球の中の100球は少しグレードの高いものにしてきた。今年はカミさんの「もったいない!」の一言に屈して、全て最下級のものにしてしまった。

 花が咲き始め、全体の様子が見えてくるようになって、カミさんは「やっぱり、今年はちょっと寂しいわね」とおっしゃるが後の祭りである。それでも、このまま低温で風が吹かなければ、土曜日には皆さんにチューリップを見てもらえるだろう。チューリップを眺めながら、コーヒーを飲み、おしゃべりをする、そのひと時が幸せというものなのだ。

 私は昨日、誕生日を迎え、それはそれは幸せをいただいた。誕生日が大切なのは、生まれてこなければ巡り会う人に巡り会えなかったことになるからだ。私が巡り会えたのは、私が生まれたからであるし、その人が生まれたからでもある。桜だってチューリップだって、友だちだって恋人だって、みんな巡り合わせの中にある。桜だってチューリップだって、全てのものが、一時のために懸命に生きている。人間も同じだ、懸命に生きてこそ幸せというものだ。
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すごい男です

2008年04月16日 20時30分21秒 | Weblog
 私の中学高校時代からの友だちは、女友だちと12年もの間付き合ってきた。全くのプラトニックだが、手をつなぐくらいのことはあったようだ。彼のことが話題になると、誰もが「そんなのはウソだ」と言う。男と女が12年もの長い間、キスもしない抱擁もしない、ましてや肉体の交わりもしないままに過ごせるわけがないと言う。私もそう思った。しかし、彼の性格からすれば、確かにありうるし、今では彼が「何もなかった」と言うことに少しの疑いもない。

 彼は言う。「誰も分かっていないんです。男と女の友だちというものが、いわば、男と女のユニセックスの関係が、誰も全然分かっていないんです。多分、ありふれた男と女の皮相しか見ていないと思うのです。その先にある人間と人間の友情を、誰も分かろうとしないんです。」「私が老いてから求める恋は、周囲に迷惑を掛けず、相手にも自分の気持ちを強要せず、しかも自分の気持ちに正直に相手に伝えようとすればするほど、今での恋愛の概念を超えたステージに、自らを立たせ、今までの常識以外のところで愛情表現をすることでしか成立し得ないものだと私はこの頃、つくづく、そう思っている。つまり、私にとって、老いてからの恋は、愛情の度合いが深まれば深まるほど、相手に肉体を求めたり、独占したいという気持ちからどんどん遠ざかっていく。」

 私は彼をすごい男だと尊敬している。こんなに清純な恋ができることをうらやましく思う。かつて、彼のように女性の身体を求めることなく、愛を貫いた人がいたのだろうか。そんな思いがしていた時、岡本太郎の父、岡本一平のことを知り、やはりそういう人もいるのだと納得した。

 岡本一平は「朝日新聞」に、夏目漱石の挿絵を描いて評判になり、学生時代から熱を上げていたかの子と結婚した。挿絵画家ではなく、偉大な芸術家を求めていたかの子は、翌年に早稲田の学生と恋愛関係を持つ。一平はこの学生を自分たちの家に同居させ、かの子との性愛を許す。そしてかの子とは生涯にわたり兄妹のように生きることを誓って夫婦の交わりを絶った。かの子は夫の公認の下に、男を愛していく。医師の新田亀三に一目惚れしたかの子は北海道岩見沢まで追いかけていった話は有名だ。新田は一平に「奥さんをください」と申し込むが、「かの子は僕の生活の支柱だ。いのちだ。奪わないでくれ」と哀願されてしまう。そして一平は、新田を再び同居させ、二人が愛し合うことを認めるのだ。

 私の友だちは、自分の奥さんとのことを「セラピストのように、私の心の奥にしまい込んで、人に知られたくない部分をやさしく解きほぐしてくれた。別の世界が広がっていく感じだった。セラピストと患者のような関係は今なお、継続している」と言う。セラピストの奥さんとユニセックスの女ともだち。彼は性愛よりももっと高いところの男と女であろうとしたのだろう。私はとても彼に及ばない。
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賞味期限切れ

2008年04月15日 20時00分04秒 | Weblog
 薄墨桜を見に行った時、お土産店をのぞいていたら、「さんざしドライフルーツ」を見つけた。北原白秋の『この道』の最後に、「あの雲はいつか見た雲、ああそうだよ、山査子の枝も垂れてる」という歌詞がある。デイサービスの利用者さんがこの歌を歌っていて、「山査子ってなに?」と尋ねられた。私は知らなかったが、所長がすぐにパソコンで調べてくれた。中国原産のバラ科の落葉低木で、果実を乾燥させたものを山査子という。中国ではこの果実で作ったお菓子がデザートに出される。日本ではもっぱら消化・解毒など胃腸の働きを助ける健康食品として知られている。この店でも「血液サラサラのさんざし」と張り出されていた。

