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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

満天星と親子バンドペンション

2007年09月09日 23時59分17秒 | Weblog
 北白樺高原の姫木平の音楽ペンション「バウワウ」(TEL0268-69-2754)から見た夜空は美しかった。たくさんの星が夜空に輝いていた。星は手の届きそうなところで輝いている。満天の星空を眺めていたら、昔の人々はこんな風に星空を見つめ、星座や天の川を見つけていったのだろうかと思った。二人で眺めていたのだろうか、それとも大勢の人と眺めたのだろうか、そんなことをふと思った。

 ペンション「バウワウ」は私が高校の教師をしていた時の、吹奏楽部の生徒の一人がオーナーである。私は直接に教えてもいないし、私が吹奏楽部の顧問を引き受けた時には彼はもう卒業していた。おそらく35年くらい前のことになる。「先生はもう少し長い髪でしたよね」と彼が言う。エツ!私のことを覚えていてくれたのか!と私はビックリした。

 私が吹奏楽部の顧問を引き受けたのは、前任者を尊敬していたことと、頼まれたならば断れない性格のためだ。何も知らないままに顧問を引き受け、生徒たちに言われるがままに秋神温泉に出かけた。昨夜のOBたちの話から、私がカミさんや子どもと泊まった秋神温泉は前任者が定宿としていて、そのとなりがユースホステルになっていて、そこに生徒たちは宿泊していたようだ。けれども私が顧問になった時は、生徒たちはここから離れた民宿に泊まっていたと記憶している。

 そんなことはどうでもいいことだが、ペンションのオーナーは音楽好きで、高校生の時には音楽家になる道に進むべきかと悩み、結局、前任者の助言を受け入れ、高校だけは卒業することに同意して、そのまま、音楽家にならずに来てしまったと言う。彼は酔いに任せるようにピアノに向かい、好きなジャズを思いのままに弾いてくれた。

 「ピアノは独学だから、聞かせるほどじゃーないです」と言うが、実にうまい。音楽をあきらめきれない情念が漂っている。彼の息子も子どもの頃から父親がジャズを毎晩のように聞いていたためか、「まだまだ趣味のうちですよ」と言うものの、演奏会にも出かけるほどにジャズに打ち込んでいるそうだ。

 『満天星と親子バンドのペンション』をうたい文句にしたらいいのではないか。そう思った。前任者は、高校教師から市長になったほど人望のある人だった。私が訪ねた時も、首長としての心がけのようなものを話してくれた。ペンションには前任者が描いた水彩画が掲げられていたが、私にように絵を専門としてきた者よりもはるかに技術的にも優れた味のある絵だった。

 音楽好きは音楽好きを呼ぶようで、いろいろ話しているうちに、聞きなれた人の名前が挙がった。「エッ!同じマンションの人ですよ。私の友人でもあり、奥さんは孫娘のピアノの先生なんです」と話す。いっしょに出かけた二人も吹奏楽部のOBであるが、一人は私と同じ科の生徒だったからよく知ってはいたが、それでも直接教えた生徒ではなかったのに、なぜかズーと年賀状のやり取りがあり、彼は私の数少ない絵を覚えていた。

 もう一人は科も違うし、私が教師になった時にはすでに卒業していた生徒だったから、吹奏楽部が合宿をした時に、先輩として指導に来てくれていて、そこで知り合ったのが縁でずーと続いている人だ。社会の動きに対する認識や価値観にも共通するところがあったのだろう、午後7時から食事を始めて12時まで、5時間も話し合ってしまった。よき人との出会いがこんな風にめぐってくることに、驚きと感謝を覚えた。

 昨日は、諏訪湖の周りの美術館を巡り、今日は安曇野の碌山美術館とちひろ美術館へ行ってきた。碌山美術館はもう何十年も前に訪ねたことがあったが、周りの景色はすっかり変っていた。緑深い森の中の素朴な美術館という私の印象は誠に危ういものになってしまっていた。ちひろ美術館は初めて出かけたが、周りの配置といい、美術館の空間といい、申し分ない素敵な美術館であった。

 そして、何よりもこうした機会が生まれたことの不思議と、二人の心配りに感謝しなくてはならないと思った。
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明日は信州へ

