友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

自民党総裁選挙の報道

2007年09月19日 22時12分04秒 | Weblog
 自民党の総裁選びのために、街頭で候補二人の演説が行われ、たくさんの人々が聞き入っている様子がテレビや新聞で報道されている。テレビ局の各社は、町の声を拾い集めて、福田が有利だとか麻生は若い人に人気だとか、パーセントまでつけて報道している。自民党の総裁選挙は、国会議員と各都道府県の代表3名の投票で決まる。一般市民にはもともと投票する権利はない。それなのに、「あなたは自民党総裁に誰が適任と思いますか」といったアンケートを行い、演説のうまさでは麻生が有利などとも報じている。

 自民党員による選挙であって、一般市民には投票権はないのに、報道だけを見ていると、私たち市民も選挙に参加できるような気になってしまう。これはおかしい。自民党総裁選挙が終われば、常識のある総裁ならば、衆議院を解散して総選挙を行うだろう。これだけ街頭での総裁選挙の演説が行われることは、知らず知らずのうちに自民党を宣伝しているようなものだ。やり方がうまいネと思う。

 どこの新聞だったか、報道する側の責任に言及していた。新聞にしろテレビにしろ、先に先にと追いかけているが、本当にこれでよいのだろうかという自問だ。安倍総理が突然に辞任した。次の総理は福田なのか麻生なのか、組閣人事はどうなるのか、そんな先のことへと関心を持たせることばかりだ。なぜ、安倍総理は辞任したのか、安倍氏を総理に担ぎ上げた理由や破綻した要因は何か、ここになぜ報道はメスを入れないのか、結果ばかりを興味本位に報じることは報道の使命を失っていることだ。

 テレビはともかく、新聞までも同じ姿勢ということが気にかかる。いやきっとそのうちに、テレビの方が報道姿勢を鮮明に打ち出してくるかもしれない。右よりの雑誌が売れないで困っているそうだ。当たり前だと私は思う。全体が右寄りシフトになっているのだから、わざわざ正論の右より雑誌を読む必要がない。それを言うなら、左よりの雑誌はどこへ行ってしまったのか。かろうじて「週刊金曜日」が残っているくらいだ。報道は公平でなくてはならないとよく言われる。公平であるために、両論を併記するか、何も載せないか、という発想にジャーナリズムは陥っていないかと私は不安だ。

 1枚の写真にも、真実と同時に写し手の思想がある。客観的である報道にも、送り手の思想がある。思想の無いような報道は実際にはあり得ない。思想は価値観だ。報道する者の価値観を、受け取り手である市民のために働く価値観にするか否かを決める力も、市民の側にあると思う。市民が面白いことだけを第一に考えるならば、報道も次第にそうなっていくであろう。と言うことはまた、逆にも真なりであるはずだ。

 「朝日新聞を非難されていますね」と、知人が私に言うが、私が最近の朝日新聞に不満を持つのも、報道する側の思想が不鮮明だからだ。それだけ朝日新聞は追い込まれているのだろうが、乗り切るための舵に私は不安を感じている。好きでもないのに、国民なら「好きだ」と言えと強要する愛国心。授業ならば評価があって当然だから、「道徳」の授業を教科として位置づけよ。こうした安倍総理のような新保守主義者は若い人たちに多い。彼らは今度の安倍政権の挫折で一旦は権力の座から遠のくが、再び現れることは間違いないだろう。

 何を大切にしなくてはならないか、市民がしっかりしないと、報道はどんどんお金と力のある方に向かってしまう。
コメント
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