友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

強制されるのはイヤ

2008年04月22日 21時57分41秒 | Weblog
 新学期の授業が始まった。隣りが小学校だから、学校の様子がよくわかる。ピッーピッーの笛の音が聞こえてくる。先生が前と後にいるから、どうやら新1年生だ。小さな体操服の列は行儀よく、先生の笛に合わせて小走りに行く。木陰に着くと、横2列での体操座りとなった。先生が「何番から何番はブランコ、何番から何番はシーソー」と指示すると、子どもたちはサッとブランコとシーソーに分かれた。

 先生の指示を受けて機敏に行動するから、エライものだと感心して眺めていると、しばらくしてこの行動に慣れてきたのか、あちらこちらで歓声や奇声が上がる。体操服でいるけれど、ピッーピッーと笛の号令はあるけれど、ブランコもシーソーも基本的には「遊び」だから、慣れてくれば当然のように自然と声が上がる。
私は自分の小学校の頃を思い出す。級長だからみんなを並ばせなくてはならない。人には命令するくせに、実は私は人から命令されるのが一番イヤだった。集団で一糸乱れぬ行動をとりながら、なぜか馬鹿げていると思っていた。縦、横、斜め、一直線にきちんと並ばせることを生き甲斐に思っているような先生が嫌いだった。姑息にも、自分は列を乱さず、掛け声までかけながら、腹の中ではなんでこんな馬鹿馬鹿しいことに一生懸命になるのだろうと思っていた。

 教師になっても、きちんとやることに抵抗していた。生活指導部の先生から「あなたのクラスの生徒は髪が長いから注意してください」と言われた。私自身が長髪にしていたから、生活指導の先生は私に注意したかったのかもしれない。私はホームルームで「生活指導の先生から、ウチのクラスは校則違反の長髪が多いと注意を受けた。自分の髪が長髪だと思うものは手を上げて」と言うと、誰一人手を上げない。「じゃー、このクラスには校則違反の長髪はひとりもいないんだな」と聞くと、「ウォー」と言うので、「わかった。校則違反者は一人もいないと報告しておく」と私。

 今、文部科学省は国を愛する心を育てようと、日の丸を掲揚し、君が代を斉唱させることを指導している。私は現場にいなくて本当によかったと思う。「愛する」ことは強制してできるものではない。愛してはならないとどんなに規制しても愛さずにいられないのと同様に、愛せよと言われても愛することなどできない。私たちの心の中までは誰もが規制することなどできないのだ。
コメント (2)
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