2007年09月07日 23時59分07秒 | Weblog
 昨夜は台風の影響で一晩中、強い風が吹き荒れていて、熟睡できなかった。「昨晩は大変でしたね」と言うと、「えっ、何が?」と全く気が付かなかった人もいるから、人って本当に様々だと思う。政治家になる人は、毎回言って申し訳ないくらいだが、清貧でなければならないと私は思っている。だから大臣になるような人が金銭をごまかすことは絶対に許されないから、辞退することは当然だと思う。けれども、不思議なことは「申し訳ありませんでした」と言うが、「議員を辞職することは考えていない」と言うことが私には理解できない。

 申し訳ないけれど、政治の世界でたった一度でも間違いを犯したら、やはり二度と戻ってこられないくらい厳しくていいと思う。再チャレンジを認めるか否かは確かに有権者の判断だろうが、有権者は余りにも甘すぎないか。私はどうして、横峰さくらパパが民主党公認候補になったのかは知らないが、新聞や週刊誌に載るようなことが事実なら、小沢党首は即刻、横峰さくらパパに議員を辞職するように迫るべきだ。私が党首ならそうする。そうしなければ、自民党と何も変らないではないか。国民から、そのように見られることは民主党としては得策ではない。

 人の生き様は様々で、他人がどうこう言うようなことではない。朝青龍にしても、北の湖理事長にしても、人にはそれぞれ立場があり、思いがあるだろうから、それを門外漢の私が言うことではないが、「自分の好きなようにしたら」と言いたくなる。そういう私の性分を孫娘は「こらえ性がない。心が狭い」と切り捨ててくるのだ。ホント、いつの間に人の心が読めるようになったのだろうかと感心する。もちろん、まだ子どもだから一番大切に思っている人の言い分に口を挟むほど、人の心は読めていないが、それでも第3者になると冷静に見て取れるようだ。

 さて、私が高校の教員だった時、たまたま引き受け手がなくて、吹奏楽部の顧問になった。24から5歳の若造の教師で、吹奏楽の知識も無いのに、頼まれたら引き受ける、それだけの教師に過ぎなかった。その吹奏楽部の生徒だった人から電話をいただいて、明日、一緒に信州に行くことになった。自分が教えたことのある生徒なら、多少の覚えはあるが、いっしょに行く一人は、私が顧問になった時にはすでに卒業していて、吹奏楽部が夏に合宿を行っていたが、そこに来ていた先輩に過ぎない。吹奏楽部の子どもたちに直接教えるだけの力は私にはなかったので、こういう先輩たちがやってきては指導してくれていた。彼もそうした一人であったが、なぜか話があって、その後も付き合いが続いている。

 人の縁の不思議と言うべきものがある。いま、お世話になっている会社の社長も、この高校の生徒だが、私は彼が1年生の時に、週に1回教えに行っていたに過ぎない。自分が直接担任をしたわけでもないそういう子どもたちから、声をかけていただけることに不思議というか、縁の深さに感謝している。
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犯人探しではダメ

2007年09月06日 22時31分07秒 | Weblog
 中学校の教室のうしろ、教壇に向かい合う壁は掲示板になっている。そこにクラスの子どもたちのスナップ写真が貼ってある。その写真を見て、担任は慌てた。写真の中の子どもの顔や身体に画鋲の痕がはっきりとあったからだ。子どもだけでなく、先生の身体にも画鋲の痕があった。クラスに「いじめ」がある。担任はそう思ったのだろう。

 「うしろの写真に画鋲を刺したものがいる。正直に名乗りあげてくれれば、大げさにはしない。明日まで待つから、正直に言って欲しい」。担任はそう言った。翌日になっても誰も名乗りあげなかった。担任は怒った。「もう一度聞く。画鋲を刺したものは正直に手を上げなさい」。誰も手を上げなかった。「これはクラスみんなの問題だ。解決できるまでみんなでよく話し合うように。それまでは部活は禁止する。教室から出ることも許さない。級長と副級長は前に出て、話し合いを進めなさい」。

 話し合いはできなかった。級長と副級長が発言を求めたが、みんな押し黙ったままだ。長い時間が経過して、一人の男の子が手を挙げた。「オレがやった。そういうことにしてくれていい。いつまでここでジッとしていても意味ない」。ちょっとムキになってそう言った。けれでも、彼がやっていないことは明白だった。「それはおかしいじゃーないか」「やっていない人が名乗り出ても解決にはならない」「じゃー誰がやったんだ」。また堂々巡りになった。