 「おお、これが山査子か」と思い、すぐに買い求めた。家に帰って孫娘に、「あのさ、『この道』っていう童謡に出てくる“さんざし”を買ってきたから、見てみるかい」とお土産を渡す。ところが孫娘はいきなり「これって賞味期限が切れてるよ。それに、袋の中と外と賞味期限の日付が違うよ」と言う。「だいたいさ、薄墨桜を見に行ったんでしょう。それなのに、これ中国産だよ」とも言う。しまった。何も見ずに買ってきてしまった。原材料が中国産であってもそれはまあ許せるが、賞味期限が切れている!しかも袋の中と外で日付が違うとは驚いた。

 「漢方薬にも使われるくらいだから、賞味期限なんて気にせずに食べちゃおうか」と言うと、「ダメ!すぐに買ったところへ電話した方がいい」とまで言う。買った店の電話番号はもちろん調べればわかるけれど、商品には会社名と住所と電話番号が書いてあるし、商品にはお客様相談室の電話番号も記載されている。「じゃあこちらにかけてみよう」と電話するが、担当者が席をはずしていると言う。大手の会社のように、この手の苦情には慣れていないのだろう。しばらくすると向こうから電話がかかってきた。

 賞味期限の改ざんなど食品をめぐる世間の目は厳しいものがあるから、逆に賞味期限の切れた商品を並べておくような馬鹿な行為はないだろうと思ってしまった私の方が愚かだった。販売店の方もそんなことに気付かずに並べているだろうから、製造元のあなたの方から注意をした方がいいでしょうといったことを話した。その担当者は礼を述べ、「サービスに当社のジュースをお付けします」と言う。この件はこれで一件落着だといった空気が伝わってきた。

 後日、「さんざしドライフルーツ不良商品のお詫び」の手紙とともに新しい商品が送られてきた。私は賞味期限の日付が袋の中と外で違うことと、しかもどちらの日付を見ても賞味期限が切れているような商品は、客離れを起こしてしまうことを指摘したかったのだが、会社としては不良商品としての扱いだったのか、消費者と製造者の意識には差があるんだと知った。
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都はるみの恋人

2008年04月14日 21時25分49秒 | Weblog
 中学高校からの友だちのブログで、都はるみさんの所属事務所の社長で恋人でもあった中村一好さんが自殺したことを知った。実は、都はるみさんはよく知っているが、中村一好さんの名前を私は知らなかった。私の親しい女友だちもはるみさんの「アンコ椿は恋の花」を得意(?)としていた。私も昔ラジオ番組で、はるみさんが演歌ではなく、洋楽(ジャズだったかシャンソンだったか)を歌うのを聞いて、歌のうまい人だと感心した覚えがある。

 確か、「普通のおばさんになりたい」と言って芸能界を引退したことを覚えている。昭和51年に「北の宿」で日本レコード大賞を受賞し、ますます脂がのってきた矢先のことだった。昭和23年生まれのはるみさんだから30代だろう。「1番になれなくても2番目の女として子どもを産んでもいいじゃーないかと思うようになった」(『婦人公論』より)と回想しているから、好きになってしまった中村一好さんの子どもを本気で産みたいと思ったのだろう。「普通のおばさん」になることで、「2番目の女」になろうとしたのだ。

 しかし、悲劇にもというべきか(私たちにとっては)幸運にもというべきか、はるみさんは子どもが産めない身体だった。2番目になれないということは普通のおばさんになれないということだ。そこではるみさんは芸能界に復帰したが、週刊新潮の記事によれば、復帰後のはるみさんと一好さんの立場は逆転していたそうだ。それまでは一好さんがはるみさんのご機嫌を取る形であったが、復帰後のはるみさんは一好さんの言葉に従順だったと書いてあった。

 いくら美空ひばり亡き後の歌の女王であっても、いったん引退した身にはかなり風当たりは厳しかったであろう。それを乗り越えたのは中村一好さんの功績であり、二人が「親友」「同志」「戦友」と呼ばれる所以だろう。そんな仲の二人なのに、なぜ一好さんは自殺をしたのか、私には全くわからない。葬儀の席では本妻が主役だから、はるみさんはどんな気持ちで恋人を送ったのだろう。

