人の欲望には底知れないものがある。美しい景色に出会うとこの景色をあの人と一緒に見たいと思うし、珍しい地酒が手に入れば、あの人と飲みたいと思う。自分が感動したからとあの人にもこの本を読んで欲しいと思う。一緒に美術館に行ったり、映画や芝居を観たり、街角を歩いたり、食事をしたり、共有するものを欲しがるのはなぜなのだろう。以下は友人のブログを私なりに書き直してみた。
▽▽
先日のことだ。中学高校生の時からの友だち3人で、昼食を一緒にした時、ブログ仲間でもある一人の友だちが私に、私の今一番大事な女友だちの話をもっと詳しく聞かしてくれないかと唐突に話しか掛けてきた。
「あんまり、しゃべりたくないなあ」と答えると、「お前とその人のことを小説に書きたいんだ」と言う。13年間も付き合ってきて、プラトニックでいられることが不思議でたまらんからだとも言う。
私たちは知り合ってから、妙に気が合って、一緒に食事に行ったり、飲みに行ったりしているがこの間に、私の中に恋心が芽生えた時があったのは確かである。
ある時、彼女は私にこう言った。「奥さんも子供もある人と、恋人同士になってしまうと、必ず誰かが不幸になるワ。だから、人間として、お互いに必要なら、私たちはずっと、友だち以上恋人未満でいた方がいいのヨ」。
私はその時、この人を恋人にすることを強く望むより、気心が分かり、何でも話し合えて、心の休まる大事な人として、長く付き合える道の方を選んだのである。言葉を変えて言えば、今一番大事な人として、どこまで友だち以上恋人未満の付き合いができるかは分らないが、相手が私のことを大事な人と思わなくなったり、必要だと思わなくなるまで、とことん付き合ってみようと、心に強く決めたのだ。
結果として、彼女も私を必要な人だと思ってくれ、私も途絶えることなく今一番大事な人だと思い続けてきたからこそ、紆余曲折はあったにしろ、あの時の友だち以上恋人未満の関係を、13年経った今でも、続いているに過ぎない。
ただ、これだけは言える。彼女との間に共通の言葉がなかったら、これだけ長く、友だち以上恋人未満の関係を続けてこれなかっただろうということだ。共通の言葉と言うのは、ただ単に日本語で話ができるということではない。五感を使った擬似言葉も含めた、あらゆる種類の言葉だという意味だ。
彼女は隣りの中学校の卒業で、いわば同じ町で思春期と青春期を過ごしたこと、彼女が私と付き合いだしてから住んだ町は、私が勤めていた会社から10分と掛からない隣り町で、生い立ちや生活ぶりなど多くを語らなくても分かり合えてしまうことなども、一種の言葉だと解釈できる。生活環境も生活レベルも差がある訳でもなく、価値観も、人として大事なものは何かというコンセプトも、私たちは似通っていて、それもまた、ある意味では共通の言葉としての機能を果たしている。
そして当然、口に出して言う言葉も、いつも同じフィールドに立っていなければならない。同じフィールドに立っていなければ、誤解を招くからだが、それだって大きな差がある訳ではない。友だちに「お前の会話は、主語が曖昧で、分り辛い。だから、話があちこちに飛ぶんだ」と嫌味を言われてしまった。後から考えてみて、彼女との会話に慣れてしまった私には、気をつけてしゃべっていると思っていても、友だちが指摘するように、言葉をはしょったしゃべり方をしているのかも知れない。
もう一つ思うのは、同じ日本人でよかったと思うことである。いつも冗長で早口の私が、言葉を使えなかったら、二人の関係はこんなに長く続かなかったであろう。いつも言い続けることで、気持の行き違いを修正している部分があるからだが、それでも物足らない時は、私は、彼女に詩という形を借りて手紙を書いたり、メールを送ったりする。
時には彼女と食事をしたり、お酒を飲んだりした時、二人だけの空間で、目と耳と、匂いや触覚や味覚という五感を使い、言葉を交わしているのである。そのことが実感でき、満たされている気持を持ち続けているのは、私なのだ。やはり、私たちの関係は、小説の素材足り得ない。
何故、そこまで思い込むのかとよく聞かれるが、答えはただ一つ、彼女は、今一番大事な女友だちだからである。それ以上でもそれ以下でもない。
▽▽
友人は昔から素直な人だった。いつも相手を傷つけないようにしていた。好きな女性は多かったけれど、振り返ってみれば一人の人に限られていた。彼女と別れて、何を根拠にか、28歳までは結婚しないと決めたと言っていた。一歩踏み出すことで、傷つくことは多い。それを踏み出さずにやってきたことは彼ならば確かであろう。それを悲しいと見るか、エライやっちゃと見るかは人それぞれだ。自制心に欠ける私にはとてもできない。