 副級長は、画鋲で刺されていた子が「私の写真が出ていてイヤ」と、ポツリと話したことを思い出して、「誰がやったかはわからない。やられた本人かもしれないし、ヨソのクラスの子が入ってきてやったかもしれない。誰がやったかはわからないのだから、もうおしまいにしよう」と言った。それで、その結論を担任に伝えた。スッキリはしなかったが、これ以上話し合いは進められないと思ったのだ。

 クラスのスナップ写真に画鋲が刺された痕を見つけて、担任はこの先を考えた。そこで彼は「芽」は小さいうちに摘み取っておかなくてはとの結論に至った。そして次に、「画鋲を刺したものは正直に名乗りあげなさい」と言った。ベテラン教師は「若い先生は神経質になりすぎる。子どもはいたずらをするものだ。確かにいじめの兆候かもしれないが、私なら、まず写真をはずしてしまう。それから子どもたちに残念だと話し、今後絶対にこんなことをしてはならないと、なぜしてはならないかについて話すよ」と言う。

 若い担任もまず何よりもクラスのみんなが仲良しであってほしいと考えたはずだ。「クラスみんなの問題だ」と言ったのも、どうしたらこのような行為をなくし、みんなが仲良くなれるのかを考えて欲しいと思ったからだろう。けれども、出てしまった言葉は「誰がやったのか、正直に名乗り出て欲しい」というものだった。ハイ、わかりました。私ですと誰が言い出せるというのだろう。犯人探しが深まれば、クラス全体が疑心暗鬼になってしまう。誰もが信じられないということだ。仮に犯人探しができたとしても、それはかえって気まずい雰囲気になるだろう。さらに今度はみんなで犯人をいじめる構図になってしまうかもしれない。

 教師の世界も未だに変らないのだなと思う。私が子どもの頃も、何かがあると教師はすぐ「誰がやった?」とわめいた。犯人探しをして、次に何をしようとしたのか。そもそも、みんなが仲良くなるようにしたかったのに、なぜ犯人探しをしようとしたのか。余りにも考えのないままに、まるで普通のおじさんやおばさんと同じレベルで事態を考えてしまっていないか。私は腹を立てている。けれども孫娘は「心が狭い」と言う。
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あいち国際映画祭

2007年09月05日 23時55分08秒 | Weblog
 『あいち国際映画祭』の本日、午後2時からの入場券をいただいた。映画祭の期間中ならどれを見てもよいのかなと思っていたが、入場券をよく見たら、本日午後2時より上映の『終わりよければすべてよし』と指定されていた。監督は羽田澄子さんだ。羽田さんは福祉について関心が強い。私は秋田県鷹巣町の福祉政策をめぐる映画、『住民が選択した町の福祉』が見たかった。

 今日の『終わりよければすべてよし』と言う題名を見たときはイヤだなと思った。私たちはよく、「終わりよければすべてよし」と口にする。最後にうまく行った時、父が「終わりよければすべてよし」と言ってほめてくれた時があった。そう、私はほめられたと思った。たぶん、父は私を励ます意味でほめたのだと思う。
大人になって、「終わりよければすべてし」というのは間違っていないか、そう思うようになった。最後に辻褄を合わせることで、そこに至る過程をないがしろにすることにならないか。たとえば、年金のことでも、着服してしまったが、後で返しておけばそれでいいのではないか。失敗はあったが、尻拭いをしたから、失敗はなかったことにしてもよいのではないか。「終わりよければすべてよし」という考え方には、「あいまい」であることをよしとしてきた意識と似ている。

 「この映画は終末期のケアや死の問題を扱っています」と、羽田さんは挨拶した。羽田さん自身が81歳になるそうだが、とてもそんな高齢者には見えない。自身の妹さんをガンで亡くした時、生きられる時間は残り少ないというのに、苦しむ妹の痛みをやわらげられないのかと医師に頼んだら、「モルヒネは身体に悪いから」と言われたことや、命のともし火が消えそうになった時、医師は家族を病室の外に押し出し、患者に馬乗りになって心臓を圧迫していたこと、医療は1分でも長く生きながらえさせることが目的なのかと、不信感を抱いたそうだ。

 映画は「終末期はどうあるべきなのか」を追って、緩和ケアに取り組んでいる医療施設や福祉施設を、あるいはオーストラリアやスウェーデンの取り組みなどを紹介していく。2時間に及びちょっと長すぎた感じがした。誰でも惨めな終末を迎えたいとは望まないだろう。けれでも、映画の中にも出てきたが、家族の中にはあるいは患者自身も、せめて3年、それがダメなら1年でも半年でもいいから長生きして欲しい、生きていたい、と願う人がいることも事実だ。