 中学高校からの友だちには、12年間付き合ってきた女友だちがいた。彼はブログで「はるみさんと一好さんの28年間の仲に思いを馳せるとき、奇しくも12年間付き合ってきた彼女のことが気になり、なかなか頭を離れようとしなかった。言葉を変えて、正直に言うと、私ははるみさんと一好さんが羨ましくて仕方がないといった方がいいのかもしれない」と書き、続けて「はるみさんと一好さんの28年間に比べれば、私たちの仲は、愛を愛として語るにはおこがましくて、何の価値もないということを暗に示してくれ、覚悟のない愛は、どんな言葉で飾ろうと、所詮愛ではないと戒めてくれているのかも知れない」と結んでいた。

 若い頃は、「好き」であればそれでよかった。愛することに覚悟なんかいらなかった。けれども、歳を重ねて恋をすれば、多くの負を背負い込むことになる。「覚悟のない愛は、愛といえない」。そのとおりだと思う。
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大和塾の市民講座を終えて

2008年04月13日 22時28分34秒 | Weblog
 今日、大和塾の第8回市民講座「人生・スポーツそして平和」を開催した。会場に私を見ていてくれる女性がいたけれど、終わり際に挨拶を受けて、初めて教え子だと気がついた。私が高校の教師になったのは22歳の時で、彼女は翌年に始めて担任となった時の受け持ちの生徒だ。この頃の高校生はかなり理屈ぽかったが、中でもこの子は正義感の強い子という印象がある。もう40年も前のことだ。

 「先生のブログを見て、来ました」と言う。うれしかった。そういえば、この子には助けてもらったから感謝しなくてはならない。それも彼女が私のブログを見ていてくれたおかげだった。昨年の1月、私のミスで以前に開いていたブログを失ってしまった。慌てた。何よりもクリスマスに書いた童話がなくなってしまったことが悔しかった。彼女の年賀状に「ブログを楽しみに読んでいます」といった文面があったことを思い出し、ひょっとしたらプリントアウトしていないかと尋ねたところ、保存してあるというので送ってもらったのだ。

 すっかり大人の女になっていた。5年ほど前にクラス会があり、呼んでもらって出かけていった時よりも少しやせていたが、苦労しているのかなと勝手に推測してしまった。彼女たちも人生の折り返し地点を過ぎ、中には孫のいる子もいる。事業に成功して会社を大きくした者もいれば、失敗して行方不明になっている者もいる。私自身がそうであったけれど、50代になればもう行く先は見えてきた。30代の頃はまだまだこれからだと思うから、クラス会があっても出席するのはうまくいっている連中ばかりだったが、先が見えてくると、もうどうあがいたところで知れているからか、クラス会の出席者も増えたように思う。

 教師は楽しかった。人が育っていくのを見守ることはやりがいがある。いつも遅刻する生徒がいた。父子家庭で、「父親が起こしてくれない」と言うので、「じゃー先生が起こしに行く」と毎日そいつの家に寄って学校へ行った。また、「おやじが金をくれないから授業料が払えない。出世したら必ず返す」と言うので立て替えて払っておいた。彼はキャバレーの支配人となり、外車を乗り回していると聞いたが、授業料を立て替えたことはすっかり忘れたのか、返しには来なかった。

 いろんな生徒がいたから、この子たちがどんな人生を歩くのか、期待は大きかった。クラス会に呼ばれて行ってみると、私よりも老け込んだような子もいれば、今なお溌剌としている子もいる。出会いとその巡り合わせに人生の妙というか不思議を覚える。わざわざ遠くからやってきてくれた彼女に「ありがとう」と言った。
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運命とそうでないもの

2008年04月12日 18時27分46秒 | Weblog
 東名高速で、トラックのタイヤが脱落し、対向車線を走っていた観光バスに衝突、観光バスの運転手が死亡、乗客も傷を負う事故が11日にあった。交通ルールを守り、慎重に運転していても事故はどこからやってくるかわからない。それにしても、よく次の惨事が起こらなかったものだ。運転手が死亡するくらいの衝撃なのだから、観光バスは急ハンドルで横転するとか、他の車にぶつかるとか、次々と事故が拡大することだってあるはずだ。そうならなかったのは、死亡した運転手がめいっぱいブレーキを踏み込み、サイドブレーキを引いていたからだと新聞に書いてあった。

 昨日はまた最高裁で、自衛隊の宿舎の新聞受けに、イラク派遣に反対するビラを入れた市民団体の3人に対する処罰は合憲と判決が出た。ビラ配り禁止の張り紙を無視した行為は、「権利を侵害し、私的生活の平穏を害する」という判断である。私は議員の時、私のことや私の考えを知ってもらいたいと思い、「新聞」を作って全戸に手配りで配布してきた。気持ちよく受け取ってくれる人がいた反面で、新聞受けに入れようとしたら「入れるな。ゴミになるだけだ!」と、怒鳴られたこともあった。