友人の一番大事な女友だちを私の娘に仕立てて、人が何を求めて生きているのかを物語りにしてみたい。そのためにはもう少し、彼女の話を聞かなくてはならない。彼が話してくれるのを待つより仕方ない。
▽▽
先日のことだ。中学高校生の時からの友だち3人で、昼食を一緒にした時、ブログ仲間でもある一人の友だちが私に、私の今一番大事な女友だちの話をもっと詳しく聞かしてくれないかと唐突に話しか掛けてきた。
「あんまり、しゃべりたくないなあ」と答えると、「お前とその人のことを小説に書きたいんだ」と言う。13年間も付き合ってきて、プラトニックでいられることが不思議でたまらんからだとも言う。
私たちは知り合ってから、妙に気が合って、一緒に食事に行ったり、飲みに行ったりしているがこの間に、私の中に恋心が芽生えた時があったのは確かである。
ある時、彼女は私にこう言った。「奥さんも子供もある人と、恋人同士になってしまうと、必ず誰かが不幸になるワ。だから、人間として、お互いに必要なら、私たちはずっと、友だち以上恋人未満でいた方がいいのヨ」。
私はその時、この人を恋人にすることを強く望むより、気心が分かり、何でも話し合えて、心の休まる大事な人として、長く付き合える道の方を選んだのである。言葉を変えて言えば、今一番大事な人として、どこまで友だち以上恋人未満の付き合いができるかは分らないが、相手が私のことを大事な人と思わなくなったり、必要だと思わなくなるまで、とことん付き合ってみようと、心に強く決めたのだ。
結果として、彼女も私を必要な人だと思ってくれ、私も途絶えることなく今一番大事な人だと思い続けてきたからこそ、紆余曲折はあったにしろ、あの時の友だち以上恋人未満の関係を、13年経った今でも、続いているに過ぎない。
ただ、これだけは言える。彼女との間に共通の言葉がなかったら、これだけ長く、友だち以上恋人未満の関係を続けてこれなかっただろうということだ。共通の言葉と言うのは、ただ単に日本語で話ができるということではない。五感を使った擬似言葉も含めた、あらゆる種類の言葉だという意味だ。
彼女は隣りの中学校の卒業で、いわば同じ町で思春期と青春期を過ごしたこと、彼女が私と付き合いだしてから住んだ町は、私が勤めていた会社から10分と掛からない隣り町で、生い立ちや生活ぶりなど多くを語らなくても分かり合えてしまうことなども、一種の言葉だと解釈できる。生活環境も生活レベルも差がある訳でもなく、価値観も、人として大事なものは何かというコンセプトも、私たちは似通っていて、それもまた、ある意味では共通の言葉としての機能を果たしている。
そして当然、口に出して言う言葉も、いつも同じフィールドに立っていなければならない。同じフィールドに立っていなければ、誤解を招くからだが、それだって大きな差がある訳ではない。友だちに「お前の会話は、主語が曖昧で、分り辛い。だから、話があちこちに飛ぶんだ」と嫌味を言われてしまった。後から考えてみて、彼女との会話に慣れてしまった私には、気をつけてしゃべっていると思っていても、友だちが指摘するように、言葉をはしょったしゃべり方をしているのかも知れない。
もう一つ思うのは、同じ日本人でよかったと思うことである。いつも冗長で早口の私が、言葉を使えなかったら、二人の関係はこんなに長く続かなかったであろう。いつも言い続けることで、気持の行き違いを修正している部分があるからだが、それでも物足らない時は、私は、彼女に詩という形を借りて手紙を書いたり、メールを送ったりする。
時には彼女と食事をしたり、お酒を飲んだりした時、二人だけの空間で、目と耳と、匂いや触覚や味覚という五感を使い、言葉を交わしているのである。そのことが実感でき、満たされている気持を持ち続けているのは、私なのだ。やはり、私たちの関係は、小説の素材足り得ない。
何故、そこまで思い込むのかとよく聞かれるが、答えはただ一つ、彼女は、今一番大事な女友だちだからである。それ以上でもそれ以下でもない。
▽▽
友人は昔から素直な人だった。いつも相手を傷つけないようにしていた。好きな女性は多かったけれど、振り返ってみれば一人の人に限られていた。彼女と別れて、何を根拠にか、28歳までは結婚しないと決めたと言っていた。一歩踏み出すことで、傷つくことは多い。それを踏み出さずにやってきたことは彼ならば確かであろう。それを悲しいと見るか、エライやっちゃと見るかは人それぞれだ。自制心に欠ける私にはとてもできない。
友人の一番大事な女友だちを私の娘に仕立てて、人が何を求めて生きているのかを物語りにしてみたい。そのためにはもう少し、彼女の話を聞かなくてはならない。彼が話してくれるのを待つより仕方ない。