 老人ホームや新しい形のケア施設が映し出されていたが、私には地獄のようにしか見えなかった。やはり「老い」は美しくない。美しくないが、それは事実である。目をそらすことのできない現実である。私自身の姿でもある。在宅ケアがいいとか、施設でとか、どうでもよいことのように思う。どのような終末を望むにしても、誰もが平等に迎えられなくてはならない。終末期もお金で左右されるような社会であってはならない。

 終末期の医療のあり方もこれからはもっと人間としての尊厳に基づく医療に変っていくだろう。またそうしなくてはならない。そんなことを考えながら、長い地下鉄のエスカレーターを見ていたら、人は左に1列に並び、右側は急ぐ人のために空けてある。いつからこんな風になったのだろう。右側の人が急がずに、二人同時にそのまま行くならばきっとその方が早く移動できると思う。電車の中は相変わらず優先席が設けられ、そこには老人でも妊婦でもけが人でもない人が座っている。もっとすごいなと思うのは女性専用車両だ。みんな、おかしくないか。老人や妊婦やけが人に席を譲るのは当たり前のことだ。女性専用車両を設けなくてならないほど、痴漢が多いことに男は恥らないのか。

 人間は本当に変っていくのかと不安に思う。
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日本昆虫記

2007年09月04日 22時37分51秒 | Weblog
 遅れてサナギになった方も今朝飛び立った。サナギから出て、身体を広げているところに出会わせたが、まだ羽全体は伸びきっていなかった。ゆっくり時間をかけて少しずつ大きくなっていく。風船が膨らむように、しかし逆に平に伸びていくと言った方が適切だ。それでも力がないのか、まだその時期ではないのか、すぐには飛び立たず、時々大きく羽を広げて充分に羽を空気に触れさせている。

 サナギになる前は確かによく食べた。何度も書くが、葉を食べる時にはバリバリという音が聞こえるほどだった。ひたすら食べ太ってコロンコロンになる。そして再び動き回って羽化する場所を決めると途端に小さくなってしまう。それから9日間、ぴくりとも動かずに待つ。何を待つのかわからないが、どんなに風が吹こうが雨になろうが、何も変らない。家の中に入れたから、外の変化についていけるだろうかと心配したが、やはり思ったとおり、朝になって羽化し始めたと思う。

 昆虫は正確だなあーと思った時、どういうわけか、今村昌平監督の『日本昆虫記』を思い出した。映画のストーリーは何も覚えていないが、畑の中でお乳が張って困る嫁のその乳房を、義父が吸っていた場面だけはよく覚えている。胸がドキドキするほどエロチックで、美しいというより残虐で、残虐というような獣的ではなく、やはり昆虫のようだったのかもしれない。あの映画になぜ『日本昆虫記』という題名がつけられたのか、映画監督になりたかったのだから、どうして調べてみようという気にならなかったのだろう。

 「映画監督になりたかった」ということを、先日、名古屋市立美術館で開かれている『中村宏展』を見て、中村宏さんもそうだったのかと思った。私がまだ学生の頃、早稲田大学新聞に中村宏さんの作品が大きく載っていて魅せられた。中村宏さんの初期の頃、コラージュ風の作品の中によく便器が出てくるが、初めはデュシャンが「泉」と題して便器を展示したのをモチーフにしていると思っていた。それが展覧会で映画監督になりたかったという言葉を見て、この便器は今村昌平監督の『豚と軍艦』のラストシーンに出てくる、主人公の長門裕之が顔を突っ込むあの便器だと思った。

 中村宏さんの最近の作品はますます映画の中の1シーン、それも超高速で動くものを平面で表そうとしているようだ。映画であれば、1シーンの作り方も大事だろうが、やはり結果としては連続で描かれていくから、つまるところは「何が伝えたかったか」ということにあるように思う。何をテーマにしてどのように描いたかで人は心動かされる。テクニックばかりに凝った映画はすごいねで終わってしまう。淡々と時間を追っただけの映画、最近では河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」が印象的だった。