 見もしないで、「ゴミ」と決め付けるこういう人に、初めは反発して、「貴方はものを判断する時、いろいろ資料を集めませんか?自分が納めた税金の使い道が気になりませんか?」とできるだけ穏やかに話した。けれども、相手は議論しようとすることが気に入らないようで、ますます激昂し、水でもぶっ掛けられそうになった時もある。初めから一切を拒否する人は、初めから一切を受け入れる人よりも多いし、こういう人は怖い。何度かの経験から、もう議論を吹っかけるのはやめて、「ハイ、ハイ」と退散することにした。

 人に伝えたいことについて、人はいろいろと規制をするが、本当は受け取る本人が判断することだと私は思っている。ワイセツな本だとか映画だとか、あるいは今回のようなチラシだとか、そうしたものを一切含めて自分自身が判断する土壌ができて欲しいと思う。他人に規制してもらわないと判断できないような自己では情けないと思わないのだろうか。

 愛知県議会で、政務調査費の全面公開を主張していた民主党の佐藤夕子議員に対し、民主党県議団は「厳重注意」処分を行なった。除名を求める議員もあったようだから、全く民主党という政党は自民党とどこが違うのかと思ってしまった。「積み重ねてきた議論を無視する行為」だから、処罰すると議員団は言うけれど、それはいつも多数派の言い分なのだ。少数派は多数派に押しつぶされてしまうのが政治の世界だけれど、議論を積み重ねることが大事なら、議論の結果について処分ということは当たらないはずだし、そんなことをしては議論の意味が無いと私は思っている。

 観光バスの事故のようなものは、運がよかったとか悪かったといえるけれど、人の思想の問題は私たち自身が枠組みを作ることなのだから、どうにでもできそうなのに、それが難しいのが人間社会なのか。悔しいな。
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巡り合わせ

2008年04月10日 22時09分40秒 | Weblog
 昨日、北の部屋でサナギが1匹が羽化した。しかし、夕方になって気温が急激に下がったためか、ジーっとしていて全く動く気配がなかった。やがて明日になれば暖かくなり、飛び立っていくだろう、それまではこの部屋でジーっとしていればいい。そう思ってカーテンを閉め、そばに蜂蜜を溶かした水を置いた。

 このサナギは屋外の植木に張り付いていたものだが、雨風のためなのか、植木鉢に落ちていた。雨や雪にさらされたから命はないのかもしれないが、もし生命力があるのなら羽化できるかもと思い、菓子箱にベッド代わりにティッシュをおいて、見守ってきた。それでも同じような運命のサナギが随分前に羽化して飛び立っていったから、やはりこのサナギはダメかなと半分は思っていた。

 この北の部屋でサナギになったものは2匹いて、そのうちの1匹は早々と空へ舞い上がっていったが、部屋の北の壁にくっついたサナギはまだそのままでいる。こちらが羽化するまで待とうと思ったのだ。それに南側のベランダの天井でさなぎになったものもいるが、こちらは温室のように暖かいはずなのに、未だに天井にへばりついている。

 さて、昨日に羽化したアゲハチョウは今日になって、よく動くようになっていたから、窓を開けておいた。しばらくして見に行くと部屋にはいない。とうとう飛び立ったか、そう思って庭を見ると、チュリーップの鉢のそばで羽を広げたままジッとしている。雨は大降りではないが、それでもこのままでは飛び立てないだろう。私が手を差し出しても飛び立たない。逆に指先から這い上がってきた。手のひらで包み込むようにして、南のベランダの、雨の当たらない場所に放してやる。このまま、明日、太陽が上がり、体が温まるまで動かないだろう。

 今朝いつもの喫茶店で、NPO準備の会議をしていた時、76歳の最長老が「私、膝が痛くて歩けなくなってね」と話し始めた。「医者に診断してもらうと、『これは手術できないからもう少し様子を見る』と言う。このまま車椅子かと思ったが、念のためにと思って、知り合いの医者にその話をしたら、『ここに行って診てもらったらどうか』と言う。そこで、紹介してくれた医者に診てもらったら、「手術で直る」と言われた。どちらにしても同じことならと手術してもらったが、こうして歩けるようになった。痛みもない」と話す。

 アゲハチョウから医者の話への飛躍で恐縮だが、人には巡り合わせというものがある。巡り合わせで助けられる人もいるが、巡り合わせに気付かない人だっているだろう。人との出会いに何かを感じたなら、一切を賭けるくらいでないと、巡り合わせを幸せの側に引き込めないのかもしれない。
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