遅れてサナギになった方も今朝飛び立った。サナギから出て、身体を広げているところに出会わせたが、まだ羽全体は伸びきっていなかった。ゆっくり時間をかけて少しずつ大きくなっていく。風船が膨らむように、しかし逆に平に伸びていくと言った方が適切だ。それでも力がないのか、まだその時期ではないのか、すぐには飛び立たず、時々大きく羽を広げて充分に羽を空気に触れさせている。
サナギになる前は確かによく食べた。何度も書くが、葉を食べる時にはバリバリという音が聞こえるほどだった。ひたすら食べ太ってコロンコロンになる。そして再び動き回って羽化する場所を決めると途端に小さくなってしまう。それから9日間、ぴくりとも動かずに待つ。何を待つのかわからないが、どんなに風が吹こうが雨になろうが、何も変らない。家の中に入れたから、外の変化についていけるだろうかと心配したが、やはり思ったとおり、朝になって羽化し始めたと思う。
昆虫は正確だなあーと思った時、どういうわけか、今村昌平監督の『日本昆虫記』を思い出した。映画のストーリーは何も覚えていないが、畑の中でお乳が張って困る嫁のその乳房を、義父が吸っていた場面だけはよく覚えている。胸がドキドキするほどエロチックで、美しいというより残虐で、残虐というような獣的ではなく、やはり昆虫のようだったのかもしれない。あの映画になぜ『日本昆虫記』という題名がつけられたのか、映画監督になりたかったのだから、どうして調べてみようという気にならなかったのだろう。
「映画監督になりたかった」ということを、先日、名古屋市立美術館で開かれている『中村宏展』を見て、中村宏さんもそうだったのかと思った。私がまだ学生の頃、早稲田大学新聞に中村宏さんの作品が大きく載っていて魅せられた。中村宏さんの初期の頃、コラージュ風の作品の中によく便器が出てくるが、初めはデュシャンが「泉」と題して便器を展示したのをモチーフにしていると思っていた。それが展覧会で映画監督になりたかったという言葉を見て、この便器は今村昌平監督の『豚と軍艦』のラストシーンに出てくる、主人公の長門裕之が顔を突っ込むあの便器だと思った。
中村宏さんの最近の作品はますます映画の中の1シーン、それも超高速で動くものを平面で表そうとしているようだ。映画であれば、1シーンの作り方も大事だろうが、やはり結果としては連続で描かれていくから、つまるところは「何が伝えたかったか」ということにあるように思う。何をテーマにしてどのように描いたかで人は心動かされる。テクニックばかりに凝った映画はすごいねで終わってしまう。淡々と時間を追っただけの映画、最近では河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」が印象的だった。
私が高校の教員だった頃、「いっしょにインドへ行かないか」と誘ってくれた画家、山田彊一さんの個展が9月8日から17日まで、丸の内のイサムアートギャラリーで開催される。この人との縁も深いものがある。私は行く気満々だったのに、私の上部が許さなかったので、断念せざるを得なかったけれど、あの時、全てを決別して行っていたらと後から何度も思った。しかし今さら手遅れである。今ある自分は全て私自身が選んだ自分である。これからでもボチボチと、もう一度、山田彊一さんについていってもよい。「お断りだね」と彼は言うだろうが。個展が楽しみだ。
サナギになる前は確かによく食べた。何度も書くが、葉を食べる時にはバリバリという音が聞こえるほどだった。ひたすら食べ太ってコロンコロンになる。そして再び動き回って羽化する場所を決めると途端に小さくなってしまう。それから9日間、ぴくりとも動かずに待つ。何を待つのかわからないが、どんなに風が吹こうが雨になろうが、何も変らない。家の中に入れたから、外の変化についていけるだろうかと心配したが、やはり思ったとおり、朝になって羽化し始めたと思う。
昆虫は正確だなあーと思った時、どういうわけか、今村昌平監督の『日本昆虫記』を思い出した。映画のストーリーは何も覚えていないが、畑の中でお乳が張って困る嫁のその乳房を、義父が吸っていた場面だけはよく覚えている。胸がドキドキするほどエロチックで、美しいというより残虐で、残虐というような獣的ではなく、やはり昆虫のようだったのかもしれない。あの映画になぜ『日本昆虫記』という題名がつけられたのか、映画監督になりたかったのだから、どうして調べてみようという気にならなかったのだろう。
「映画監督になりたかった」ということを、先日、名古屋市立美術館で開かれている『中村宏展』を見て、中村宏さんもそうだったのかと思った。私がまだ学生の頃、早稲田大学新聞に中村宏さんの作品が大きく載っていて魅せられた。中村宏さんの初期の頃、コラージュ風の作品の中によく便器が出てくるが、初めはデュシャンが「泉」と題して便器を展示したのをモチーフにしていると思っていた。それが展覧会で映画監督になりたかったという言葉を見て、この便器は今村昌平監督の『豚と軍艦』のラストシーンに出てくる、主人公の長門裕之が顔を突っ込むあの便器だと思った。
中村宏さんの最近の作品はますます映画の中の1シーン、それも超高速で動くものを平面で表そうとしているようだ。映画であれば、1シーンの作り方も大事だろうが、やはり結果としては連続で描かれていくから、つまるところは「何が伝えたかったか」ということにあるように思う。何をテーマにしてどのように描いたかで人は心動かされる。テクニックばかりに凝った映画はすごいねで終わってしまう。淡々と時間を追っただけの映画、最近では河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」が印象的だった。
私が高校の教員だった頃、「いっしょにインドへ行かないか」と誘ってくれた画家、山田彊一さんの個展が9月8日から17日まで、丸の内のイサムアートギャラリーで開催される。この人との縁も深いものがある。私は行く気満々だったのに、私の上部が許さなかったので、断念せざるを得なかったけれど、あの時、全てを決別して行っていたらと後から何度も思った。しかし今さら手遅れである。今ある自分は全て私自身が選んだ自分である。これからでもボチボチと、もう一度、山田彊一さんについていってもよい。「お断りだね」と彼は言うだろうが。個展が楽しみだ。