 私が高校の教員だった頃、「いっしょにインドへ行かないか」と誘ってくれた画家、山田彊一さんの個展が9月8日から17日まで、丸の内のイサムアートギャラリーで開催される。この人との縁も深いものがある。私は行く気満々だったのに、私の上部が許さなかったので、断念せざるを得なかったけれど、あの時、全てを決別して行っていたらと後から何度も思った。しかし今さら手遅れである。今ある自分は全て私自身が選んだ自分である。これからでもボチボチと、もう一度、山田彊一さんについていってもよい。「お断りだね」と彼は言うだろうが。個展が楽しみだ。
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自由に飛べ

2007年09月03日 22時11分54秒 | Weblog
 日曜日の朝、先にサナギになった方から蝶が飛び出した。女子マラソンを見ていて、実際に羽化するところは見損なってしまった。ミカンの木が置いてある部屋に行くと、何かが動いた。フワッとした柔らかな動きだ。窓辺にアゲハチョウがいる。羽化して間がないのだろう。羽をいっぱいに広げて、空気に触れさせようとしている。サナギの時は5センチもなかったのに、羽を広げると10センチ以上はある。

 このミカンの木にはたくさんの幼虫が葉をバリバリと食べていた。それがいつの間にかいなくなってしまった。そのことが気になって、最後の2匹になった時に、家の中にいれた。どうしていなくなってしまったのか、それはまだ謎だけれど、外敵から守ってやれば必ず蝶になることはハッキリした。イモムシからサナギになる時、1匹は床に落ちてきた。これは今年のことではないが、ミカンの木から遠い鉢の縁で越冬したサナギを見つけたこともある。

 アゲハチョウのサナギには緑色のものと茶色のものと2種類ある。初めは違う蝶だと思っていたが、そうではなく、昆虫によくある擬態のようだ。鉢のような茶色のものにへばりついて羽化する時は茶色のサナギになり、ミカンの木に残って羽化する時は緑色のサナギになるようだ。確かにどちらも保護色に囲まれ、見つけにくい。昆虫の偉大な智恵というべきか。

 イモムシの時も、小さな時は茶色くてまるで鳥か虫のフンのようだ。それが見る間に大きくなって美しい緑色に変わる。よく見ないとどこにいるのかわからないくらいよくできている。それでも人間の私は彼らのフンがどこに落ちているかで、居場所を見つけ出す。私がイモムシを食べる小鳥ならば的中率は100%だ。さて、それにしてもそうして育ったたくさんのイモムシが突然いなくなってしまうのはどうしてなのだろう。

 今、サナギのもう1匹も明日の朝には羽化するかもしれない。できればその様子を知りたいと思うけれど、それよりも無事に飛び立って欲しい。我が家のルーフガーデンにはたくさんの花が咲いている。どこからかわからないが、虫が来て花を食べたり、葉を食べたりしている。大きな被害がないうちは虫を退治しない。彼らも必死で生きているのだから、我が家の花もまた多少は彼らの犠牲にならなくてはならないだろう。それが自然というものだと私は思っている。

 昔、好きになった女性を、蝶を飼育するように閉じ込めてしまう洋画があったが、そしてまた日本でも何年にもわたって女の子を部屋に閉じ込めていた事件があったが、確かに美しいものを自分だけで独占しておきたい気持ちはよくわかる。けれどもこの蝶ですら、自由に飛び交う権利がある。生きているものは全て、背負う運命があり、それを自分の勝手な思いで変えてはならないはずだ。なかなか飛び立たないアゲハチョウを外の自由な世界に戻してやることが私の役目だ。脅かさないようにそっとそっと近づいて、網戸を開けてやる。

 それでもアゲハチョウはジッとして動かない。羽化しても何も食べていないのだからエネルギーが残っていないのかと心配になる。少しずつ動かして、やっと外へと導き出した。サッと羽を広げ、アゲハチョウは見事に空中を飛行していった。ああよかった。これであのアゲハチョウも蝶になれた。青い空をヒラヒラとどこへ行くのだろう。鳥に食べられたりはしないのだろうか。たとえそうなったとしても、部屋の中で閉じ込められて過ごすより、本来の「蝶」だったのではないかと思う。
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二人で食事

2007年09月02日 22時19分18秒 | Weblog
 昨夜は孫娘と二人だけの晩ご飯となった。夕方、「今日は1時間で帰ってくるから」と言ってプールへ出かけて行った。冷蔵庫を見て、晩ご飯の用意をする。孫娘は午前中もプールで合同練習に参加してきたばかりなのに、まだプールへ行くというのだから、よほど水泳が好きなのだろう。「塾はおもしろくないけれど、プールは楽しい」と言う。「それは当たり前だろう。塾でもプールのような友だちができれば、楽しくなるのと違う?」と言うと、「プールでも泳いでいる時は、一人だからいっしょだよ」と答える。

 なるほど彼女にとっては塾もプールも「つらい」ことには変わりない。それでもプールが好きなのはやはり水泳そのものが好きなのだろう。「プールも塾も怠けたらすぐに結果が表れる」と言う。「まあ、日ごろの努力がいかに大切かということよ」と大人のようなことを言う。私が中学生の時に、孫娘くらいに悟っていたらもう少しましな人間になっていたかもしれないと、孫娘から教えられる。

 玉ネギとニンジンとキノコとあく抜きしたゴボウに豚肉を加え、さらに後からジャガイモも入れて野菜たっぷりの煮物を作る。オクラと青梗菜を茹で、トマトときゅうりも並べてサラダにした。ジャコにキムチをのせてもう一品作る。孫娘の良いところは、こうした料理を見るなり「うまそう!」と言ってくれるところだ。さらに一口食べると「うまい!」と言う。女の子なんだから「おいしい」と言った方が良いのだが、「おいしい」というよりは「うまい」の方が真実味があるから不思議だ。

 私はビールを飲み、二人でおしゃべりしながら食べる。自分の娘たちの時にはなかった、ゆったりとした時間だ。娘たちの時は、ついつい行儀を注意したり、小言を言ってしまっていたように思う。歳をとることのよさは、体験が豊富になることだ。そして自ずと結果を知ることができる。勉強もそうだが、たとえどんなに良い成績を得たとしても、人の悪口を言ったり、人を陥れたり、人を騙したり、そういうことが人としてすべきことではないことがわかることが大事なことだ。娘たちにくどくどと私が言い聞かせてきた「人には優しく、自分には厳しく」を実践してくれればよいと思う。

 孫娘は、自分の好きなテレビを見ている。私はそれを許している。娘たちの子どもの時は、テレビは働いてきた大人が癒す娯楽のために見るもの、あなたたちは何のストレスもないのだから見る必要がないと切り捨ててきた。子どもたちからすれば、自分の価値観ばかり押し付ける父親でしかなかった。孫娘が見ているテレビは、娘たちが見ていたのと同じ他愛もないドラマだ。そんな時間があってもよいのではないか、そう思える余裕がある。

 ストイックに生きても、そうでなくても、人生はそれほど変わるものではない。自分が何を大切に思って生きるのか、そのことの方が大事なように思う。大人はもちろん子どものために、子どもたちの可能性を最大限伸ばす環境を作ってやる必要があるし、親はそのために努力している。孫娘が、祖父母のことをどのように感じているか、それは彼女のことであって、祖父母である私たちが彼女のために何をするか、何ができたか、それが私たちの課題なのだ。

 とはいえ、私は自然体で接している。特別に何かを意識するわけではなく、あなたの祖父である私が何を求めていたのか、くどいほど伝えていきたい。それは先人の果たす役割だろう。今夜、彼女は明日から始まる課題テストに向けて猛烈に勉強している。先生役のカミさんがうっとりうっとりしていると、「ママちゃん」と怒鳴っている。「どう、勉強できた?」と聞くと、「ウン、なんか自信満々!」と言う。こういう時は意外に要注意なのだけれど、そのことは彼女もわかっているようだから、まあいいかと思う。とりあえずは明日のテストの健闘を祈っておこう。
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友だちと恋人

2007年09月01日 19時01分49秒 | Weblog
 人の欲望には底知れないものがある。美しい景色に出会うとこの景色をあの人と一緒に見たいと思うし、珍しい地酒が手に入れば、あの人と飲みたいと思う。自分が感動したからとあの人にもこの本を読んで欲しいと思う。一緒に美術館に行ったり、映画や芝居を観たり、街角を歩いたり、食事をしたり、共有するものを欲しがるのはなぜなのだろう。以下は友人のブログを私なりに書き直してみた。

 ▽▽

 先日のことだ。中学高校生の時からの友だち3人で、昼食を一緒にした時、ブログ仲間でもある一人の友だちが私に、私の今一番大事な女友だちの話をもっと詳しく聞かしてくれないかと唐突に話しか掛けてきた。

 「あんまり、しゃべりたくないなあ」と答えると、「お前とその人のことを小説に書きたいんだ」と言う。13年間も付き合ってきて、プラトニックでいられることが不思議でたまらんからだとも言う。

 私たちは知り合ってから、妙に気が合って、一緒に食事に行ったり、飲みに行ったりしているがこの間に、私の中に恋心が芽生えた時があったのは確かである。
ある時、彼女は私にこう言った。「奥さんも子供もある人と、恋人同士になってしまうと、必ず誰かが不幸になるワ。だから、人間として、お互いに必要なら、私たちはずっと、友だち以上恋人未満でいた方がいいのヨ」。

 私はその時、この人を恋人にすることを強く望むより、気心が分かり、何でも話し合えて、心の休まる大事な人として、長く付き合える道の方を選んだのである。言葉を変えて言えば、今一番大事な人として、どこまで友だち以上恋人未満の付き合いができるかは分らないが、相手が私のことを大事な人と思わなくなったり、必要だと思わなくなるまで、とことん付き合ってみようと、心に強く決めたのだ。

 結果として、彼女も私を必要な人だと思ってくれ、私も途絶えることなく今一番大事な人だと思い続けてきたからこそ、紆余曲折はあったにしろ、あの時の友だち以上恋人未満の関係を、13年経った今でも、続いているに過ぎない。

 ただ、これだけは言える。彼女との間に共通の言葉がなかったら、これだけ長く、友だち以上恋人未満の関係を続けてこれなかっただろうということだ。共通の言葉と言うのは、ただ単に日本語で話ができるということではない。五感を使った擬似言葉も含めた、あらゆる種類の言葉だという意味だ。

 彼女は隣りの中学校の卒業で、いわば同じ町で思春期と青春期を過ごしたこと、彼女が私と付き合いだしてから住んだ町は、私が勤めていた会社から10分と掛からない隣り町で、生い立ちや生活ぶりなど多くを語らなくても分かり合えてしまうことなども、一種の言葉だと解釈できる。生活環境も生活レベルも差がある訳でもなく、価値観も、人として大事なものは何かというコンセプトも、私たちは似通っていて、それもまた、ある意味では共通の言葉としての機能を果たしている。

 そして当然、口に出して言う言葉も、いつも同じフィールドに立っていなければならない。同じフィールドに立っていなければ、誤解を招くからだが、それだって大きな差がある訳ではない。友だちに「お前の会話は、主語が曖昧で、分り辛い。だから、話があちこちに飛ぶんだ」と嫌味を言われてしまった。後から考えてみて、彼女との会話に慣れてしまった私には、気をつけてしゃべっていると思っていても、友だちが指摘するように、言葉をはしょったしゃべり方をしているのかも知れない。

 もう一つ思うのは、同じ日本人でよかったと思うことである。いつも冗長で早口の私が、言葉を使えなかったら、二人の関係はこんなに長く続かなかったであろう。いつも言い続けることで、気持の行き違いを修正している部分があるからだが、それでも物足らない時は、私は、彼女に詩という形を借りて手紙を書いたり、メールを送ったりする。

 時には彼女と食事をしたり、お酒を飲んだりした時、二人だけの空間で、目と耳と、匂いや触覚や味覚という五感を使い、言葉を交わしているのである。そのことが実感でき、満たされている気持を持ち続けているのは、私なのだ。やはり、私たちの関係は、小説の素材足り得ない。

 何故、そこまで思い込むのかとよく聞かれるが、答えはただ一つ、彼女は、今一番大事な女友だちだからである。それ以上でもそれ以下でもない。

 ▽▽

 友人は昔から素直な人だった。いつも相手を傷つけないようにしていた。好きな女性は多かったけれど、振り返ってみれば一人の人に限られていた。彼女と別れて、何を根拠にか、28歳までは結婚しないと決めたと言っていた。一歩踏み出すことで、傷つくことは多い。それを踏み出さずにやってきたことは彼ならば確かであろう。それを悲しいと見るか、エライやっちゃと見るかは人それぞれだ。自制心に欠ける私にはとてもできない。

 友人の一番大事な女友だちを私の娘に仕立てて、人が何を求めて生きているのかを物語りにしてみたい。そのためにはもう少し、彼女の話を聞かなくてはならない。彼が話してくれるのを待つより仕方ない。
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